【コミカライズ】「僕の好きなひとはね」って、あなたの惚気は聞きたくありません。初恋を捨てようとしていたのに、デートを申し込んでくるなんてどういうつもりですか?
「僕が失礼なことをしたと言うのなら謝る。だから、君が怒っている理由を聞かせてくれないか」
王立学園の教室内には、もう私たち以外ひとっこひとり見当たりません。明日からは待ちに待った長期休暇。みんな自領へと戻るために寮の自室の片付けに大忙しなのです。
そんな中、同級生であるダヴィさまが、少し焦ったような顔で私の手を掴んできました。ひんやりとしたてのひらに、思わず胸が高鳴ります。ああ、いけません。彼にはすでに心に決めたかたがいらっしゃるというのに。動揺を押し隠して、令嬢らしく微笑んでみました。
「私がぼんやりしていたせいで、ダヴィさまにご迷惑をおかけしてしまいました。これからは、いち同級生として節度を持った形で対応させていただきます」
今後、必要以上に関わりを持つつもりはない。言外に匂わせれば、ダヴィさまが眉を寄せました。渋いお顔をなさっていても、なんと美しいのでしょう。
「ヘーゼル、聞いてくれ。僕は!」
「申し訳ありません。そろそろ実家に向かうために準備をしなければなりませんので」
そっと手を振りほどき、後ろも見ないままその場をあとにしました。
ダヴィさまの反応は当然のことでしょう。昨日までは友人として親しく過ごしてきたのです。それなのに長期休暇が明日から始まるというときになって突然、「あなたとは文通もしないし、領地に遊びに行くこともない。むしろ、今後はどうしても必要なとき以外は話しかけないでくれ」と遠回しに伝えられたら、疑問に思うほうが普通です。
彼が驚き、理由を聞きたがったにも関わらず拒絶したのは、すべて私のわがままだったから。
恋などというのは、自分がするものではない。誰かの用意してくれた甘い蜜のおこぼれを味見するだけで十分。そんなことを本気で考えてた私が愚かだったのです。
***
昔から、恋をしているひとを見ているのが好きでした。きらきらとした瞳はどんな宝石よりも美しく、いつまで見ていても飽きません。
『あの方のことを考えると、夜も眠れませんの。彼にふさわしい淑女になれるように頑張りますわ!』
『明日は彼女の誕生日なんだ。彼女のために用意したプレゼントを渡すつもりでいる。そのために実は自分で鉱山に行ってきたところでね。自領のことを勉強する良いきっかけにもなったよ』
『わたしたち、卒業したら海の見える街に住む予定なのよ。お互いを支え合う夫婦になりたいと思っているわ』
甘酸っぱい片思いに、胸が高鳴る両思い。これ以上ないくらい濃厚な相思相愛。幸せそうな顔で紡がれる惚気というのは、大好物のプリンにだって敵わないとろけるような甘さを持っています。
他人の恋バナを嬉々として聞くのなら、好きなひとなり恋人なりを作って自分が惚気たらいいのに。そんな忠告を受けることもありますが、自分の恋愛なんて必要ないのです。
自分で恋なんかしてみてごらんなさい。甘いどころか苦くて苦しくて、辛い思いばかりすることになるに決まっているのですから。
『僕の好きなひとはね、いつもにこにことみんなの話を聞いているんだ。誰かの悪口や陰口を言うところなんて見たことがない。とても優しい子なんだよ』
『甘いものがとっても好きらしくて。僕は彼女に出会うまではそれほど甘いものには興味がなかったんだけれど、ずいぶん詳しくなってしまったよ。彼女のことを考えると、実家の農業や酪農への政策ももっとしっかり考えようという気持ちが湧いてくるんだ。好きなひとができるまで気がつかなかったのかと言われたらその通りだから、ちょっと恥ずかしいんだけれどね』
最初は、他の友人たちと同様に話を聞いているだけで幸せだったのです。いつからでしょうか。ダヴィさまのお話を聞くと胸が痛むようになったのは。彼にここまで想われるお相手が羨ましいと妬むようになったのは。
女性に好まれる甘味の市場調査を行いながら、領地での商業、生産業の発展について考えるダヴィさまはとても素敵なのです。熱心に図書室で調べ物をする姿をつい追いかけてしまいます。
