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第2話 エチオピア・モカ・ナチュラルと僕

 『コーヒーボーイ』が好きだ。

 

 あのカフェテリアが僕という心の寂しい人間に、ほんの僅かな安らぎを与えてくれる。


 どれくらい好きかと言うと、いつか僕の自宅と『コーヒーボーイ』がどこでもドアのようなもので繋がってしまえばいいのにと思っている。


 あるいは、巨額の投資をしていっそ家の地下に『コーヒーボーイ2号店』をオープンしたいほど、僕はあのカフェテリアにご執心だった。


 なかでもどこが好きかという「本日のカフェ・ラテ」というメニューだ。


 「本日のカフェ・ラテ」は日を跨ぐごとに豆が変わる。昨日飲んだカフェ・ラテと今日飲んだカフェ・ラテは味が異なるのだ。


 しかしほとんどの人間は豆が変わったからといって「豆が違う気がするなぁ」くらいの感想しか出てこない。僕だってそうだ。


 そんな僕らのことを見越して、店主はいつも豆の名前をプリントしたコースターを添えてくれる。どれだけ豆に疎い客でも、この気遣いで通ぶれる。凄まじいほど粋なサービスに笑みさえこぼれてしまう。


 エチオピア・モカ・ナチュラル


 長い余韻に広がる誘惑のモカフレーバー


 注文したカフェ・ラテが届いて、僕はとにかく驚いた。それはコーヒーの味にではない。コーヒー豆の紹介文に一際大きな衝撃を受けた。


「長い余韻に広がる誘惑のモカフレーバー」


 誰にも聞こえないように、口の中で嚙み殺すように呟く。誘惑。誘惑か。誘い、惑わすという意味だ。窓の外は雨模様だが、本来であれば声に出して言うのはまだ憚られる時間帯のように思える。それほど考えも及ばないような単語が混ざっていた。


 エチオピア・モカ・ナチュラル。誘惑のモカフレーバー。ここで言われるモカとは二つの意味がある。

一つは、アラビア半島にあった、かつての港である「モカ港」から出荷されたことに由来して、エチオピアとイエメンの二国で生産されるコーヒーを「モカ」と呼ぶ原産地証明書的な意味


 二つ目は、カフェ・モカなどの「モカ」。ここにおけるモカはエスプレッソにミルクやチョコレートシロップなどを加えたドリンクのことを指している。


 僕が頼んだのはカフェ・ラテだから、おそらくはチョコレートのような苦みを伴った甘味のある香りがするのだろうと見当をつける。


 しかし言われてみれば、コーヒー豆の香りとは不思議だ。

 紅茶を隣で誰かが飲んでいてもなんとも思わないのに、コーヒーは匂いが近くで漂うだけで蝶のようにふらふらとお店に入ってしまう。

 それは確かに誘惑と表現して差し支えないのかもしれない。


 どこか人目を憚りながらストローに口をつけた。吸ってもないのに、エチオピア・モカ・ナチュラルの香りでストローが濡れていた。


 舌の上に冷たく甘いカフェ・ラテが広がる。深煎りの豆特有の香ばしさ。鼻すじと眉間の間にしわが寄ってしまいそうなほどの長い余韻。一日中、僕の頭から離れないようなミルキーな後味が、舌先を甘く痺れさせる。


 それはまるで、老人ばかり市民プールで赤い派手な水着を着た褐色肌の女性と出会ったような瞬間だった。日常のなかにあるファンタジーを見つけて喜ぶ子どもみたいな心境で二口目を飲んだ。


 普段では考えられない、喉が鳴ってしまうかのような飲み方をした。すると僕のなかでエチオピア・モカ・ナチュラルがそのしなやかな四肢を携えて、プールサイドを歩いている姿が想起される。赤いビキニのラインは嫌でも釘付けになった。日本人離れした高い身長、ウェーブのある長い髪が背びれのように肌に張り付いている。水の中に飛び込むと、熱帯魚のように25mのプールを泳ぐ。その端っこにいる僕はまだ中学生だ。現実感のない光景に釘付けになって、彼女の隣りのレーンで泳いでみせる。


 僕は誘われるように三口目、四口目を口にした。繰り返し飲んだ。エチオピア・モカ・ナチュラルと僕はお互いに遊んだり、言葉を交わすことはなかった。それでも僕らは夏の間、いつも隣りのレーンで泳いだ。彼女の泳ぎは優雅で、淀みなく水の隙間を塗って歩いているようだ。深く深く突き進んでいく。


 僕はそんな彼女に追いつきたくてひたすらに泳いだ。泳いで、追いついたときに、僕から告白しようと思っていた。彼女のゴーグルも付けずに泳ぐ姿が好きだった。プールサイドで重たそうに髪を払う姿に強い憧れのような感情を抱いていた。


 彼女が現れるのは7月の間だけだ、僕は足繫く通った。毎年7月になると市民プールに通った。彼女の水着は去年のものと違うものに変わっていた。それをよく見たくて、隣りのレーンで泳いでいた。


 三年目の夏に、受験も相まって市民プールに訪れない夏があって、それを境に僕は市民プールに行くのを辞めてしまった。ついぞ僕はエチオピア・モカ・ナチュラルと一度も言葉を交わすことはなかった。

それは僕の人生において、長きにわたる小さな後悔になった。


 いつまでも舌の上に残るエチオピア・モカ・ナチュラルの後味とともに、僕はまた妄想かも現実かも分からない時間に思いをはせる。果たしてこの身体中を柔らかく抱きしめるような時間が、あのとき訪れる可能性はあったのだろうか。


 僕は半分だけ残ったエチオピア・モカ・ナチュラルを家まで持って帰ると冷蔵庫の中にある牛乳を注いだ。


 薄くなって僕の前にできたそれは、エチオピア・モカ・ナチュラルでも、ましてやカフェ・ラテでもない。なにかとてつもなく悲しい飲み物だった。


 コーヒーの余韻が、僕にある子どもを(かどわ)かす。


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