四話 再会②
「今日はね~、ずうっとお絵描きしてたの!」
僕の手を引きながら、まるで童女のような笑みを浮かべるスプリさん。
僕は誘われるがままに椅子に腰かけたものの、彼女を含む空間全体が孕むたくさんの違和感が気になって、およそ落ち着きとは程遠いところにいた。
彼女のことはあまりにも衝撃的で咀嚼できないので、ひとまずそれ以外について考える。
まず、広すぎる。
この家の外観は、丸太小屋と形容すべき小規模で無骨なものだったはず。
正直生活の拠点としては最低限中の最低限といったサイズ感だったはずだ。
それなのに、入ってみればどうだ。
玄関から入ってすぐの居間には四人掛けのテーブルが中央に置かれ、右手には特殊な木材と思しき素材が使われた立派なキッチン。それでいて奥に広々とした空間が確保されている。
それだけでも明らかに容量が一致しないのに、更に左手には別の部屋に繋がると思しき扉が二つ。奥にも二つ。
左手前の扉のみ開け放たれていた為内容を覗き見ることが出来るが、小柄な彼女にそぐわない大柄なベッドが鎮座している。
収納が上手とか部屋を広く見せる工夫とか、そういう小手先でどうこうする次元を明らかに超えたギャップが、この家の内外にあった。
そして、床や壁、棚やテーブルといった家具は木材で統一されているのだが、やけに質感が良い。
古びた外観から節くれだった無骨な床壁を想像していたのだけど、白き光沢は高級感すらある。
僕が訪れたことがあるどの町にも無かった建築様式、材質が用いられた、森の空気を感じさせる気品漂う内装。
美しく、それでいて森の妖精の如き可憐さを併せ持つスプリさんに相応しい家だ。
要するに、これは魔法によるものだと思う。
この家には空間を拡張したり、材質を変化させたり、家具等を生成する魔法が使われている、と考えられる。
驚くべきことではあるが、卓越した魔法使いならばそういったことが可能であると本で読んだことがある。
ワイバーンを一撃で仕留めるスプリさんの実力を考えるとあり得ない話では無い、と考えられなくもない。
しかし食卓に違和感。
椅子は四脚、棚に収められた食器類は明らかに複数人分の準備がある。
スプリさんが一人で住むように魔法によって変質させたのであれば、こうはしない。
つまり誰かと住んでいる、もしくは誰かと住むことを前提にしている、と考えられる。
「ウミウサギが皆で歌ってる絵だよ! 上手に描けたの!」
快活な声に思考の海から舞い戻ると、一枚の絵が広げられていた。
たくさんのウミウサギが円になって、それぞれが組み合ったりした、カラフルな絵。
こんな鮮やかな色合いは見たことが無い。
もしや魔法で作ったインクを使って、指で描いたのだろうか?
彼女の手のひらは色でいっぱいで、彼女が触れた僕の手にも彼女の芸術の跡があった。
「ウミウサギってなんですか?」
海にいる大きな耳の小動物みたいな、そんな感じの生き物だろうか?
知らない動物になんとなくあたりをつけて、自信たっぷりといった様子で鼻を鳴らす彼女に質問をする。
すると、彼女は宝石のような眸を大きくして、
「ウミウサギだよ? 忘れちゃったの? こないだも一緒に探しに行ったのに」
幸せ満点と言った笑顔から一転、驚き半分、寂しさ半分といった表情。
「あーウミウサギ! 思い出しました! よく描けてますねぇ!」
僕は思わず、大袈裟に手を叩いて取り繕ってしまった。
「そうかな? えへへ……」
スプリさんは己が手を揉みながら、照れくさそうに笑う。
嘘をついた後ろめたさなど感じる暇もなく、再び僕は思考の海に溺れることになった。
十年前に彼女が何歳だったかは分からないが、少なくとも僕よりずっと大人に見えた。十五から十八、今の僕の同じか少し年下、といったところか。
となると彼女は少なくとも二十五歳くらいの大人の女性になっているはずなのだ。
にも関わらず、スプリさんはあの頃と同じ姿形をしている。
まるで時間が止まっていたかのように、彼女はあどけなさを残した美貌を保っているのだ。
それだけならまだ、彼女が美容に気を遣っていると考えて納得できたかもしれない。
でも、仕草、振る舞い、雰囲気に至るまで、彼女があまりにも幼稚すぎる。
まるで五歳児だ。
「あなたはスプリさん……ですか?」
一つの仮説が湧いてすぐ、僕の口からまろび出た。
家族が住むのを前提としたような広い内装、あの頃と変わらない容姿、幼子のような振る舞い。
彼女はもしかすると――スプリさんの娘なんじゃないだろうか?
