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神々は妖魔が人間の村を襲うたびに【下界】に降ってそれを壊滅させる。妖魔どもは一体ごとは神に敵うようなものではないが、数が多いので討伐が長引くこともある。


たまたま小さな襲撃がいくつか重なり、朱天が帰らない日が続いた。


崑崙山にある朱天の領域、【神域】に嫁いで一年。彼が帰らない日々が続くのは初めての経験で、瑠璃子は不安定になっていた。

「早くお顔が見たいわ」


とぽろっと口から言葉がこぼれ、そうすると刺繍をする手は止まってしまう。向かいに座って同じようにのんびりと刺繡を楽しんでいたコマがはっと顔を上げた。


神の庭ではゆっくりと時間が流れる。目の前の平和そのもののような小さな庭を眺め、瑠璃子は刺繍枠と針と糸とを膝の上にぽとんと置いた。【下界】にいた頃はこんなことなかったのに、【神域】に来てから瑠璃子はこうしてぼんやりしてしまうことが増えたように思う。これまでが忙しすぎたのだ、とコマは言うけれど。


「王様はお強いですからね、決して決して、なんのお怪我もなさいませんとも。むしろお手柄を立てて、もっと上位の神様方に覚えめでたくなってるんだと思いますよ。そうですとも」

とコマはひげをそよがせて瑠璃子を宥める。


そういうコマだってネズミの神様に違いないのだが、今は朱天に仕える立場である。神々というのはそういうもので、【神域】を持っていない弱い神もいれば、崑崙山のてっぺんに近しいところに【神域】を持つ朱天より強い神もいるのだという。弱い神は強い神に仕え、強い神は配下の神々のぶんまで人間を守ってやる。そういう契約が、昔なされたのだと。


瑠璃子は庭の上に広がる青い空を見た。晴天。崑崙山は特殊な結界で【下界】と切り離されているが、空だけは【下界】と同じだ。


あの村のために彼が苦労していることに、瑠璃子は複雑な心境を覚える。一度はその存続のために死んでもいい、死ななければならないと思ったほど、大事な故郷だ。でも、そこに住む人々は瑠璃子を愛してくれなかった……。


物思いに沈む瑠璃子を、コマは心配そうに見つめる。と、ふとコマは思いついたように毛並みをぶわりと膨らませて、ぽんとふわふわの手を打った。


「そういえば、【下界】では王妃様のお話がお芝居になっているそうですよ」

「えっ」

聞き間違いだと思って瑠璃子は目をぱちぱちさせる。


「なんですって? 今、なんといったの。コマ」

「うふふふ。ネズミは何より数が多うございますから。噂の出回りも早いんですのよ。ちょうど先週から人間たちの都で初演がかかったのですって。王妃様が王様にお嫁入するときの一幕を人気役者が演じるのですってよ」


「な、なんですって!?」

コマが挙げた名前を聞くと、田舎の村で阻害されて暮らした瑠璃子でさえ名前を知っている有名な一座の役者たちである。瑠璃子は思わずわなわなと緋袴を握って口を開閉させた。


「どうして、そんなことに……」

「神様にお嫁入なさる人間の方は昨今お珍しいでしょ? 人づてに話が伝わるうちに、どうやら壮大なお話に仕立て上げられてしまったようですよ」

絶句する瑠璃子にコマはくすくすと笑った。しっぽは上機嫌でピンと縦に立っている。


なんでも貧しい生まれの瑠璃子が鬼の王に見初められたが父親が仲を認めず、二人は駆け落ち同然に崑崙山に昇り、鬼の王の宿敵がちょっかいを出してきて瑠璃子の存在がさらに不利な状況を招いてしまう……という筋書きだそうな。


瑠璃子はがっくり肩を落とした。

「なんでそんな話になるのかしら。私なんてただの、生贄だったのに」

「王様は最初から花嫁が来ると浮かれておられましたよ」

「……ほんとう?」

「おっと、これはナイショなんでした。コマめの口をお許しくださいませ」


コマがおどけてはっしと鼻づらを両手で覆うと、瑠璃子はようやく顔をほころばせコロコロ笑い出した。コマはほっとして、膨らんでいた毛並みもなめらかに戻る。


そんな和やかなひとときだった。


その晩、ようやく朱天が帰ってきた。瑠璃子は玄関の三和土の上で夫に抱き着き、長い間腕が離れることはなかった。


彼のために湯浴みや食事の支度を整えるのは楽しい仕事だった。コマは最初こそ自分がやると言ってきかなかったのだが、瑠璃子が頑として譲らなかった唯一のことが朱天の世話を手ずからすることだったからやがて諦めた。今となってはコマもわかってくれて、夫婦を二人きりにして放っておいてくれる。


