三話 再会
「それから僕は毎週スプリさんに手紙を書いたんです。おかしなこととか、嬉しかったこととか、スプリさんが笑ってくれるかもしれないことは全部書きました。あとスプリさんと結婚したら何をしたいかとか、どんなところに連れて行きたいとか、そういうことも書きましたね。あーもちろんスプリさんをどれくらい好きか、ってことは最初と最後に必ず書きましたよ? それを俺が八歳の時から十年間! 先週送った分でなんと合計三百五十枚! そして遂に家を買えるくらいお金を稼げるようになり……!」
「プロポーズをするために、ここ『ドリフト』まではるばるやってきた、っつうことか?」
名も知らぬ酒場の店主は六本目のタバコに火をつけながら、僕がこの町に来た理由を言い当てた。
まだ日も高いからなのか、この町がずいぶん大人しい町だからなのか、はたまたナイスミドルな店主の眼光がカウンター越しでも大層ギラついて見えるからなのか、客は僕一人だけ。
それも唯一の客が安価なミルクで唇を濡らすだけなのだから、店としては芳しい状況ではあるまい。
しかし彼は文句ひとつ言わず、僕の話を聞いてくれた。
誰かに話を聞いてほしかった僕にとって、ここは本当に良い店だ。
「そのとおり!」
彼の人となりや店の雰囲気を含めた諸々への賛辞を込めて、煙ごしに彼の一応の疑問符に答えた。
彼の言う通り、僕はスプリさんに直接想いを伝えるべく、南方の町グラフトに赴いた。
ここはあの日、彼女からアップリケと共に受け取った紙片に書かれていた町であり、僕が十年間手紙を送り続けた場所。
彼女のイメージ通りと言うべきか、少々寂れた感はあるものの落ち着いた街並みで、コワモテ店主とて僕の一方的な話に嫌な顔一つしないのを見るに、僕はこの町が好きになれそうだ。
彼は僕の話を反芻するように頷いて、ひと吸いでかなりの幅のタバコを灰に変えてから口を開いた。
「だけどもいざプロポーズとなると色々ネガティブな考えが浮かんできてしまいふんぎりがつかず、こうやって客のいねえ酒場の主人を捕まえて、金になりゃしねえ乳汁だけで一時間も居座りやがり、バカみてえな頭桃色の片思い話を聞かせるなんてふざけた真似しやがったんだなぁ? えぇ?コラ」
むちゃくちゃ怒ってた。
客に料理を振る舞ってきたであろう彼の腕は、もはや武器屋に陳列されてもいいくらいの力を帯び、いつでも僕の顔に振る舞う準備ができていた。
これは次の対応次第では戦闘になる。
「だいたい十年も前に一度会っただけのガキから毎週手紙が届くなんて気持ち悪くてしょうがねえ!! しかも大人になったから会いに来ましただぁ? ……ぅう~!!寒い!! 肝が冷え過ぎて凍え死ぬかと思ったぜこの一方的恋愛感情押しつけ野郎がぁ!!」
「は、はじめは一方的だったかもしれないけど、今は分からないでしょ!?」
「じゃあなんでテメエは毎週好きだなんだとクセエ文章送り続けたクセに今更会うのを躊躇ってんだ?
――女からの返事が良くねえからだろう!?」
あまりにも図星。思わず顔をしかめた。
彼は酒場経営に関しては盲目だが、恋愛については鋭い目を持っているらしい。
確かにそうだ。
スプリさんからの反応は良くない。
というより……
「……返事が来たことはないです」
「……異常者が」
彼がポツリと呟いた単語は、僕を本当に傷つけた。
ほおら、足に来た。こういうクリティカルな暴言は足を容易く無力にする。
座っていなかったらおそらく膝から崩れ落ちていただろう。
僕だって彼女からほんの一通も返事が来なかったことにもかかわらず手紙を送り続けたことは、少し前のめりすぎる気はしていた。
実際そのことが重い枷となって僕を酒場に縛り付けている。
結局は不安なのだ。
彼女の美しい容姿は今でも鮮明に覚えているが、そもそもあれだけの美女を十年間も他の男達が放っておくはずがない。
僕の彼女への気持ちは本当だし、彼女を笑顔にする為ならなんだってやる覚悟はある。
でも、もし彼女にいい人がいるのだとしたら、僕は不必要な駄文で便箋を無駄にしていただけの、それこそ異常者だ。
大人になればなるほど、色んなことを知る。そこに欲しいとか欲しくないとか、僕自身の思惑は考慮されない。
誰かに話を聞いてもらえれば、常識に足取りを重くする僕の背中を押してくれるかも、なんて期待した僕が間違いだった。
「やっぱ会いに行かないほうがいいのかな?」
自分で言っておいて、僕は自分の発言に含有されたあまりの女々しさに身震いをした。
諦めることすら、人に判断を委ねようとしている。
