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八話 三日目①


 何かがおかしい。

 彼女の眸を見て、僕の心は酷くざわついた。


 空も心も晴れわたるような、爽快な朝だった。

 よく眠れたからか身体が軽くて、今日はスプリさんと森に散策でも行こうか、なんて思いながら朝食を作っていた。


「ひっ」

 声を殺そうとしたけど漏れてしまった、とでも言おうか。

 そんな小さな悲鳴が聞こえて、たまらず振り返る。


 悲鳴の主はスプリさんだった。

 表情はこわばり、寝間着の裾を握る手が震えている。


 そこには明らかな恐怖の感情があって、僕はすぐさま彼女が恐怖する何かを排除するべく駆け寄ろうとした。

 でも、僕の身体は凍り付いたように動かない。


 彼女の怯えた眸が中心に据えていたのが、僕自身だったからだ。

 後ろ姿を確かめるだけで立ち竦み、悲鳴を抑え込めないほどの恐ろしさを、僕から感じ取っている。


 ――どうして?


 僕の頭の中で疑問符が増殖する。

 心当たりはない。

 それどころか、僕は彼女を決して悲しませるようなことはしていないという確信すらある。

 なにせ僕は彼女を笑顔にする為に生きてきたのだから、相反する行動を取るわけがない。

 実際、昨晩寝る前の彼女は終始にこやかで、僕を恐れる素振りなんてこれっぽちも見えなかった。


 彼女はなにか、勘違いをしている。

 ひとまずの結論が出て、僕の硬直はほどかれた。


「どうしたの?」

 僕は距離をとったまま、その場で目線を下げて問いかける。

「なにか怖い夢でも見た?」  

 しかし彼女はわずかに呻くだけで、言葉といえるものは何一つ返ってこない。


 僕はふと、机の上に整えた彼女の絵を見た。

 彼女の描いた、金髪碧眼で長耳を持つお父さんの絵だ。

 

 もしかして……!

 僕はハッとして、彼女の眸を見つめる。

 恐怖に塗れ、感情を濁らせたその眸を、僕はかつて見たことがある。


 僕が産まれ育った村がワイバーンに焼かれたあの日、僕は友人の死ぬ様を見た。

 あの目だ。

 自分の力では敵うはずもない圧倒的な暴力を前にした時の目だ。


 彼女には、今の僕がワイバーンのような怪物に見えているんじゃないか?

 理由なんて一切分からないけれど、そんな気がしてならない。


「ほら。安心して? 僕だよ?」

 危ないものは何もないのだと伝えたくて、手を広げた。

 でも、彼女は僕の挙動に怯えるように身体を引きつらせてばかり。

 

「なにが怖いのか、僕に教えてくれる?」 

 

「大丈夫だよ。何も痛いことはしないから」

 

 どうか安心して、と祈りながら、穏やかに伝え続けた。

 すると、彼女は何か決意をしたような顔を見せた。

「も、もうしわけありません……!」

 声を震わせながら、堰を切ったように話し始めた。


「あさげの準備をさせてしまい、もうしわけございません! ゆうべのお食事がお口に合わなかったのでしょうか!? おゆるしください!おゆるしください……!」

 床に手をつき、身体を丸め、彼女は謝罪を繰り返した。

 喋り方も、態度も、何もかもが昨日までとは異なっていて、僕は知らない世界に来てしまったような感覚がした。

 

「おゆるしください!おゆるしください!」

 言葉を繰り返すたび、彼女の表情に恐怖と焦燥が折り重なっていく。

「ですからどうか、叩かないでください……!」 

 眸に湛えた涙が溢れ出し、声に濁りが混じる。

「お父さま……!」


 なんてことだ。   

 僕はまだ、彼女の父親だった。

 彼女はまるで別人なのに、僕を見る目も全く違うのに、僕の役柄だけが変わっていないのだ。

 

 頭の中がぐちゃぐちゃに混ぜられて、現実感すら失うかのようで、思考が霞みがかる。

 でも、身体が動いた。


「怒ってない!怒ってないよ!大丈夫!大丈夫だから!」

 彼女を抱き寄せて、とにかく安心させたい一心で言葉を繋ぐ。

「昨日の晩御飯も凄く美味しかった! 美味しかったから、お礼をしたくて朝ごはんを作ろうと思ったんだ!」

 けれど、彼女の耳には入っていないようだった。

 身体を震わせて、呼吸を乱して、僕に触れられているという事実にただ怯えていたのだ。

 

 それに気づいて、僕はたまらず己が手を引き剥がした。

 

 自分がとても汚いもののように感じたから。

 自分が彼女から笑顔を奪っているのだと感じたから。

 

「ごめんなさい!」

 僕は床に手をついて、謝罪の言葉を叫んだ。

 

「これまで叩いてごめんなさい! ごめんなさい!」

 

 叩いてない。叩くわけないだろ。僕がスプリさんを?そんなことがあるわけがない。

 

 叫ぶたび、感情が膨らむ。

 心と身体が離れ離れになっていく。

 

 でも、僕は謝り続けた。


「もう二度と叩きません! これからはずっと貴方が笑顔でいられるように尽くします! ですからどうか、許してください!」 

 

「……ほんと?」

 