用事もないのに図書室に出入りするせいで、「無類の本好き」だと思われてしまうありさま。しかも申し訳ないと思いながら、都合の良い言い訳ができたと喜んでしまう自分がいます。
いっそさっさと相思相愛のカップルになってくださればこちらも諦めがつくというのに、ダヴィさまの好きなひとはいまだに彼の好意に気付いてくれないというではありませんか。
――そんなかたなどやめて、いっそ私と――
そうお伝えしたいと何度思ったことでしょう。けれど、その一言がどうしても言えません。
ダヴィさまのお好きな方は、誰かの悪口や陰口など絶対に言わないお方。恋バナを聞きたいと言っておきながら、相手を好きになってしまうような恥知らずとは雲泥の差です。
もうこれ以上、耐えられない。そこで私は長期休暇に入る直前に、絶交宣言に近いものをお伝えしたのでした。
私と彼の実家は随分と離れています。学校が始まるまでお会いすることもないでしょう。その間に、彼への気持ちを忘れてしまえば良いだけなのです。
それなのにどうして涙が止まらないのでしょうか。
***
「それで実家に逃げ帰ったあげくべそをかいているのね。まったく困った子だわ」
「お姉さま、そんなことをおっしゃらないで。私、泣いてしまいます」
「もう泣いているじゃない。おめめが真っ赤よ」
実家に帰ると、お姉さまが出迎えてくれました。新婚だというのに、私のことを気にかけてくれているのです。実の両親は残念ながら留守がちなのですが、お姉さまは両親のぶんまで私に愛情を注いでくれます。
「相手は婚約をしているどころか、好きなひとに気持ちも伝えていないというじゃない。恥知らずとか無用の心配よ。いっそその場で告白して、当たって砕けてくればよかったのに」
「当たって砕けたら、もう立ち直れません」
「長期休暇の間に、わたくしが糊でくっつけといてあげるわ」
ころころと笑うお姉さまは、儚げ美人な雰囲気とは裏腹にとても行動力に富んだ女性です。両親の反対を押し切り、愛する方との結婚を勝ち取るくらいですからね。
「お姉さまは、結婚してもお姉さまね。いつも生き生きとしていて、なんだか眩しくなってしまいます」
「あら、ヘーゼルったら。そうね、あなたもとても素敵なレディになったじゃない。可愛い妹が恋を知ったというのなら、お姉さま直伝の必勝法を教えてあげるわ」
ぱちりとウインクをしてくるその笑顔が魅力的で、思わず赤面してしまいました。
私が生まれた国は、王族や高位貴族たちによる婚約破棄が頻発した結果、幼い頃に婚約者を定めることをよしとしなくなりました。時代の転換点とでも言うのでしょうか。私の両親の時代と私の時代では、ほぼ別の国と言っても過言ではないくらい恋愛観が変わってしまったのです。
もちろん家格の釣り合いなどを考えなければなりませんので、令嬢や令息の好き嫌いだけが優先されるわけではありません。それでも女性は親に従うだけと言われていた時代に比べれば、大きな進歩と言えるでしょう。
「お姉さまはこの方針転換に随分助けられたのですよね」
「ええ、ちょうどよかったのでさっさと結婚してやったわ」
「もしもこの流れがなかったらどうなさっていたのですか?」
「そうねえ、駆け落ちでもしていたかしら」
悪そうに微笑んで見せるお姉さまに、つい吹き出してしまいました。
「もう冗談はやめてください」
「あら冗談じゃなくってよ。それにわたくし、落ちぶれて貧しい平民暮らしをするつもりはさらさらないもの。侯爵家の商会は、もともとわたくしが屋台骨。結婚を許可してもらえないなら、商会の権利と職人を引き抜いて出ていっていたわ。日々、目を光らせているのよ」
あっけらかんと言い放つお姉さまに、さすがに呆然とするばかり。確かにおっしゃる通りなのでしょう。お姉さまならどんな手段を使っても、自分の想いを貫くに違いない。そう納得するだけの強さを持っていますから。
愛するひとの隣に立ち、両親に向かって彼の素晴らしさを語るお姉さまは、本当に輝いていました。その光は今も健在です。以前よりも雰囲気が穏やかで柔らかなものになったように思うのは、なぜなのでしょうか。恋というのは、熟成することでより深い愛に変わっていくのかもしれません。