スプリさんを幸せにできる大人になる為に十年も頑張ってきたというのに、誰かに助けてもらわないと会う会わないすら自分で決められないのか。
情けなくて、自分のことが嫌いになりそうだ。
「行くしかねえだろうが」
「え?」
たまらず立ち上がった。
聞き返したのも彼の言葉を聞き漏らしたのではなく、それがあまりにも今の僕にとって期待外れ、もとい当初の僕が欲しかった言葉だったからだ。
「十年も一方的にラブレター送り続けるくらいには好きだったんだろ? 会いに行って木っ端微塵に玉砕するくらいの権利はあるだろうよ」
「店主……」
「二十年も生きてねぇガキがいつまでも初恋引きずってんのは健全じゃねえからよ」
「店主……!」
「どうせもう気持ち悪いこと散々やってんだから今更どう思われてるか、なんてウジウジ悩んでるよか、バッサリいかれたほうがずっと良いだろ」
「店主……ぅ!」
揺るぎなくフラれる前提なのは少々思うところはあるけれど、足が軽くなるのを感じた。
彼女の元へ行けるくらいには。
「行ってこい。そんでフラれて戻ってこい。フラれ話は俺の大好物だから、一杯おごってやるよ」
「……ありがとう!」
僕は倍のミルク代をカウンターに置いて、急いで店を出た。
スプリさんの家は分かる。町はずれの林に隠れるように立つ小さな家だ。
プロポーズの準備は出来ている。
少し値段の張った礼服を着てるし、翠玉の指輪が入った豪奢な小箱もカバンに入っている。
彼女に送る言葉も、何度も練習して磨き上げたものを頭の中の取り出しやすいところにしまってる。
便箋の上で繰り返し囁いた愛の言葉よりもずっと綺麗な言葉を使って、あの頃よりもずっと落ち着いた口調で伝えることが出来る。
フラれる準備が出来ているかは正直分からないけれど、店主に散々浴びせられた言葉で多少の耐性が出来ていると信じたい。
町の中心から北へ北へ。寂れた商店街から物静かな住宅地を抜け、小川に架かった石橋を渡る。
少し丘ばった小道を進むと、目印の広葉樹林が見えた。
僕は整えた髪型が乱れてしまわないようにだけ注意を配って、想いに任せて歩を進める。
あった。
青々と茂る広葉樹が光の粒を落とす、えらく年季の入った無骨な家、というよりも丸太小屋という表現が正しいか。
ここでスプリさんが生活しているのか。
僕はずっと想像することしか出来なかった、彼女の営みが感じられる実物との邂逅に感慨を覚えた。
土が被った心許なげな飛び石を踏みながら、扉の先にある温かな光景に思いを馳せる。
扉の前。
彼女がこの先にいる。
心臓がいつもの何倍も高鳴って、足に上手く力が入らない。
縋り付くようにかばんに手を入れて、扁平な小箱を取り出す。
ただの木板のようにも見える、装飾の一つもない無骨な木箱。
でも、僕が持つ他のどんなものよりも大事なものが入っている。
彼女から貰った、葉っぱのアップリケ。
手のひらに包むだけで、なんでも出来そうな気がしてくる。
「いける……。大丈夫……」
何度も何度も呟いて、心を整えてから、アップリケをしまう。
「!」
その時、小窓の内側で何かが動くのが見えた。
スプリさんだろうか?
僕は胸の内から熱いものがこみ上げるのを感じるまま、扉を叩いた。
「スプリさん! 僕です!グラフトです! 十年前、貴方に助けていただいたビーツの村のグラフトです! 貴方とどうしてもお話がしたくて、会いに来ました!」
今すぐ扉を開けて、彼女の元に駆け寄りたい。
でも、店主の言葉を反芻してなんとか気持ちを抑え込み、あちらから扉が開かれるのを待った。
すると、中から足音がした。軽妙な音だ。
スプリさんがいる。
スプリさんに会える。
あの頃見た彼女の眸が思い起こされた。
水底のように暗く、黒泥のように濁った眸。
やっと、スプリさんを笑顔にする為の第一歩を踏み出せる。
僕はその為に頑張ってきた。
全てを奪われた僕を救ってくれた人。
あの日、唯一見つけた大事なもの。
僕のたった一つだけの心の支え。
扉の留め金が外れた音がした。
開く。
空気と共に、僕の意識は徐々に大きくなる開口部に吸い込まれる。
ふわりと、優しい緑の香りが鼻をからかう。
幾つもの金色の筋がそよいで、艶めきが光を散らす。
黒いワンピースから覗く月光のような肌が、僕の眸を明滅させる。
彼女がそこにいた。
僕の顔をじっと見上げる彼女は、あの頃とちっとも変わらない美貌を携えていた。
彼女はあの頃の、僕の命と心を同時に救ってくれた姿のまま。
だからこそ、僕は言葉を失った。
「いらっしゃ~い!」
格別の喜びをその眸に携えて、快活に笑ったのだ。