朱天は瑠璃子が用意したお風呂に入り、瑠璃子が厨で作った食事を食べてくれた。お湯に浸かるなんて贅沢は許されず冷水に浸した布切れで身体を拭き、残飯のような食事で食いつないできた瑠璃子にとって、愛する夫に十分な寝食を提供できるというのは幸福に他ならなかった。ずっと誰かと生活を共にして、同じものを分かち合いたかった。それがこんな贅沢なものになるとは思ってもみなかったが、夢が叶った喜びに胸がはちきれそう。


たっぷりのお湯から上がった朱天の夕焼けのように赤い髪を整え、膳を用意する。白いご飯、魚の煮つけ、菜っ葉のお浸し、それから汁物。祭りのたびに米俵や鯛の尾頭付きを献上される神様にとって、貧しいほどに質素な膳だろう。それでも夫はまるで大ご馳走を食べるように目を細めてたくさんおかわりをしてくれた。


「今日もうまいな。ありがとう」


と微笑まれ、瑠璃子の胸にぽうっとかがり火が燃える。村ではそんな綺麗な言葉をかけられたことなど一度もなかったし、何より好きな男から労われるのは格別だった。瑠璃子は顔を真っ赤にして俯き、袖で頬を隠した。


朱天はクックと面白そうに笑っては、わざと瑠璃子の長い打掛の袖をめくって顔を覗き込んだり、髪の毛のひと房を優しく引っ張たりしてからかう。そんな触れ合いさえ楽しくてたまらないのだから、瑠璃子の方も相当参っている。


何度目かに頬にかかる髪をかき上げられたとき、その手にきらっと光るものがあるのを瑠璃子は見つけた。

「遅くなった詫びだ」


告げる朱天の高い頬骨が少しばかり赤らんでいる。大振りの真珠である。瑠璃子の手のひらにすっぽり嵌るくらいの大きな真珠だった。


瑠璃子は息を飲んだ。これまでにも朱天はたくさんの美しいものをくれた。まったく錆びていないまっさらな銀の香炉、真新しい筆数本、木目の鮮やかな櫛に丸い鏡に赤い扇、絹布や絵巻物を一揃い、琴や歌集はコマに教えてもらい始めたばかり……。何もかもが瑠璃子に不釣り合いな、煌びやかで美しいものたち。


そこにもうひとつ、この真珠が加わった。


瑠璃子は目を伏せる。喜びと、これらに釣り合う自分にならなければならないという気負いと恐れ。嬉しいのは本当だ、けれどこうした下にも置かない扱いはいつまで続くのか。朱天がある日突然飽きてしまって、瑠璃子を選んだのは間違いだったと言い出す日が、いつか、くるのではないか。不安は尽きない。――彼女は目を開け、朱天を見つめて微笑んだ。


「ありがとうございます。とても嬉しいです」

「穴を開けて首飾りにしてもいいし、冠に仕立ててもいい。鍛冶屋の王に言えばやってくれる。自由にやれ。俺に気を遣う必要はない」


瑠璃子はただ笑う。夫に身を擦り寄せると、彼は温かかかった。朱天の黒い鋭い爪を持った指が伸びてきて、そっと指の腹が喉元のくぼみを撫でる。着物の襟の間から忍び込むような視線に射すくめられ、瑠璃子は少し、くすぐったい。


こんなとき、まるで世界で一番壊れやすいガラス細工を見つめるような朱天のまなざしを感じるとき、瑠璃子はひとつ、決心することがある。


――愛されることを、決して当然だとは思わないようにしよう。


いつか、彼の心が離れてしまっても。ここでこうして過ごした幸せまで悲しみに塗り潰されないように。ちゃんと覚えておこう。喜びも悲しみもきちんと受け止める強さがあれば、きっとそれからも生きていけるから。


戦のあとだからだろう、朱天の美貌にはいくつかの血痕を拭ったあとが残っていた。陰惨さの証のようだ。彼ら神々は瑠璃子たち人間のためにこれほど戦ってくれる。瑠璃子はそれに触れたくて手を伸ばす。小さな白い手に赤い髪を、秀でた額や頬の輪郭を撫でられて、朱天は満足した豹のようにごろごろと今にも喉を鳴らしそうだった。


「気持ちいいですか?」

「ああ。もっとやってくれ」

至近距離で笑みの形に潰れる濃くとろっとした古い金色の深さ――。


瑠璃子は目を閉じる。口づけが降ってくる。彼女もそれに応えると、夫の手が嬉しそうにわななくのがわかった。背骨を伝って幸福が腰骨から這い上がってくる。その甘さ。歓喜。毎日が満ち足りたこの喜び。


……たとえ朱天の一時の慰めの妻に過ぎなくても。

それでもこの人生を賭して彼のためだけの存在でありたい。

それが瑠璃子の願いだった。


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