第19話 砂嵐の夜と温かいスープ
ボーンイーターの谷を抜けてから、俺たちの旅は比較的順調に進んでいた。
相変わらず荒涼とした景色が続いているが、サラの正確なナビゲートのおかげで、道に迷うことも、危険な変異生物の縄張りに踏み込むこともなかった。
だが、俺たちの心を蝕んでいたのは、別の脅威だった。
「クソッ……またかよ」
キバが、バイクのエアフィルターを叩きつけながら悪態をついた。フィルターは、きめ細かい砂でびっしりと目詰まりを起こしている。
西に進むにつれて、風に含まれる砂の量が増え、その粒子も細かくなっていた。それは、機械類にとっては天敵だ。バイクのエンジンは不調をきたし始め、俺たちが持ち込んだ数少ない精密機器である、古い方位磁針も狂い始めていた。
そして何より、俺たち自身を消耗させていた。
砂は、容赦なく目や口に入り込み、呼吸をするだけで喉がざらつく。夜になれば、風はさらに勢いを増し、体温を奪っていった。
「この先、三日はこの砂地が続くわ。この季節は、『嘆きの砂嵐』と呼ばれる大規模な砂嵐が発生しやすい。それに捕まったら、一週間は身動きが取れなくなる」
サラが、地図にも載っていない情報を、淡々と告げる。
「冗談じゃねえ。そんなことになったら、水も食料も底をつくぞ」
ザギが、苦々しい顔で空を見上げた。空は、黄色い霞がかかったように、どんよりと淀んでいる。
その夜、サラの懸念は現実のものとなった。
地平線の彼方から、巨大な砂の壁が、唸りを上げてこちらに迫ってきたのだ。
風が轟音へと変わり、視界は一瞬にして奪われる。
「砂嵐だ! 岩陰にバイクを寄せろ! 飛ばされるなよ!」
ザギの怒号も、風の音にかき消されそうだ。
俺たちは、近くにあった巨大な岩の陰に身を寄せ、バイクを互いに固定し、嵐が過ぎ去るのをひたすら耐えるしかなかった。
砂の粒が、嵐となって全身を叩きつける。布で顔を覆っても、息が詰まりそうだ。体感温度は、どんどん下がっていく。
どれくらいの時間が経っただろうか。
嵐の勢いは、一向に衰える気配がない。このままでは、夜が明ける前に、俺たちの体力は限界を迎えるだろう。
「……クソ……寒い……」
キバが、歯の根を鳴らしながらうずくまっている。
俺も、手足の感覚が麻痺し始めていた。こんな状況では、焚き火を熾すことさえ不可能だ。
朦朧とする意識の中、俺はふと、じいちゃんの日誌の一節を思い出した。
『ポテトは、デンプンを多く含む。デンプンは、糖になり、エネルギーになる。そして、発酵させれば……熱を生む』
発酵熱……。そうだ、その手があった!
俺は、凍える手で、自分の荷物の中から、クイックグロウの種イモを数個取り出した。そして、持っていたナイフで、それを出来るだけ細かく刻んでいく。
「ユウキ……? 何してんだ、そんな時に……」
ザギが、かろうじて声を絞り出す。
「熱を、作るんだ」
俺は、刻んだポテトを、空になった革袋の中に詰め込んだ。そして、水筒に残っていた貴重な水を、ほんの少しだけ注ぎ込む。さらに、栄養剤として持っていた乾燥した獣の糞をひとつまみ加えた。これは、発酵を促す微生物の塊だ。
俺は革袋の口を固く縛ると、それを自分の腹に抱え、体温で温めながら、力いっぱい揉み始めた。
デンプンと、水と、微生物。そして、俺の体温。
発酵が始まるための、最低限の条件は揃っているはずだ。
頼む、動いてくれ……!
俺は、祈るような気持ちで、革袋を揉み続けた。
一分、五分、十分……。
変化は、すぐには訪れなかった。俺の体温も、どんどん奪われていく。もうダメかもしれない。そう諦めかけた、その時だった。
腕の中の革袋が、ほんのわずかに、温かくなった気がした。
「……!」
それは、気のせいではなかった。
革袋は、ゆっくりと、しかし確実に、熱を持ち始めたのだ。発酵が、始まったのだ。
俺は、その即席の『ポテトカイロ』を、震えているキバの懐に押し込んだ。
「う……お、おい……なんだこれ……あったけえ……」
キバが、驚きの声を上げる。
俺は、同じものをもう一つ作り、今度はサラに渡した。彼女は、驚いたように俺の顔を見たが、何も言わずにそれを受け取ると、ローブの中で強く抱きしめた。
ポテトが生み出す、ささやかな熱。
それは、燃え盛る炎には遠く及ばない。だが、この極限の寒さの中では、命を繋ぐための、何よりも尊い温もりだった。
俺たちは、ポテトカイロを互いに回しながら、身を寄せ合い、砂嵐の一番激しい時間帯を、どうにか乗り切った。
夜が明け、嵐が嘘のように静まると、俺たちは砂の中から這い出した。
全員、疲労困憊だったが、誰一人として欠けてはいなかった。
「……助かったぜ、ユウキ。お前がいなかったら、俺たち、マジで凍え死んでたかもしれねえ」
キバが、心底からといった様子で言った。
「ポテトは、武器になるだけじゃねえんだな……」
その日の昼食は、少しだけ豪華になった。
俺は、残っていたクイックグロウと、乾燥野菜を鍋に入れ、スープを作ったのだ。味付けは、岩塩だけ。
だが、砂嵐で冷え切った体には、その温かいスープが、どんなご馳走よりも美味しく感じられた。
俺がスープを配っていると、サラが自分の器を持って、俺の前に立った。
「……そのスープ、少し分けてもらえるかしら」
それは、俺たちの間で、ごく当たり前の光景のはずだった。
だが、俺には、彼女が初めて、俺たちに何かを「求めた」ように思えた。
俺は、黙って彼女の器に、具が多めになるようにスープを注いであげた。
サラは、小さな声で「……ありがとう」と呟くと、仲間たちの輪から少し離れた場所で、ゆっくりとスープを口に運び始めた。
その姿を見ながら、俺は、サラの父親、アルブレヒトのことを考えていた。
彼が作った『ゴライアス』は、とても美味しかったという。
もしかしたら、彼も、誰かに「美味しい」と言ってほしかっただけなのかもしれない。ただ、その温かい気持ちが、どこかで道を間違えてしまっただけなのかもしれない。
俺は、自分の器に残ったスープを、一気に飲み干した。
温かい液体が、胃の腑に染み渡っていく。
食えないポテトもあれば、食えるポテトもある。
人を傷つけるポテトもあれば、人を温めるポテトもある。
その両方を知って、初めて、俺はポテトの本当の価値を語れるのかもしれない。
西のオアシスは、もうすぐそこまで来ているはずだった。
俺は、アルブレヒトが遺したという日誌に、一体何が書かれているのか、期待と、そして少しの恐れを感じていた。