最期まで仰ぎ見た老人
わしは気難しい。
「師匠、凄いお客さまです! 師匠の作品がどうしても欲しいと海を渡って――」
「売る気分じゃない。帰ってもらえ」
わしは気難しいと多くのひとが言う。
気難しいとは、何だろうかと考える。わしの名前のように気難しいという言葉はついてくる。
気難しい師匠。
師匠? ああ、あの気難しい方ですね。
気難しい? 師匠ほどじゃないでしょう?
気難しいとは一体何か? わしが考える気難しいとは、わしの師匠のようなひとだ。わしの師匠こそ、気難しいひとだったと思う。
わしの師匠は、一年の半分以上不機嫌なひとだった。寝る時間も含めての話だ。起きているあいだは、ほぼ不機嫌なひとだった。
師匠に比べれば、わしは気難しいとは言えないと思うのだ。何もかも、わしの手はまだまだ師匠には届かない。わしは庭に杖をついて立ちこうして考え、黙っていることが多い。わしの気難しかった師匠のように、わしは不機嫌ではないのだ。
師匠のことを考えるほど届かない、と思う。
わしはこうして師匠のことを考えていると、無性に作りたくなってる。そうして工房にこもり寝食を忘れて夢中で作品を作る。
そうしてわしが作った作品は顔も知らぬ人びとに評価される。
わしが一番に見て欲しい師匠はもういない。あの不機嫌な師匠が「いいじゃないか」とひと言、わしに言ってくれたら――。
わしはもうそれだけで満足しただろう。こうしていつまでも、ひとり作り続けてはいなかった。
「作るか」
わしの気難しい師匠は気難しいまま眠ってしまった。
わしが作るものは、誰にでも作れるものだ。わしの師匠のように、師匠にしか作れない作品じゃない。それでも作ってしまうわしは、気難しいというよりも――。
「しっ師匠!? 誰か! 誰かきてくれ!」
次はこのわしの弟子が気難しいと言われるようになるのだろう。まるで褒め言葉のように、気難しい師匠だ、と――。
本当に気難しく、けれど本当に美しい作品を作れるのはわしの師匠だけだ。
わしは所詮、師匠の弟子の中の運がよかっただけのひとり。最期までただ作り続けただけの気難しくもなれない、師匠に憧れる凡人でしかなかった。