「大丈夫よ。素直になればいいだけなの。恋愛は駆け引きが大事だって言うひともいるけれど、恋愛をゲームとして楽しむ特殊なひと以外は素直になるべきなのよ」
姉の言葉に小さく苦笑しました。いくら素直になったところで、私のような人間にはやはり厳しすぎると思ってしまったからです。愛されたいと願うと同時に思い出すのは、両親の普段の言葉。
『あなたは、ひとの三倍もの時間をかけてやっと普通にしかなれないの。だから他のひとが遊んでいる間に、お父さまのように努力だけはしなさい』
『お前はちょっと要領が悪いからね。お母さまを見習って、せめて愛嬌だけは忘れないようにしなさい』
娘を思いやっているように見えて、ごく自然とお互いを貶めているようなちくちくとした言葉の数々。両親にさえ愛されていない。そういじけたくなる卑屈な私を、大切にしてくれる誰かを見つけるなんて無理に決まっています。
いっそ親が決めた婚約者がいたならば、最初から相手に期待することなく、粛々と求められる女主人の役目をこなすだけで良いでしょうに。それこそ恋など、物語の中にある絵空事だと笑い飛ばせたことでしょう。
自由な恋愛が認められたことで、私は誰かに好きになってもらわなければいけなくなってしまいました。だからこそ最初から諦めている私は、こっそりとみんなの恋の味見をさせてもらっているのです。
「ヘーゼル、どうしたの?」
「私にはできそうにありません……」
「何を言っているの?」
お姉さまの瞳に映る自分を見たくなくて下を向きました。
***
両親からの言葉をぽつぽつとお姉さまに伝えていると、ぎゅっと強く抱きしめられました。
「ごめんなさいね。わたくしは、両親からの愛情なんてとっくの昔に必要としていなかったから、あなたの渇きに気付いてあげられなかったのね」
「そんな。お姉さまは、私を誰よりも愛してくださいました」
留守がちな両親ですが、その実態はそれぞれ愛人の元に出かけているのです。それほどまでにお互いに関心がないのであれば、いっそ終わりにしてしまえばよいのに。メンツの問題か、それとも政治的な問題か、頑なに両親は離婚を拒み続けています。
「それでも足りなかったのよ。本当なら、両家の祖父母、両親から当たり前のようにもらえるはずの愛情をもらえなかったんだもの」
「それはお姉さまも同じことで」
「でもわたくしは、代わりに商売を始めたわ。たくさんのひとに感謝されたり、売り上げを伸ばしたり……。わたくしが数字にこだわっているのも、きっとあなたと同じ理由よ」
学園に在籍している頃から商会を立ち上げたお姉さまのことを思い出し、首を傾げました。いつも笑顔で影なんて持っていないように見えるお姉さまに、承認欲求なんて存在したのでしょうか。
「そうでしょうか」
「そうよ。それにね、同じ兄弟姉妹でも心の中に持っている器の大きさは違うものなの。わたくしの器はきっとグラス程度、でもあなたは海くらい広いのかもしれないわ。だから私の愛情程度では満たされなかったのかもしれない」
「器がひび割れていないだけ良かったのかもしれませんね」
姉妹そろって顔を見合わせれば、お姉さまが吹き出していました。ここでかねてからの疑問をぶつけてみることにしました。
「お父さまとお母さまは、どうしてあんなに仲が悪いのでしょうか」
ずっと聞きたかったけれど、聞けなかったこと。私の質問にお姉さまが、ため息をひとつもらしました。
「幼少期に婚約を結ぶことが一般的でなくなったのは、お父さまとお母さまの時代に揉め事があったからなのよ」
「揉め事?」
「とても可愛らしい、けれどご実家の爵位が低いご令嬢がいてね。王立学園のたくさんの男性が夢中になったそうよ。男子生徒だけでなく、男性教諭までも。その過程でたくさんの女性が婚約を破棄されたと聞いたわ」
「そんな簡単に婚約が破棄されるものなのですか」
まるで物語のような話に、思わず声を荒らげてしまいました。確かに婚約破棄が頻発したということは聞いていましたが、たったひとりのご令嬢をめぐってのことだったなんて。
