第13話 旅支度と、すれ違う心
西のオアシスへの旅立ちが決まってから、三日が過ぎた。
フロンティアの村は、俺たちの出発に向けた準備で、慌ただしくも活気に満ちていた。ザギたちは、荒野の長旅に耐えうるよう、ハイエナから鹵獲したバイクの整備に余念がない。キバなどは、バイクのエンジンに妙な改造を施しては、ダントさんと「そんなもんより馬力が大事だ」「いや燃費だ」と専門用語だらけの口論を繰り広げている。
女たちは、保存食作りに追われていた。クイックグロウを蒸して潰し、平たく伸ばして乾燥させた『ポテト乾パン』は、軽くて日持ちもするため、長旅には欠かせない携行食だ。
そんな中、俺は自分の実験農場にこもっていた。
旅に持っていく、種イモの選別作業のためだ。
「……こいつは、ベーシック種。どんな環境でもある程度は育つ。こっちは、クイックグロウ。いざという時の食料確保に。そして、これはストーンポテト……護身用だな」
俺は麻袋に、様々な特性を持つポテトの種イモを慎重に詰めていく。これらは、俺の知識と技術の集大成であり、旅の生命線となるものだ。
そして、最後に手に取ったのは、小さな木箱に大切に保管された、数個のルナポテトだった。青白く輝くそれを見ていると、今でもあの時の興奮が蘇ってくる。
「……本当に、大丈夫なのかな」
背後から、不安そうな声がした。アンナだった。彼女は、俺が旅立つと決めてから、ずっと浮かない顔をしている。
「何がだ?」
「その……ルナポテトのことよ。サラが言ってたじゃない。制御できない力は、悲劇を生むだけだって……。ユウキ、あんたはすごいけど、でも、万能じゃないわ。もし、旅の途中で何かあったら……」
彼女の心配はもっともだった。俺だって、不安がないわけじゃない。
俺は、彼女を安心させるように、努めて明るく言った。
「だから、旅に出るんだろ? アルブレヒトの日誌を見つけて、この力を正しく使う方法を学ぶためにさ。大丈夫だって。俺には、ザギたちもついてる」
「……そういうことじゃ、ないのに」
アンナは、何か言いたげに唇を噛んだが、結局は俯いてしまった。
俺とアンナの間には、いつからか、微妙な溝が生まれていた。俺がポテトの新たな可能性に夢中になればなるほど、彼女は一歩引いた場所から、心配そうに俺を見つめている。その距離が、少しだけもどかしかった。
俺は話題を変えようと、彼女に一つの袋を手渡した。
「そうだ、アンナ。これを頼む。俺がいない間、こいつらを育ててみてくれないか」
「これは……?」
「トマトと、カボチャの種だ。ザギたちが、交易で他の集落から手に入れてきてくれた。こいつらと、ポテトを交配させられないかと思ってな」
じいちゃんの日誌には、異なる科の植物との交配についても、わずかな記述があった。成功すれば、ポテトの可能性はさらに広がるはずだ。トマトのように酸味のあるポテト、カボチャのように甘く、保存のきくポテト……。想像するだけで、胸が躍る。
「俺が品種改良の基礎を教える。畑の管理は、お前の方が俺よりずっと丁寧だからな。頼んだぞ、アンナ」
「……また、ポテトの話。あんたは、いつもそうね」
アンナは、力なく笑って種を受け取った。その笑顔が、なぜか俺の胸にチクリと刺さった。
その日の午後、俺は旅のメンバーと最後の打ち合わせをするため、村の広場に集まっていた。
メンバーは、俺、案内役兼護衛リーダーのザギ、戦闘とメカニック担当のキバ、そして偵察役の口数が少ない男、ノクトの四人。そして、もう一人。
「……準備はできたわ」
フード付きのローブをまとったサラが、静かにそこに立っていた。彼女の装備は、最低限の水筒と、一振りの短いナイフだけ。その瞳には、もはや憎悪の色はなく、ただ空虚な光が宿っているだけだった。
