2_三十数年前の全ての始まり
彼女の名前は、生田里美。三十年前迄はその名前を聞くだけで胸がざわついたものだ。嬉しさや切なさ、そして自分への苛立ちが複雑に絡み合い、どうにも整理のつかない感情をおぼえた。
彼女との出会いは、今から三十数年前。昭和が突然終わり、平成という新しい時代が始まった直後のバブル真っ最中。人手不足から、企業も人員補充で採用人数を増やしていた頃、平成三年の春に彼女は新入社員として、私が勤める会社に入社してきた。
最初に彼女を知ったのは、社内報に載った新入社員紹介の記事だった。休憩時間、私達の課では、『どの女子社員が一番好みか』という男ばかりの職場では日常茶飯事の話題で盛り上がっていた。その年は珍しく新入社員が十人近く入社し、女性社員も五名いた。私が一番に選んだのは生田里美、彼女だった。
黒く長い髪に少しふっくらした顔、どことなくお嬢さんぽい雰囲気がした女性だった。近隣の女子短大の幼児教育課を卒業したばかりの二十歳だった。幼稚園の先生か保育士を目指すならともかく、機械メーカーに就職してきたのは、少し意外だった。
その頃、彼女たち新入社員は、入社後すぐに本社のある東京へ四ヶ月間の研修を受けることになったいた。予定通り研修を終えた後、彼女達は、私が勤める関西の工場に配属になった。思っていた通り、技術系ではなく、彼女は総務課に配属された。私の課とは異なる部署だったが、小さな工場ゆえに社員全員の顔は自然と覚える。
月一回社員を集めて行われる全体朝礼の場で、新入社員の紹介が行われた。その場で彼女を初めて直接目にした。
「趣味はスキーです。あと、映画を見るのが好きです。よろしくお願いします!」
明るくはっきりとした声。その一瞬で、彼女はただの『新人』から、私の中で『特別な存在』になったような気がした。しかし、それを意識するのが怖くて、自分自身にそう思わないよう言い聞かせていた。
それまでの私は、女性と縁のない人生を歩んできた。男子校育ちで女性への免疫はほぼゼロ。付き合った経験もなく、彼女を特に欲しいとも思わなかった。今のようにネットが復旧していた時代でもなく、携帯電話も殆どが持っていなかった時代。休日は本を読んだり、車で遠出したりと、ひとりの時間を楽しむのが好きだった。
会社の同期とドライブや旅行に行くことはあったが、それも気の合う仲間と遊ぶという程度のものだった。
生田里美とも、朝や帰りに会う度にただ挨拶するだけだった。他の社員に接する態度と何ら変わりなく、彼女に対して特別な感情を抱くこともなく、日々の仕事に追われながら時間は過ぎていった。
その年の冬のボーナスが出た日、後輩の根本と岸本とで駅前の居酒屋へ行った。根本は生田里美と同期だが、工業高校卒業で今年19歳、すでに別の新入社員と付き合っていた。岸本は私より2歳下の23歳で今年社内結婚したばかりだった。
同じ年ぐらいの男3人の話題は、仕事のことや会社での噂などで盛り上がった。今年入ってきた女子社員の話題も出て、必然的に私がターゲットになる。
「田村さん、誰が一番可愛いと思います?」
岸本に尋ねられ、私は苦笑いしながら答えた。
「そりゃ・・・生田さんだろうな」
名前を口にした瞬間、心のどこかがざわついた。
「やっぱりね!あのふっくらした感じ、いいっすよね。でも、話ししたことあるんですか?」
正直、生田さんと話したことがなかった。ただ、小さな事業所で彼女の仕事振りや他の社員と話しているのを観察するうちに、どこか気になる存在にはなっていた。
お淑やかな中にも少し天然なところがあり、綺麗な瞳と少し高めの鼻が印象的で、彼女の魅力を一層引き立てていた。
一件目の居酒屋を出た後、別の店で飲んでいる上司たちのグループに合流することになった。そこには、偶然にも生田里美がいた。彼女を間近で見るのは初めてだった。
私は彼女の向いの空いていた席に座った。本社の研修から帰ってきてから5ヶ月経っていたが、彼女をこれほど間近かで見るのは初めてだった。彼女も少し飲んでいたらしく頬の辺りが紅く色っぽかった。
みんなが席について、乾杯をしようということになったが、私達3人がいきなり入ったので、ビールを継ぐグラスがなかった。