「もちろん無理よ。政治的な配慮も無視しての婚約破棄だもの、各派閥もめちゃくちゃになってあわや内乱という状況だったらしいわ。今でも界隈で語り草になっているみたいだから、よっぽどひどかったのでしょう」
「それに対して、陛下が英断を下されたと」
「そうするより他に仕方がなかったでしょうね。当時の王太子殿下は廃嫡され、例のご令嬢は修道院に入ることになったそうだけれど、実際はどうなったものやら」
それでも事態を収拾できたことが奇跡のような気がします。ご令嬢は、この国の破滅を目論む他国からの間者だったのでしょうか。
「婚約が破棄された後、違う相手と再度婚約ができたひとたちは幸せだったでしょう。相手に婚約者を裏切った過去があっても、とりあえず自分とはゼロベースでスタートを切ることができるもの。でも、政治的な力関係ですべて別の相手とペアを作ることはできなかったわ」
「まさか」
「そうよ。我が家の両親は数少ない元サヤ組。裏切った婚約者との結婚を命じられたの。でもお母さまは、お父さまを許せなかった」
「お父さまは謝ったのでしょうか」
「まあおざなりに数回は謝ったんじゃないの。でも、お母さまが許してくれなかったので、逆ギレしたんじゃないかしら」
「なるほど」
「それで両家の親たちも、お互いに相手を責め立てたらしいわ。片方は『一度の浮気くらい許してやれ。心が狭い女はみっともない』、もう片方は『浮気をしたくせに開き直るな。誠心誠意、一生をかけて償え』とね」
「泥沼ですね」
もしもお母さまの立場に自分がいたら……と考えてぞっとしました。自分を裏切った相手と結婚するより他になく、白い結婚をすることもできず、子を孕み育まなければならないなんて。その状態で子どもを愛せというのは、あまりにもむごすぎます。
「人間だから好き嫌いがあるのは仕方がないけれど、それでも親としての自覚は持ってほしかったわね」
「でも、心は理屈で縛れません。本当に難しいということがよくわかりました」
誰かを好きになった今なら、お母さまの気持ちも理解できるような気がするのです。
「それでも時間が薬になる可能性もあったのだけれど、両家のおばあさまが台無しにしたの」
「まだ続くのですね」
「例えばわたくしの名前は、父方のおばあさまがつけたのよ。だからお母さまはわたくしの名前を絶対に呼ばないわ」
「なるほど。お姉さまの愛称が、本来の名前とは全然違う理由がわかりました」
「たぶんあなたの場合は、髪の色かしら」
「ひいおばあさまの色だと聞いたことがありますが、それにしては両親ともに嫌な顔をする気がします」
「もしかしたら例のご令嬢と同じ色なのかもしれないわね」
もしそれが事実なら、お母さまご自身が産んだからこそ、嫌悪感に耐えられなかったはず。ここへきて、何だかお母さまが可哀想に思えてきました。
両親の事情が私の耳に入らなかったのは、箝口令が敷かれていたのでしょう。
お父さまとお母さま。どちらにもいらない子どもだと言われているように思っていましたが、本当にそうなのだとわかって、私は逆にほっとしてしまいました。私は、「こんなに愛されているのに、それを素直に受け取ることができない、そのくせ愛情を欲しがってばかりいるひねくれた子ども」ではなかったのです。
「あのふたりは、いまだに素直になれないの。きっと一生このままよ」
「そうでしょうね。今さら、ふたりがどうにかなれるとは思えません」
「もちろんそれを理由にあなたを傷つけたことは許されることではないわ。でもあなたがこれからも傷つくのは、実はとても勿体ないことなの。あのひとたちは、あなたを鏡にして自分自身を傷つけ続けているのだから、それに付き合っていたらあなたが損をするばかり。もうあんなひとたちのこと、忘れてしまいなさい」
「親不孝になりませんか?」
「わたくしたちを愛さなかったのよ。わたくしたちが愛してあげる必要はないわ。そのぶんの愛は、誰か別のひとに捧げなさない。学園の誰かさんとかね」
「お姉さま!」