 顔を上げると、いまだ恐怖に苛まれる彼女の姿があった。

 僕の言葉を完全に信じ切ることは出来ないけれど、でも言葉に縋りつきたいような、そんな複雑な感情を込めた眸をしていた。


「ほんと……ほんと! 約束! これからは何があっても叩いたりするもんか!」


 彼女はしばらく黙り込んだあと、表情いっぱいに安堵を溢れさせながら言った。

 

「優しいお父さんに戻ってくれたんだね……っ!やった!やった!やったぁ……!」

 

 彼女は涙をこぼし、声を震わせながら、「やったやった」と繰り返し呟いた。

「うぅ……うわあああん――!」

 そのあとは力を失ったようにへたりこんで、決壊したように泣き出した。

 まさに地獄から解放されたような、やっと帰るべきところへ帰ってきたような。

 僕の目には彼女の泣く様子がそんな風に見えて、悲しみがこみ上げる。


 彼女には何が見えている?

 彼女の世界では何が起こっている?

 

 ――スプリさんは一体どうしてしまったんだ?

 

 僕は思考を複雑に絡めたまま、彼女の側に居続けた。

 抱きしめたり、声をかけたりすることはなく、ただ彼女を見守った。

 

 そうすることしか出来なかったのだ。

 

 しばらくして、スプリさんが泣き止んだ頃、

 

「私には、お父さんしかいません」     

 鼻をすすりながら、ぽつぽつと喋り始めた。

 

「お父さんに叩かれると、悲しいです」


「お父さんに叩かれると、こわいです」


「お父さんに叩かれると、生きていけません」 

 

 ワンピースの裾を握りしめながら伏し目がちに呟く。 

 僕は「分かった」とだけ返して、泣きつかれた様子の彼女を寝室に連れていった。

 

「今日はゆっくりしてて」

「……うん。ありがと。お父さん」


 彼女が眠るのを確認したあと、僕は家を飛び出した。

 

 僕だけじゃ抱えきれなかった。

 誰かに話を聞いてほしかった。

 そう考えた時に思いついたのは、いかつい顔だった。

 酒場の扉を開くと、同じ顔が出迎える。

 

「おうグラフト。まあ座れよ」

 彼は開店前のこんな朝の時間だと言うのに、嫌な顔一つしなかった。

 それどころか彼が持つとげとげしさのようなものも無くて、まるで僕が来ることを知っていたかのような、落ち着きを感じる佇まいだった。

 

「聞いてやるから話せ」

 彼に差し出されたコップに入った液体を飲み干してから、僕は話し始める。


「スプリさん……僕がプロポーズをしようとしていた人のことです。こないだ会った時に話しましたよね? 何故か僕のことを父親だと思っていて、子供みたいに振る舞うっていう」

「あぁ」

「彼女がなんでそんなことになっているのか僕は全く分からなくて、不安だったんです。でもそれ以上に、彼女が笑っていることが嬉しくて、幸せで、彼女が笑っていてくれるなら、父親だと思われてたっていい。そう思ってたんです。それに彼女は彼女なのだから、いつかはちゃんと僕を僕として見てくれるだろうって、思ってたんです」

「あぁ」

「今朝、スプリさんがなぜか僕をひどく怖がっていて、僕に『叩かないで』って言ったんです。僕はそんなことした覚えはなくて、それどころか彼女の為を思って父親のフリまでしてたんだ。彼女を悲しませることなんて、神に誓ってやってないんです。でも、彼女は僕を恐れてた。まるで怪物でも見るみたいな顔で、不安をいっぱいにして、僕を見てた……っ!」  

   

 コップを握る手に力が入る。

「僕は彼女を笑顔にしたくて今まで生きてきた! 僕を救ってくれたあの人の心の闇を晴らしたくて、だから全部なくなっても生きてこられたんだ!なのに、なのに……っ!今の彼女の心の闇はっ、僕自身だったんだ……!僕はこれから、彼女にどう接したらいい? 僕は必死に頑張っているのに、僕の知らない間に彼女の中の僕が彼女を傷つける!こんなのって、ありますか? ひどすぎる。そもそも僕は父親じゃない! グラフトだ! 彼女を叩くひどい父親と、僕を一緒にするな! 僕はこんな目に遭う為に頑張ってきたんじゃない!」   

 

「これまで頑張ってきたのは何の為だったんだ……。 まるで無意味じゃないか!? 孤児院の生活を耐えたのも、魔法を覚えたのも、剣を振ったのも! 全部ぜんぶゼンブッ!! 彼女はあの時言ったんだ!『忘れない』って! 約束したのにっ! だから頑張ってこれたのに!一体何の為に」

 

「――エルフって、聞いたことあるか?」

 

 終始黙ったまま聞いていた彼が、ぽつりと呟いた。

 決して僕の叫びを遮るような声量では無かったのに、僕の耳はそれを拾い上げた。


 僕の意識が向いたことを確かめた彼は、ゆっくりと語り始める。


「エルフっていうのは、かつて北方の森に隠れて住んでいた亜人のことで、やつらには特徴がある。金色の髪に青い目、長い耳。全員もれなくとんでもねえ美人で、魔法が得意。それと――



 年を取らねえ」 

  

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