第1話 錆びた大地の黄金
風が吹くたびに、赤錆びた色の砂塵が舞い上がる。
空はいつも鈍色の雲に覆われ、太陽の姿をまともに拝める日は年に数えるほどしかない。かつて「大崩壊」と呼ばれた厄災が世界を覆い尽くしてから、二百年以上の時が流れていた。大地は汚染され、かつて緑豊かだった星の面影は、古びた書物の中にしか存在しない。
そんな錆び色の荒野に、点と線で描いたように存在する集落が、俺たちの住む「フロンティア」だった。
「ユウキ! ぼーっとしてないで、手を動かせ! 日が暮れる前に水を汲みきらないと、夜は『奴ら』の時間だぞ!」
鋭い声に我に返ると、幼馴染のアンナが腰に手を当てて俺を睨んでいた。彼女の亜麻色の髪が、乾いた風に煽られて踊っている。俺より少し背の高い彼女は、いつもこうして俺の尻を叩くのが役目だった。
「わかってるよ。この子の顔色を見てただけだ」
俺は膝をついたまま、土の中から顔を出したばかりの小さな緑の芽に優しく語りかける。それは、この荒廃した世界で最も尊いもの――ポテトの芽吹きだった。
「またポテトと話してる……。あんたのその奇癖、いつになったら治るんだか」
アンナは呆れたようにため息をつくが、その声には心配の色が混じっている。彼女は現実主義者だが、根は優しい。だからこそ、ポテトに人生のすべてを捧げているような俺を、見捨てずにいてくれるのだろう。
俺の名前はユウキ。十六歳。このフロンティアで、ポテトを育てることに情熱を燃やす、ただのガキだ。
俺たちの集落は、奇跡的に汚染の度合いが低い土地に作られている。それでも、作物が育つのは至難の業だ。水は貴重で、土壌も痩せている。そんな過酷な環境でも力強く育ってくれるポテトは、俺たちにとって命そのものだった。食料であり、他の集落との交易品であり、希望の象徴でもある。
「ほら、今日の分の水だ。無駄にするなよ」
アンナが運んできてくれた革袋から、慎重に水を汲み、ポテトの根元にゆっくりと注ぐ。水が乾いた土に染み込んでいく音は、どんな音楽よりも心地よかった。
この畑は、村の共有地から少し離れた場所にある俺の『実験農場』だ。村のみんなが育てるのは、収穫量が安定している「フロンティアベーシック」という品種。だが俺は、亡くなったじいちゃんが遺した一冊の日誌を頼りに、新しいポテトの可能性を追い求めていた。
「じいちゃん、見ててくれよ。俺、絶対に世界一のポテトを作ってみせるから」
心の中で呟き、土を被せる。
その時だった。
「ユウキ! アンナ! いるか!」
切羽詰まった声と共に、村の長老であるギデオンさんが、息を切らしながら坂を駆け上がってきた。彼の顔には、普段の温和な表情はなく、深い絶望が刻まれている。
「長老、どうしたんですか? そんなに慌てて」
アンナが駆け寄ると、ギデオンさんはぜえぜえと肩で息をしながら、最悪の知らせを口にした。
「備蓄庫が……もうすぐ底をつく。今年のベーシック種の収穫も、日照り続きで例年の半分以下になりそうだ」
その言葉に、俺とアンナは息を呑んだ。
ポテトの備蓄は、村の生命線だ。それが尽きるということは、死を意味する。
「それだけじゃない」とギデオンさんは続けた。「偵察に出した者からの報告で、賊の一団『サンドクローラー』が、この辺りをうろついているらしい。奴らの狙いは、間違いなく我々の村だ」
サンドクローラー。
その名を聞いただけで、背筋が凍る思いがした。汚染された大地を改造バイクで走り回り、略奪と破壊の限りを尽くす無法者たち。弱い集落を見つけては、食料も水も、そして命さえも根こそぎ奪っていく。