「それにいざとなったら、わたくしたちだけで幸せになればいいのよ」
魔法使いみたいに指を鳴らしてみせるお姉さまの姿に、私は久しぶりに晴れ晴れとした気持ちになるのがわかりました。
***
「さあ、このお話はもうおしまい。おやつにしましょうか? あなたの大好きなプリンを用意してあるの」
「もう、お姉さま。私をいつまでも小さい子ども扱いして。プリンがあればすぐにご機嫌になると思っていませんか」
「あら、違うの?」
「そうですけれど!」
用意されていたのは、私の理想をそのまま形にしたような素敵なプリンでした。
「これは我が家の料理人が?」
「いいえ。ここ最近人気の出てきたとある有名菓子店があるのだけれど、そこがこちらの領にも出店するということでうちの商会に挨拶にこられたの。我が家を通しての販売だから、この辺りではまだ出回っていないのよ」
スプーンを入れれば、ふるふると揺れる黄金色のプリン。一口食べると、夢心地のお味がします。
「素晴らしいです!」
「あなたのためのプリンなんだもの、無理を言って多めに用意してもらったわ」
「このとろけるなめらかさ。そして、カラメルが別添えというのが最高ですね」
カラメルが苦手な私は、思わず小躍りしてしまいました。甘味を台無しにする苦味なんて言語道断なのです。なんてわかっているお店なのでしょう。つい私のために用意されたお店のように思ってしまうほどで、開店が待ち遠しくなってしまいます。
「ねえ、せっかくだから今日はカラメルもかけてみない? 両親のことにけりがついたのだから、新しいことに挑戦してみるといいわ」
お姉さまの言葉に、ついしかめっ面になってしまいました。どうしてわざわざ嫌いな苦い味を食べなければならないのでしょうか。
「ひとが嫌がっているものを無理に勧めるのはよくありません」
「そうね、わかっているわ。でもこのお店のものは特別だから。良かったら一口だけ食べてみてちょうだいな」
お姉さまは、普段私に向かってこんな押しつけがましいことを言いません。たっぷりとカラメルがかけられたお姉さまのお皿のプリン。それを目の前にずずいっと持ってこられてしまい、しばしプリンとにらめっこをしますが、どうやらお姉さまは見逃してくれないようです。仕方なしになけなしの勇気をかき集めて、カラメルをかけたプリンを口に運んでみました。
「……美味しい」
ほんのりと広がる苦み……けれどそれはかつて食べたときとは違って、プリンの甘さを引き立てるものになっていました。このプリンは、たくさんの愛情と願いが込められて形作られているのでしょう。ダヴィさまが自領の酪農や養鶏に力を入れていらっしゃるように。プリンを作るひとと食べるひと、どちらもが笑顔になれるように。
「ね、意外と大丈夫でしょう。あなたも大人になったのよ。不味い、苦いと思って毛嫌いしていても、いつの間にか食べられるようになっていたり、美味しく感じるようになっていたりするの」
「それはつまり……、恋愛も同じだと?」
「ええ。お父さまやお母さまたちみたいに拗れてしまうと、口にできるのは苦くて不味いどうしようもない部分ばかりになってしまうけれど。恋は、甘いだけではないわ。辛いことも、苦しいこともある。でもそれを全部ひっくるめて幸せだと思えるものなのよ」
それは、きっとお姉さま自身の経験でもあるのでしょう。目の前で揺れるカラメルソースの小瓶。思いきって、自分のプリンにもかけてみました。ダヴィさまのことを想いながら、スプーンですくいあげます。今頃あの方は、どこで何をしていらっしゃるのでしょうか。
「……今さらでしょうけれど、お慕いしていたと伝えてみようと思います」
「ええ、それがいいわね」
私の想いは、私が一番大切にしてあげなくてはいけませんから。例え、ダヴィさまに届かないものなのだとしても。
口の中で広がる甘いプリンとほんのりと香ばしいカラメルのハーモニーを味わいながら、私はまたお姉さまの前でしばらく泣き続けたのでした。
***
プリンを食べ終えた後、善は急げとばかりに部屋の中でダヴィさまへの手紙を書いていると来客の知らせを受けました。事前の連絡もなしにいらっしゃるなんて、一体どういうことでしょう。もしかしたら、お姉さまには先触れがあったのでしょうか。
