七話 二日目
目を開けると、窓の外がぼんやりと明るみを帯びていた。
強張った身体をほぐしてから、隣のベッドを覗き込む。
スプリさんが穏やかな寝息を立てている。
どうやら昨日のコトは夢ではないらしい。
僕は彼女を起こさないよう静かに寝室を出る。
居間のテーブルには広げたままの彼女の絵があった。
絵を束にして、角を整える。
彼女が描いた「お父さん」の絵を先頭にして、机の隅に置いておく。
「トイレはここか?」
尿意を催した僕は寝室の隣の扉を開く。
が、そこは小さなベッドが置かれた、おそらく子供部屋。
続いて奥の扉を左から開けて、浴室、トイレの順。
無事に用を足すことが出来た。
井戸で水を汲み、顔を洗う。
ほとんど寝れた気がしないから、心地よさというよりは叩き起こされるような心地がした。
夢にまで見たスプリさんとの二人暮らし。
ひどく歪な形で叶えることになって、まだ整理がつかない部分はある。
けれど、彼女の側にいられることは幸福なことだ。それだけは間違いない。
この生活がどれくらい続くのかは分からないけれど、とにかく僕は彼女の笑顔を守ることだけを考えよう。
そのためにはまず、替えの服が必要だ。
プロポーズに大荷物は格好悪いと思って、替えの下着くらいしか持ってこなかったのが仇になった。
今日は日用品の買い物をしよう。
服の匂いを嗅ぎながら、そんなことを思った。
朝食の準備をしていると、寝室の扉が開いた。
「おはよう。スプリちゃん」
彼女は目をこすりながら、いかにも眠そうな声で返事をする。
朝は少し苦手らしい。
朝食を終えた頃にはようやく意識がはっきりとしてきたようで、
「お父さんがいる!」
と、声をはねさせる。
「今日はお昼前くらいに買い物に行くけど、それまで何したい?」
「え〜っとねぇ?――こうしてる!」
そう言いながら、彼女は勢いよく抱きついてきた。
そこに昨晩の寂しさにまみれた様子は微塵もなく、僕は安堵に包まれる。
でも、それだけじゃなかった。
昨日は感じなかったものが、僕の中であふれ出した。
当然といえば当然である。
昨日はきっといっぱいいっぱいで、それどころじゃなかっただけなのだ。
親が子を慈しむような感情ではない。
健全な男が女性に対して思う、健全で不健全な感情だ。
今思えば、僕は幼少から想い続けた女性と一つ屋根の下で暮らしているのだ。
その上彼女は僕を父親だと思っていて、僕に全幅の信頼を寄せたスキンシップをする。
身体の成熟した男子にとってはあまりにも刺激が強い。
触れることで彼女の実在を確かめた昨日とは違う。
僕は彼女の存在を既に知ってしまっている。
布越しに伝わる体温に、柔らかな感触に、今日の僕は安らぎだけを覚えない。
華奢な身体には艶めかしい曲線がある。
吐息の熱が生々しく僕を撫ぜる。
「ん? ふふふ」
胸に抱く彼女が僕を見上げて、にこりと笑う。
僕の体温を味わうように、肢体をこすりつける。
本能がそれに気付いて、理性が理解して、煮えたぎる。
だから僕は――
「ば、バぁンザぁーイ!!!!」
彼女の両脇に手を挟み込んで、思い切り持ち上げた。
「ばんざあい!ばんざあい!!」
「わわっ!? あははははは!」
「ヴァンザァアアアイ!!!」
「ばんざ~い!」
呼吸は荒かったし、目は血走っていたと思う。
でも、僕は役割を全うした。
僕は今、彼女の父親だからだ。
例え僕が年頃の男だろうと、彼女が魅力的な女性だろうと、彼女の世界では親子なのだ。
娘に欲情する父がどこにいる?
仮にいたとして、そんなヤツが娘を笑顔にできるのか?