食料がない。そして、賊が迫っている。
まさに、八方塞がりだった。
集落の中央広場に集められた村人たちの顔は、誰もが土気色だった。
「このままでは、冬を越せずにみんな飢え死にするか、サンドクローラーの奴隷にされるか……」
「どこかへ移住するにしても、この赤子を連れて、荒野を旅することなどできん!」
「ああ、神よ……我々をお見捨てになるのですか」
悲観的な声が飛び交い、すすり泣きが聞こえ始める。ギデオン長老も、ただ悔しそうに拳を握りしめるばかりで、有効な打開策を見つけ出せずにいた。
アンナが俺の袖をぎゅっと掴む。彼女の指先が、小さく震えていた。
「ユウキ……どうしよう……」
どうしよう? 決まってる。
俺は、震えるアンナの手をそっと握り返し、一歩前に出た。そして、ありったけの声で叫んだ。
「みんな、まだ諦めるのは早い!」
広場にいた全員の視線が、一斉に俺に突き刺さる。驚き、いぶかしみ、そして憐れむような目。ポテトのことしか頭にない風変わりな少年が、何を言うのか。そんな空気が場を支配する。
「ユウキ……?」
ギデオン長老が訝しげに俺の名を呼ぶ。俺は構わず続けた。
「食料がないなら、作ればいい。賊が来るなら、追い返せばいい。俺に、考えがある」
「馬鹿なことを言うな、小僧!」
腕っぷしの強い男、ダントさんが怒鳴った。「ポテトが育つのにどれだけかかると思ってる! 賊が来るのは明日か明後日かもしれんのだぞ!」
「武器だって、古びた猟銃が数丁と、あとは鍬や鋤くらいしかないんだ!」
その通りだ。誰もがそう思っている。
だが、彼らは知らないのだ。ポテトの持つ、無限の可能性を。
俺は背負っていた麻袋を地面に下ろし、中身をぶちまけた。
ゴロゴロと乾いた音を立てて転がり出たのは、十数個のいびつな塊。それは、村人たちが見慣れたポテトとは似ても似つかないものだった。表面はゴツゴツとし、まるで石ころのように見える。
「なんだ、そりゃあ。石ころか?」
「違う。これもポテトだ」
俺は一つを拾い上げ、みんなに見えるように掲げた。
「俺が『ストーンポテト』と名付けた品種だ。じいちゃんの日誌をヒントに、わざと水を与えず、極限まで乾燥した土で育ててみた。そしたら、こんなものができたんだ」
「食えもしない失敗作じゃないか」
誰かが嘲笑う。確かに、これは硬すぎて歯が立たない。茹でても煮ても、石のように硬いままだ。食用としては、完全な失敗作。
だが――。
俺は足元のストーンポテトの中から、特に平らな面を持つものを一つ選び取った。そして、腰に下げていた革紐を使い、手早くそれを左腕の前腕に固く縛り付けた。即席の、しかし絶対的な信頼を置くポテトの盾だ。
「ダントさん、悪いけど、このポテトを狙って、鉄パイプで思いっきり振り下ろしてくれ!」
俺は腕をまっすぐ前に突き出し、攻撃を受ける場所を限定する。これならダントさんも狙いやすいし、俺も避けようがない。村人たちが息を呑むのがわかった。正気の沙汰ではない、と誰もが思っただろう。
「はあ!? 気でも狂ったか、小僧!」
「いいから! 思いっきりだ!」
俺の気迫に押されたのか、ダントさんは戸惑いながらもそばに転がっていた錆びた鉄パイプを拾い、構えた。
「やめろ、ユウキ!」アンナの悲鳴が聞こえた。
ダントさんは一瞬ためらったが、俺の真剣な目を見て覚悟を決めたように鉄パイプを振りかぶった。風を切る音と共に、鉄の塊が俺の腕に固定されたポテトめがけて一直線に振り下ろされる。
ガギンッ!