「これ、どうぞ。」
里美は、笑顔を見せて、
「私は、これ飲んでいるから」と烏龍茶のグラスを持ち上げて、余っていたビールの入ったグラスを私に渡してくれた。
「え、あ、ありがとう。」
私は一瞬戸惑いながらも、ぎこちなく応じた。
「田村さん、乾杯しましょう!」
彼女の差し出したグラスを受け取りながら、こんなに可愛い人だったんだなと私は思った。 普段ならもっと軽快に言えるはずの言葉が、彼女を目の前にすると喉に詰まってしまう。
乾杯が終わると、根本たちが気を利かせたのか、こう言った。
「田村さん、生田さんと話ししといてくださいよ」
女性への免疫も無く浮いた話が無い私を見かねて、根本と岸本が気を利かせてくれたのだろう。
彼女の笑顔が眩しすぎて、視線をどこに置けばいいのかさえ分からない。焦る気持ちを隠すようにビールを一口飲む。けれど、それだけでは空気を埋めることはできなかった。
私は里美が自己紹介で言った内容を思い出し、緊張しながらも、私は話題を振る努力をした。彼女の出身地や趣味のスキー。だが、慣れない女性との会話に加え、里美に勧められた日本酒で少し酔いが回り、私の頭は混乱していた。
喋りたいことは色々とある。しかし、今まで女の子相手に喋ったことがないせいか、すぐに会話が途切れてしまう。
「田村さんも、映画とか見ますか?」
不意に彼女が話しかけてきた。驚きと緊張で心臓が跳ねる。
「あ、ああ、映画ね・・・えっと・・・」
「あんまり最近は見れてないけど・・・好きだよ。生田さんは?」
どうにかそう答えたが、口の中がカラカラで、自分でも声が上ずっているのが分かった。
「『ホームアローン』、見ました!すごく面白かったんですよ!」
彼女は目を輝かせて言った。その純粋な笑顔を見るだけで、また緊張してしまう。
「あ、ああ、あの、少年が泥棒をやっつけるやつだよね」
思わず目をそらしながら答えると、彼女が嬉しそうに頷く。
「そうです!トラップに引っかかりまくる泥棒が面白くて、もう大笑いしました!」
彼女が楽しそうに話す姿を見ていると、どこかホッとする反面、心の中では焦りが消えない。
「あ、あれ、何も考えずに笑えるよね。」
やっとのことでそう返すと、彼女は嬉しそうに笑った。
「ですよね!あの音楽とかも良くて、クリスマスの雰囲気が最高でした」
彼女の明るい声が耳に心地よい反面、何も考えられなくなる自分が情けなかった。
会話を繋げようと頭の中で必死に考えるが、浮かんでくるのは何もない。結局、彼女の話に頷きながら、時折短く返事をするだけで精一杯だった。
その後も彼女との会話は途切れがちだったが、ふと目をやると、彼女の箸の持ち方が目に留まった。
私は、勇気を振り絞って、口を開いた。
「あの・・・箸の持ち方、すごく綺麗だね」
自分でも情けないほど小さな声だったが、彼女は驚いたように顔を上げて笑った。
「あ、これですか?小さい頃、おばあちゃんに厳しく教えられたんです。いまだに食事の時に注意されちゃうんですよ」
「そうなんだ。俺なんか、いくら直そうとしても全然ダメでさ」
そう答えると、彼女は少し笑いながら言った。
「田村さん、そんなに変じゃないですよ?でも、おばあちゃんに見られたら怒られちゃうかもですね」
その笑顔を見て、また胸が締め付けられるような感覚がした。
少しの会話ができたことが嬉しい反面、自分の不器用さがもどかしくて仕方がなかった。宴会が終わった後、家に帰る道すがら、彼女の笑顔が何度も頭に浮かんだ。
悔しさと同時に、なぜか胸の奥が暖かい気持ちになった。彼女の優しさや、楽しそうに話す姿が忘れられなかった。
自分自身を否定する気持ちと、どうしようもなく彼女を意識してしまう気持ちが入り混じり、その夜はなかなか眠れなかった。
*本文中に『~料理をよそってくれたり、女性らしいことをしてくれた。』とありますが、当時の一般常識としてそのように思っただけで、男女差別の意図はありません。
お読み下さりありがとうございました。
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