「お嬢さま、まさかそのまま出られるおつもりですか!」
「一応、人前に出ても問題のない服装ですもの」
「ドレスの問題ではありません! お鏡をご覧になってくださいませ!」
泣き続けて酷い顔になっているようですね。氷で冷やしておくべきだったでしょうか。
「結構よ。だってお姉さまにも、客人を待たせることなく速やかに対応するようにと言われたのでしょう? 万が一この顔が失礼になるようならば、お待たせしてでも身なりを整えるように指示があったはず。ならば問題ありません」
ここまで急いで来るようにということであれば、きっとお父さまが手配したお見合いの相手なのでしょう。恋愛結婚が推奨されるようになったとはいえ、ちょうどいい家格の相手を探し出し、周囲がお膳立てすることは禁止されていませんからね。
きちんと告白して失恋しなければ、次の恋など考えられそうにありません。ダヴィさま以外の男性と会うために、身支度を整える気力だって湧かないのです。いっそ相手からお断りしてもらうためにも、今の私の顔はちょうどいいでしょう。
しどろもどろになるメイドを連れて応接室に向かうと、なんとそこにいらっしゃったのはダヴィさまではありませんか。おろおろする私と、そんな私を見て目を丸くするダヴィさま。私の代わりにダヴィさまのお相手をしていたお姉さまが、私たちの様子にころころと笑い声をあげています。
「ど、どうしてこちらに?」
「君に伝えたいことがあって」
そう言いながら、私の方を見ながらとても言いづらそうな顔をしていらっしゃいます。
「ところで、ヘーゼル。君は、一体どうしたんだい。もしかして両目を蚊に刺されたのだろうか」
「……違います、あの、これは……」
いくら実る当てのない恋だとはいえ、好きなひとに両目がぱんぱんに腫れた顔なんて見られたくありません。真っ赤になって俯いていると、姉が私の代わりに返事をしてくれました。
「身支度ができない妹で申し訳ありません。実は妹は先ほどまで、好きになってはいけないひとを好きになってしまった、しかも絶交まで告げてしまってもうおしまいだとわんわん泣き喚いておりましたのよ」
「ちょっと、お姉さま!」
「いつまでたっても幼げな様子で心配していたのですが、あなたさまのような素敵な殿方であれば安心でございます。大切な妹のこと、どうぞよろしくお願いいたします」
「何をおっしゃっているのです!」
「では、あとは若いおふたりでごゆっくり」
そして私とダヴィさまを残し、出て行ってしまいました。ダヴィさまの前で私の秘密を暴露したあげく、変な誤解をして立ち去るなんてあんまりです。私の相談を、お姉さまは理解してくださっていなかったのかしら。
「それは、もしかして僕のことだと自惚れてもよいのだろうか」
ダヴィさままで何をおっしゃるのやら。これは聞かなかったふりをするところではないでしょうか。思わず涙目になりながら彼を睨めば、なぜか嬉しそうに微笑まれました。
「ヘーゼル。君は甘いものが好きだったよね。特にプリンが大好物だったと思うんだけれど、今度一緒に食べにいかないかい。お姉さんに聞いたかと思うけれど、今度ここに新しくできるお勧めの店があるんだ」
「……そういうお誘いは、好きなかたにおっしゃってくださいませ」
ダヴィさまのお誘いは、まるでデートの申し込みのよう。わざわざ友人の実家にまでやって来て言うべきことなのでしょうか。しかも複数の友人を誘うならばともかく、私だけがのこのことついていくわけにはいきません。私が自分の中で言い訳を重ねていると……。
「だから、君を誘っているんじゃないか」
「え?」
「僕の好きなひとは、ヘーゼル、君だよ」
ダヴィさまの言葉に、思わず目を見開いてしまいました。それでも通常モードにぎりぎり届かない視界の狭さですが。
「やっぱり伝わっていなかったんだな。僕は何回か君に告白したことがあるんだけれど」
「え、全然記憶にありませんが。……まさか、貴族らしい比喩暗喩、故事や文学作品になぞらえた言い回しなどをなさったのではありませんか?」