出来るはずがない。
「予定変更ッ! 今すぐ町で買い物だァ!!!」
「なんでぇ?」
「これから僕はトイレに行ってくる!その間にスプリ隊員はお着替えしててくれたまえ!」
「たい、いん?」
そのあと、僕は彼女を連れて買い物に出かけた。
日用品を買い、数日分の食材を買い、昼過ぎには帰ってきて、昼食を済ませる。
食後、彼女はおもむろに裁縫を始めた。
裁縫道具なんて無かったように思うから、おそらく布も糸も針も魔法で作ったたものだと思う。
手のひら大に切り出した布に糸を通していき、刺繍で何かを作ろうとしている。
絵があまり上手ではなかったから、僕は怪我をするんじゃないかと気が気でなく、掃除しながらも意識は常に彼女の手元に向けた。
「何作ってるの?」
「アップリケ!昨日オリビアお姉ちゃんに教えてもらったの!」
「アップリケかぁ」
アップリケと聞くと、僕はかつてのスプリさんを思い出す。
彼女からもらった葉っぱのアップリケは常に持ち歩いている。
幼子のようになってしまった彼女からスプリさんらしさが感じられて、たまらず嬉しい気持ちになる。
「嬉しいことがあったら作るって言ってたの!」
「そうなんだ。ということは嬉しいことがあったの?」
「うん!今日はお父さんとね、お出かけしたでしょ? 一緒にごはん食べたでしょ? だから作るの!」
彼女は手先から一切視線を外さずに言った。
どうやらかなり集中しているらしい。
「そっか。作るの見ててもいい?」
「いいよ!」
拙い手つきではある。
でも、少しずつ糸が折り重なっていく。
彼女がくれたアップリケもこうやって出来たのだろうかと考えただけで、幸福感に包まれた。
どんな形になるんだろう。
どんな気持ちで編んでいるんだろう。
怪我の心配なんてどこかへ消え去ってしまうほど、彼女の小さな編み物に夢中になった。
「いたっ」
そんな矢先、彼女が指をついたらしい。
「大丈夫!?」
「血が出てきちゃった……うぅ。ぐずっ」
左手の人差し指にごく小さな血の斑点が出来ていて、それを確かめた彼女の眸が湿り気を帯びる。
だが、僕は慌てない。こういう時の為に治癒魔法を覚えているのだ。
「光よ、かの者を癒せ」
患部に手を添えて、詠唱。すると小さな傷はきれいさっぱり無くなって、当然痛みもなくなったはずだ。
でも、
「うっ、うっ……!うわあああん――!!」
涙の助走はとっくに完了していたらしく、勢いのままに溢れ出す。
「ほら、もう治ったよ?痛くないでしょ?」
「うわあああん!!!」
それから追加で治癒魔法をかけたりしたけれど、彼女はしばらく泣き止まなかった。
彼女を抱きしめるという選択肢は僕には選べなくて、情けなくもおろおろとするばかり。
彼女が裁縫する時はしっかり見ててあげないと。
そう強く思った。
泣き止んだ後、スプリさんは果敢にもアップリケ作りを再開した。
針が糸の間をくぐるたびにドキドキしたけれど、彼女が真剣に取り組むのを見守った。
「出来た!」
日が傾いてきた頃、彼女は完成物を高らかに掲げた。
「すごい!上手に出来たねぇ!」
ところどころに歪んでいて決して上手とは言えないけれど、無事に完成した安堵が僕にそう言わせた。
デコボコとした白い丸の真ん中に一回り小さい黄色の丸。
たぶん卵だ。彼女は卵が好きだから、そうに違いない。
「うふふ! 可愛いお花さんです!」
得意げに胸を張るスプリさん。
デコボコとした白の外縁は花弁だったらしい。
気を抜くと焼いて食べちゃいそうだよ、なんて言わなくてよかった。
別の安堵に一息ついていると、スプリさんが僕にアップリケを差し出した。
俯きがちだけど、耳まで赤くなっている。
「もしかして、僕にくれるの?」
彼女が「ん」と小さく頷く。
細い指からアップリケを受け取ると、柔らかくて軽い感触が手のひらに伝わる。
孤独に泣いた十年前と、同じ。
これは、スプリさんから貰ったアップリケだ。
「……ありがとう! 大事にするね!」
暖かな気持ちが湧き上がるままに、彼女に最大限の感謝を贈る。
「……うん!」
すると倍以上の明るい笑顔が返ってきて、もっと暖かくなる。
新しい宝物を型崩れしないように優しく握り、もう一度言う。
「ありがとう。スプリさん」
その後は暖かい気持ちのまま、スプリさんと穏やかに過ごした。
でも、夜が更けた頃に新たな問題に直面する。
「お風呂いっしょに入ろ?」
男として、あまりにも甘すぎる誘惑である。
正直、本当に入りたい。入りたくて仕方が無い。
父親としても、彼女の願いを叶えてあげたい。
需要と供給が完全に一致し、興奮を先取りした心臓が騒ぎ立てる。
でも、絶対に一緒に入ってはいけない。
一糸まとわぬ彼女なんて見た日には、僕の理性は吹き飛んでしまうのが確実だからだ。
そんなことすればスプリさんのトラウマになってしまう。
僕は断腸の思いで、心を鬼にして、断った。
なんて言ったか忘れるくらい慌てふためきながら、必死に一緒に入れない旨を伝えた。
「こんどはぜったいいっしょに入ってね?」
「う、うん……。入れたら入る、よ!」
渋々といった様子でひとりお風呂に向かう彼女の背中を見送って、僕は大きくため息をする。
「早くこの生活に慣れないと」
昨日眠れなかったこともあってか、僕は本当に疲れ果てていて、この日はぐっすりと眠ることが出来た。