六話 一日目②
夜が更けた。
辺りがめっきり暗くなって、静寂が外界に降りている。
僕はまだ、スプリさんの父親だった。
「これがお父さん!」
夕食を終えて、スプリさんは日中に書いたらしいたくさんの絵を見せてくれた。
猫や虫、ウミウサギなどの動物を大きく描いたものが多かったけれど、彼女の家族を描いた絵もあった。
そのどれもがいかにも幼子が描いた絵で、そこに描かれたいずれの人物も正直見分けがつかない。
だから、彼女の父親が僕と似ているのかも分からない。
しかし、僕の興味を引いたのがその絵に描かれた人数。
少なくとも三十人以上。
さすがにこの家に住んでいるとは思えないが、彼女は大家族に産まれたらしい。
もしかすると孤児院の出身なのかもしれない、と考えたのだが、そうではないらしい。
「これが十一番目のおかあさんで、これが十三番目! これが十四番目の私のおかあさん!あとはみんなお姉ちゃんとお兄ちゃん!」
全く違いの分からない人物に指を差しながら、声を弾ませるスプリさん。
「……そっか。上手だね!」
「そうかな? えへへ!」
お母さんが三人?
十番より前のお母さんはどこに?
みんな異母兄弟?
聞きたいことが多いけれど、父親という手前それを聞くことが出来ない。
「ねえお父さん」
「どうしたの?」
「おかあさん、いつ帰ってくるの?」
スプリさんが俯きがちに呟いた。
声が少しだけ湿り気を帯びているように聞こえて、僕の心臓がはねた。
広い邸宅を包む静寂が、より鮮明になったように思えた。
答えることが出来ない。
彼女が待っているお母さんが彼女の言う十四番目であろうことは想像がつくけれど、それ以外のことを何も知らないからだ。
彼女の母親がただ出かけているだけという確信があれば、「じきに帰ってくるよ」なんて励ますことが出来た。
でも、彼女の様子はそんな数時間の別離から来ているものではないように思える。
一~十番、そして十二番の母親が彼女の絵に描かれていないこと。
彼女の産みの母だろう十四番が帰ってきていないこと。
今ある情報から推測する限り、彼女の母親が帰ってくることは……
「分からない。ごめんね」
「……」
彼女の沈黙が僕を締め付ける。
表情は見えないけれど、僕を救ってくれたあの時の彼女の陰鬱な眸が脳裏をかすめる。
スプリさんを笑わせたい。
そう願い続けてここまで生きてきたのに、僕はなぜ悲しむ彼女をそのままにしているのか?
分からないとか、知らないとか、そういうことは関係ない。
僕が父親だとか、そうじゃないとか、そんなことは二の次で。
まず笑顔にしなきゃいけない。
俺が持てる全部を用いて、彼女を笑わせる。
それこそが、僕が産まれた意味で、救われた意義で、生きてきた理由なのだから。
「……よし」
僕はカバンからペンとインクを取り出した。
出先でも彼女に手紙をかけるように、ずっと持ち歩いているものだ。
それから一枚の白紙を手に取って、そこにペンを滑らせる。
「スプリちゃん」
声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
わずかに、しかし確かな悲しみを湛えた表情だ。
彼女に絵を見せた。
「わたしの絵?」
スプリさんが今日見せてくれたたくさんの笑顔に、ありったけの感謝を込めて。
彼女が笑っている絵を描いた。
「うん。僕は悲しい時や寂しい時、大好きなものを絵に描くんだ。そうすると心の中が温かくなって、なんでも頑張れるような気がしてくるんだ」
「私がわらってるのが好きなの?」
「そうだよ。僕はスプリちゃんが笑っているのが、何よりも好きなんだ。それこそスプリちゃんが笑顔でいてくれるなら、なんだって頑張れるくらいに」
スプリさんは絵を受け取ると、しばらくじっと眺めていた。
何を考え、どういう感情でそうしているのかは分からないけれど、僕の気持ちがわずかでも伝わってくれるよう願った。
「ひかりよ、いろとなりてけんげんせよ」
すると、彼女も一枚の白紙を手に取り、魔法のインクで絵を描き始めた。
時折考えたり、悩んだり、そうして少しずつ色が重ねられていく。
「ん」
彼女は完成品を僕に差し出して、
「お父さんの絵!」
はにかんだ。
「……上手。上手だよ。ありがとうね」
「ん!」
彼女は僕に抱きついて、胸に顔を押し付けた。
まだ寂しくて、それを必死にこらえているのだと思う。
「お父さん。あのね?」
「どうしたの?」
「今日はお家に泊まってくれる?」
顔は見えない。でも、彼女の体が強張るのを感じた。
スプリさんの言葉に、数時間前の一幕が思い起こされる。
緊張感と高揚感を抱えた僕を迎えたスプリさんが発した第一声。
『いらっしゃい』
確かにそう言っていた。
一緒に住んでいるのなら使わない挨拶だ。
つまり、彼女は父と住んでいない。
母は失踪し、夜が更けてもなお誰かが帰ってくる気配は無し。
この広い家で、彼女は独りぼっちで暮らしてきたのではないだろうか?
ずっと母の帰りを待ちわびて、寂しくて、それなのに父は彼女を孤独のままにしていたのではないだろうか?
それこそ、僕を父と勘違いしてしまうくらいの、長い間。
もう独りには出来ない。したくない。
「これからはずっと一緒だよ」
彼女の父に激情を覚えながら、僕は決意を言葉にした。
「ほんと?」
「うん。スプリちゃんが寂しくないように、ずっと一緒にいるからね」
そう言うと、胸の中から小さな嗚咽が聞こえ始めた。
徐々にそれは大きく、強くなっていき、やがて感情を吐き出すような、激しいものに変わっていく。
「わあああん――!!」
長い長い感情の奔流を、僕はただ黙って受け入れる。
彼女が泣き止むまで。笑顔になるまで。寂しくなくなるまで。
次第に彼女は寝息を立て始めたから、今のところは彼女が笑顔を取り戻せたのかは分からない。
でも、穏やかな寝顔は僕を安心させるもので、あまりにも多くのことがあった一日の終わりを告げるものだった。
彼女をゆっくり抱え上げ、寝室のベッドに寝かせる。
僕は床に敷かれたカーペットに横になり、目を瞑る。
今日のことを反芻して、明日のことを考えて、スプリさんに想いを馳せて。
そうして眠くなるのをじっと待ったけれど、心のざわつきがうるさくて、眠れない。
スプリさんの絵に描かれた「お父さん」
僕のことを見ながら描いた「彼女の大好きなもの」
金髪で青い眸をした、長い耳の人だった。
誰かは分からないけれど、僕ではないことだけは分かる。
スプリさんには、僕があんなふうに見えているのか?
僕の本当の姿は見えていないのか?
ぐるぐると僕の頭の中を巡って、少しずつ濁っていく。
明日になれ。明日になれ。
徐々に形を帯びていく不安から目を逸らすように、日の出を待ちわびる。