「よし、じゃあ……」
俺が旅の行程について切り出そうとした時、ザギが待ったをかけた。
「その前に、ユウキ。お前に渡しておきたいものがある」
ザギが差し出してきたのは、一丁の古びたクロスボウだった。ハイエナから鹵獲したものだろう。小型で、取り回しが良さそうだ。
「ポテトを投げるのもいいが、遠距離からの攻撃手段は多いに越したことはない。特に、荒野に潜む変異生物相手にはな。使い方くらいは、覚えておけ」
「……ああ。ありがとう、ザギ」
俺は、ずしりと重いクロスボウを受け取った。人を傷つけるための、本当の武器。その冷たい感触に、これから始まる旅が、村を守る戦いとはまた違う、厳しいものであることを改めて実感させられた。
打ち合わせを終え、解散しようとした時だった。
サラが、ぼそりと呟いた。
「……西のオアシスまでの道中、『砂漠クジラ』の骨の墓場を通るわ。あそこは、夜になると『ボーンイーター』が出る。鉄をも砕く顎を持つ、危険な獣よ」
それは、ただの情報提供だった。だが、俺たちの旅に協力するという、彼女なりの意思表示のようにも聞こえた。
「ボーンイーターか。厄介だな」ザギが眉をひそめる。「奴らの縄張りを抜けるには、骨の墓場を迂回するか、奴らが巣に戻っている昼間のうちに、音を立てず一気に駆け抜けるしかない」
「でも、昼間は遮蔽物のない荒野よ。日差しだけで体力を奪われる。それに、少しでも物音を立てれば、巣から出てくる可能性もある。危険な賭けね」とサラが付け加える。
いきなり、最初の難関にぶち当たった。
俺は、ふと自分の麻袋に詰めた種イモに目をやった。鉄をも砕く顎を持つ獣……。
「……いや、一つ、手があるかもしれない」
俺は、一つのアイデアを思いついていた。
ストーンポテトより硬く、アイアンポテトよりは手軽に作れる、中間的な特性を持つポテト。じいちゃんの日誌にあった、『セラミックポテト』の記述。特定の砂と粘土を混ぜた土で育てると、陶器のように硬く、そして熱に強いポテトが生まれるという。
「なあ、ザギ。この辺りで、白くて硬い粘土が採れる場所はないか?」
「白い粘土? ああ、南の川沿いに行けば、いくらでも……って、おい、まさかお前、また何か始める気か?」
呆れるザギを尻目に、俺の頭の中では、すでに新しいポテトの育成計画が組み立てられ始めていた。旅の準備は、まだ終わりそうにない。
その夜、俺は一人、自分の小屋で旅の地図を広げていた。
不意に、ドアが静かにノックされた。
「……ユウキ、いる?」
アンナだった。彼女は、昼間とは違う、何かを決意したような顔で立っていた。その手には、小さな包みが握られている。
「これ……」
彼女が差し出したのは、俺が昼間に渡した、トマトとカボチャの種だった。
「……私、やっぱり、できない。あんたの代わりに、ポテトの世話なんて」
「アンナ……?」
「私は、あんたみたいに、ポテトにすべてを捧げられない。怖いもの。ポテトが、あんたをどんどん遠くに連れて行ってしまうのが。村のみんなが、あんたを英雄みたいに崇めて、あんたがそれに頷いているのを見るのが……辛いのよ」
彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「私、あんたに、ただのユウキでいてほしかった……!」
その言葉は、俺の胸に深く、深く突き刺さった。
俺は、村を救うために、未来を切り拓くために、必死で走ってきたつもりだった。
だが、その過程で、一番近くにいたはずのアンナの心を、置き去りにしてしまっていたのかもしれない。
俺たちの間に横たわる溝は、俺が思っていたよりも、ずっと深く、そして暗かった。