「もちろんそうだよ。やっぱりわかっていなかったんだね」
「申し訳ありません。男女のことについては、その、とても疎くて……。はっきりと『君が好きだ。結婚してほしい』くらい言ってもらわないと、私、わかりません」
貴族令嬢にあるまじき発言に、ダヴィさまが苦笑していらっしゃいます。お姉さまには家庭教師からその手のことを教わったそうなのですが、私は一切遠ざけられて育ってきました。もしかしたらお母さまは、私が女になることが許せなかったのかもしれません。
「最初はね、こちらのメンツを立てて気がつかない形で流しているのかなとも思ったんだ。もともと告白が迂遠な言い回しになっているのも、断られた際に角が立たないようにするためだったからね」
「そうなんですね」
「でもそれにしては、あまりにも君の態度が普通すぎてね。これは告白が伝わっていないなとわかったんだ」
まったくもって恥ずかしい状態に、穴があったら入りたいです。もしかしたら、私以外のクラスメイトはダヴィさまのおしゃべりの意味を全部理解していたのではないでしょうか。どうして誰も教えてくれないのでしょう! つい八つ当たりしたくなってしまいました。
「でも面と向かって好きなだけ、君の素敵なところを伝えることができたから、それはそれで楽しかったんだ。はっきり告白して振られたあげく、隣にいられなくなるよりもマシだしね」
ダヴィさまでさえ、告白するときに怖いと思っていたなんて。なんでもできる彼の意外な姿に、なんだか親近感がわいてきます。
「それにね君には、恋バナなら聞いてくれるっていうか、それ以外の話は聞いてくれないって噂があって。君、本当に気付いていなかったのかい」
「そこまで限定的な話題は求めていませんが。ただどうせなら、ハッピーな話題を聞きたいからそういう風に強めに言っているだけで」
まあ確かに「恋愛相談をされても毎回的外れなことを言ってしまうから、相談はしないで。役に立たないどころか、足を引っ張ってしまいそう。でも代わりに好きなひとの好きな部分とか、恋人の素敵なところならどれだけだって聞きたいわ」みたいなことは言ったかもしれません。
「だから、僕の惚気は全部君のことだったんだ」
「……本当ですか?」
「ああ、今さら言っても言い訳じみているだけど。いつか君に気がついてもらえたらいいと思っていた。でも言葉ではどうしても最後の一歩を踏み出せなかったから、君の好きなものを作ったんだ」
「それって……」
「ここで新しくオープンする今人気の菓子店というのは、僕が支援している店なんだよ。自領で成功したから、王都よりも先にここに支店を作ったんだ」
お姉さま、そんな話、全然聞いていませんけれど! もしかしたら、お姉さまの方が私たちの事情に詳しかったりするのではないでしょうか。恥ずかしさで顔が真っ赤になるのがわかりました。
「傷つけるつもりなんて、本当になかったんだ。すまない」
「許さない……なんて言うはずないでしょう?」
頭を下げるダヴィさまを見ていると、なんだかおかしくなってきてしまいました。恋は甘くて苦くて、でも一緒に口に含めば止まらないくらい美味しくて。
「本当に? やっぱり嫌だなんて言わないかい?」
「もちろんです。私たち、うんと遠回りしてしまったんですね。私のほうこそ、傷つけてしまってごめんなさい。これから、また前みたいに仲良くしてくださいますか?」
「前みたい、は嫌かな。前よりもずっと君のことを知りたい。君と一緒にいたいよ」
突然距離を詰めてきたダヴィさまは、プリンよりも甘い言葉で私に愛を囁いてきます。現金なもので、あの時は胸がえぐられるばかりだった言葉が、私の中に満ちていくのがわかります。お姉さま、幸せってこうやって感じるものだったのですね。
誰かの恋バナを聞くのはとても楽しいこと。でもそれを本当に味わうことができるのは、自分が落ちた恋の味を知ってからこそなのかもしれません。
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