3_片想い
年が明け、平成4年。課内の新年会で、幹事が彼女を呼んでくれた。そして、策略のように彼女が私の隣の席に座ることになった。
里美は鍋から私の皿に料理をよそってくれたり、飲み物を勧めてくれたりと、自然に気を配ってくれた。
心の中で言葉を探し続けながら、結局あまり多くの会話を交わすことができなかった。ただ、彼女と過ごす時間の中で、胸の奥に芽生え始めた感情を自覚し始めた。
彼女をもっと知りたい。
それが、この時の正直な気持ちだった。
生田さんは、それからも課主催の新年会やボーリング大会などにも参加してくれた。私は、会社では相変わらず挨拶を交わす程度だった。
数か月前までの日常には何の不足も感じていなかったはずなのに、彼女が職場に加わってから、私の日々は少しずつ変わり始めていた。課のイベントがあるたびに、男ばかりの課だから、女性社員を何人か誘うことが多かったが、その中には必ずと言っていいほど生田里美がいた。
それでも、私は彼女と積極的に会話をすることはできず、何か話しかけたいと思いながらも、緊張して結局は挨拶だけで終わる日々が続いていた。若い男として、彼女を抱きしめたいと思ったり、彼女が自分の隣にいてくれる未来を夢想したりもしたが、それを実現するための行動は起こせないままだった。
4月頃になると、生田さんを含めた女性社員たち4人が休憩所で弁当を広げている姿が見えることがあった。その光景を部品課の事務所から眺めるのが私の日課になりつつあった。根本や岸本と並んで昼食を取っているときも、私はつい視線をそちらに送ってしまう。生田さんと目が合った瞬間は心臓が跳ねるような感覚に襲われた。他の女性社員なら何とも思わないのに、彼女だけにはこんな反応をしてしまう自分が不思議で仕方がなかった。
ある日、根本から驚きの話を聞かされた。
「生田さんには二年越しの彼氏がいるらしいよ」
根本は同じ課の野島さんと付き合っているため、生田さんの情報も耳に入るのだろう。その話を聞いたとき、私は思わず言葉を失った。彼女のような人に恋人がいるのは当然のことだと頭では理解していたが、心の中では諦めきれない気持ちが膨らんでいった。
彼女に彼氏がいると分かった後も、私の中で彼女への想いはむしろ強くなっていった。それは嫉妬というよりも、自分には到底届かない「高嶺の花」としての彼女の存在が、より一層自分を惹きつけているからだと思う。そして私は、彼女に対する気持ちを胸の中に秘めたまま、ただ遠くから見守る日々を続けることを選んだ。
私の中でいつの間にか彼女が、理想の女性にまで成長していた。気づけば彼女のことを好きになっていた。
昼食時に彼女を見ている私を根本と岸本がよくからかって来た。私は幾度か、
「生田さんいいよな。好きだな」と言ったことがある。しかし本人を前にしてこの言葉を言うことがどうしてもできなかった。
5月に入った頃、休日によくつるんで遊びに行く一つ年下の山下が、雄琴に遊びに行こうかと話してきた。機会がなかっただけで、SEXに興味が無いわけではなかった。山下は行こうと言うばかりで二人ともに行動に移せずにいた。退屈な日がみるみる過ぎていった。
私は、5月も終わるある日の夕方、一人で車に乗り込み家を出た。琵琶湖大橋を渡り、雄琴のソープランド街に降り立った。今考えると、誰かとつるんで行動するのではなく、自分一人で童貞を卒業する。そんな勇気を試したかったのだと思う。
そんな中、夏のボーナスが出る日を前に、課でビアガーデンに行こうという話が持ち上がった。飲み会の幹事を任された私は、野島さんに女性社員を誘ってもらうようお願いし、生田さんには私から直接声を掛けることを決意した。
勤務終了間際に管理課を訪れると生田さんには、情報が伝わっていたようで、生田さんは私に向かって笑顔で、
「やっぱり夏はビアガーデンよ」と参加を承諾してくれた。
その笑顔を見ただけで、私はその日一日を乗り切るエネルギーをもらったような気持ちになった。
ビアガーデン当日、女性社員たちが少し遅れて到着すると、私は内心で『彼女を自分の隣に座らせるんだ』と決意していた。しかし、いざその瞬間になると声を掛けられず、彼女は他の席に座ってしまった。根本や岸本が『ほらな』と言いたげな顔で私を見ているのが分かる。
飲み会が進む中、岸本が「席替えしよう」と提案してくれた。彼の機転のおかげで、私は生田さんの隣に座ることができた。緊張しながらも、彼女と学生時代の話や映画の話をした。その短い会話でも、彼女と繋がる時間は私にとっては、何よりも貴重な時間だった。
席替えで距離を縮めたものの、肝心な言葉はまだ言えないままだった。ビアガーデンが終わりに近づくころ、彼女が席を立った。私はチャンスだと思った。根本も後を追うように目で促してきた。私も意を決して、彼女の少し後に席を立ち手洗い場に向った。
先に自分も手洗いを済ませたあと、ビアガーデンへ向かう彼女の後ろ姿を見つけた。生田さんがテーブルに戻るまでに捕まえたかった。私は、彼女の名前を呼び、立ち止まっている間に追いついた。
「生田さん、あの・・・今度、映画でも一緒に行きませんか?」
しかし、彼女は曖昧な笑顔で、
「今月は忙しいから、また今度ね」と返事をかわした。
それでも、この一歩を踏み出せたことで、自分が少しだけ変われた気がした。
結局ビアガーデンでは、彼女を誘うことはできず、その後、彼女に電話を掛けた日もあったが、忙しいことを理由に結局断られてしまった。それでも私は彼女のことを諦めることはできなかった。夜になると、車で彼女の家の前を通ることもあった。ふだんは停まっているはずの彼女の車がない時は、彼女が自分の手の届かない場所にいることを実感した。
ビアガーデンを境に、私の片思いはますます深まっていった。それでも、自分の気持ちを伝える勇気はまだ出せず、遠くから彼女を見つめる日常が続いていったのだった。
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