たまに顔が瓜二つの母子はいる。
そういうことなんじゃないか?
「えー? なんでそんなこと聞くの?」
彼女はきょとんとして言った。
小首を傾げて、まるで僕がおかしなことを聞いているような、そんな口ぶりだった。
「ん~、え~いっ!」
彼女は質問に答える代わりに、僕の胸めがけて飛び込んだ。
「ンエィ!?」
僕は思わず言葉にならない声を発してしまった。
でも、恥ずかしいとかそんなことを考えている場合ではない。
彼女は僕に抱きついているのだ。
彼女がスプリさんなのかどうかは現時点では分からないけれど、初恋の人とも全く同じ容姿の少女が、僕に体を預けているのだ。
全身を、狂乱したなにがしかが駆け巡る。
僕は反射的に、彼女の腰に手を回した。
あの時僕を優しく包んでくれた、彼女の香りがした。
手も足も腰も、壊れてしまわないかと不安になるほど華奢だった。
けれど、布越しに伝わる柔らかな体温が、彼女の実在を鮮明に確かめた。
「わからない?」
彼女が耳元で囁いた。
顔は見えない。
だからこそ、僕を救った詠唱と、僕を包んだ約束と、同じ声なのだと分かった。
「分かります。スプリさんだ……! 貴方はスプリさんだ!」
抱く手に自然と力が入った。
「うん」
強い力が脳天を貫いて、甘美な何かが僕の中を満たしていくのを感じた。
煮えたぎるような、それでいて包み込むような。
とろけるほどに甘い熱。
「スプリさんだ!スプリさん!」
間違いない。彼女はスプリさんだ。
僕が触れているのは、この手に抱いているのは、僕の命の恩人で、初恋の人で、僕の生き甲斐だ。
「どうしたの?ふふ!くすぐったいよぉ~!」
笑っている。
スプリさんが笑っているのだ。
ずっと笑っていた。
僕が来てからずっと、スプリさんは幸福感に満ちた笑顔だった。
ずっと見たかったものだ。
一夜にして全てを踏みにじられ、一時は死すら望んだ僕が、辛く寂しい生活に多大なる活力を持って臨むことが出来たくらいには見たかったものなのだ。
彼女が笑っている。
そのことを僕の全てが理解して、打ち震えた。
救われた。
奪われた夜も、寂しさに耐える日々も。
全部ぜんぶ、救われた。
僕はこれを見る為に産まれた。
これを見る為に生きてきた。
何が彼女を笑顔にしたのかなんてことも、色んな違和感も、全部どうでもよくなった。
「僕はスプリさんのことが好きです」
僕は喜びのままに、愛の言葉を囁いた。
もっと優美な言葉をたくさん覚えたのに、土壇場で出たのはそんな、ごく普通の告白だった。
それでいいと思えた。
「私も、だいすき」
僕の中に、彼女の体温が溶け合うような心地がした。
僕は今、十年の時を経て、最愛の人と結ばれたのだ。
「だいすきだよっ! お父さん!」
――そう、勘違いをしてしまったのだ。