耳をつんざくような、金属と岩がぶつかったかのような硬質な音が響き渡った。
衝撃が腕の骨まで響き、一瞬、痺れが走る。だが、骨が砕けるような痛みはない。俺の腕に縛り付けられたストーンポテトは、欠けるどころか傷一つついていなかった。逆に、ダントさんが持っていた鉄パイプの方が、見事に凹んでいる。
「な……」
ダントさんが絶句し、広場は水を打ったように静まり返った。
俺はゆっくりと腕を下ろし、自信を持って言い放った。
「見ての通り、こいつは石みたいに硬い。いや、そこらの石ころよりずっと硬いんだ。重さも均一で、握りやすい。最高の投石武器になる」
「こいつを、村の男たち全員で賊に投げつければどうなる? スリングを使えば、威力はもっと上がる。鎧を着ていないサンドクローラーの連中なら、一撃で打ち倒せるはずだ」
ざわめきが、波のように広がっていく。それは先ほどまでの絶望ではなく、驚きと、そしてかすかな希望の色を帯びていた。
「それだけじゃない」
俺は続ける。
「畑に罠を仕掛ける。ポテトの蔓は、見た目よりずっと丈夫だ。こいつを張り巡らせて、奴らのバイクを転ばせる。落とし穴を掘るのもいいし、こいつを奴らの通り道に『撒き菱』みたいにばら撒くのも効果的だ。高速で走るバイクがあのゴツゴツした塊を踏めば、バランスを崩して派手に転ぶはずさ。食料だって、諦めるのはまだ早い。俺の畑には、ベーシック種よりずっと成長が早くて、どんな痩せた土地でも育つ試作品がある。数は少ないが、今から植えれば、飢えをしのぐくらいにはなるはずだ」
ポテトを使った防衛策。ポテトによる食糧問題の解決。
俺の突飛な提案に、村人たちは呆気に取られていた。だが、その目には次第に光が宿り始めていた。不可能だと思っていた未来に、細いながらも確かな道筋が見えたからだ。
「……面白い」
最初に口を開いたのは、ダントさんだった。彼は凹んだ鉄パイプと俺の腕のポテトを見比べ、ニヤリと笑った。
「小僧の言う通りだ。ただ座して死を待つより、その変なイモに賭けてみる方が、よっぽどマシだ!」
「俺もやるぞ!」
「そうだ、サンドクローラーなんかに、俺たちの村を渡してたまるか!」
ダントさんの言葉を皮切りに、男たちが次々と雄叫びを上げる。絶望は、闘志へと変わっていた。
ギデオン長老が、涙ぐみながら俺の肩を叩いた。
「ユウキ……ありがとう。君は、この村の救世主かもしれん」
「やめてください、長老。俺はただ、ポテトの可能性を信じているだけです」
俺は少し照れながら、腕のポテトを外した。
その夜、村は活気に満ち溢れていた。男たちは俺の指導のもと、ストーンポテトを投げる練習に励み、女たちはポテトの蔓で強靭なネットを編み始めた。
俺とアンナは、二人で焚き火を囲んでいた。俺の実験農場から掘り出してきた、普通の食用ポテトを火の中にくべている。
パチパチと火の粉が爆ぜる音だけが、静かに響く。
「本当に、大丈夫なのかな……」
アンナが不安そうに呟いた。昼間は気丈に振る舞っていたが、やはり怖いのだろう。
「大丈夫だよ」
俺は火から取り出した熱々のポテトを、分厚い布で包んで彼女に手渡した。
「ポテトは、俺たちを裏切らない。食料にもなる。武器にもなる。いつか、薬にだってなるかもしれない。こいつは、このクソみたいな世界で生きていくための、俺たちの黄金なんだ」
アンナは黙ってポテトを受け取ると、ふーふーと息を吹きかけて冷まし、小さな口でかぶりついた。
香ばしい皮の匂いと、ホクホクとした甘い中身。過酷な世界で味わう、ささやかで、しかし何物にも代えがたい幸せの味。
「……おいしい」
アンナの頬を、一筋の涙が伝った。
その時だった。
地平線の彼方から、夜の静寂を切り裂くように、微かなエンジン音が聞こえてきた。一つではない。何台ものバイクが、土を削りながらこちらへ向かってくる音だ。
サンドクローラーが、来たのだ。
俺は食べかけのポテトを強く握りしめ、地鳴りのする方向を睨みつけた。
さあ、宴の始まりだ。
俺たちの黄金が、ただの食い物じゃないってことを、その体で教えてやる。
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