第8話 シェリルスの決戦
『結局、私のしたことは自己満足に過ぎなかった』
亡霊はそう自嘲した。
『今となっては恥ずかしい限りだ。あの子にしてみれば、それまで自分を虫けら同然に蔑んできた者たちが作り笑いを浮かべてすり寄って来るのだ。きっと我々は奇怪な化け物か何かのように思われていたのだろうな』
「それでも、彼女はあなたたちに会いに来たのでしょう? 家族への未練を断ち切れなかったのは、彼女も同じだったのかもしれません」
私の言葉に、ヴァイオラは答えなかった。
『結局、あの子がウォルモンド家に滞在したのはひと晩だけだった。私たちはたくさん話をしたが、それは両国の和平についての表面的で、形式的な話に過ぎなかった』
だが、それでも……、と、亡霊は遠くを見るような目で言った。
『それが、私たち姉妹が歩み寄る最初の1歩になると……、なってほしいと、願っていた……』
だが、そんな彼女の想いは無残に打ち砕かれることは、歴史が証明している。
「アイスバレットも、和平を望んでいたのでしょうか?」
『ああ。間違いない。そしてそれは魔王の意志でもあると明言していた』
「ではどうして……」
間もなく、2国は『シェリルスの戦い』と呼ばれるかつてない規模の戦闘に突入する。
たが、この戦いが始まった理由は、実は判然としない。
そもそも、魔王領の基本方針は専守防衛である。
魔王軍は、侵略者は情け容赦なく叩き潰すが、発足初期のわずかな例外はあれど、自ら他国に攻め込むことはしなかったと思われる。
一方、セフィラ王国から仕掛けたとすると、矛盾する証拠が数多く存在する。
王国がシェリルスの戦いに十全な準備をしていたとはお世辞にも言い難く、一本化していない指揮系統をはじめ、下級兵士に支給された装備のお粗末さや二転三転する命令など、まるで奇襲を喰らった側のような振る舞いである。
『犬だよ』
苦渋の表情で、ヴァイオラはうめくように呟いた。
犬は、魔王軍のシンボルである。
彼らは犬小屋で育ち、母犬の死を発火剤としてこの乱世を飛翔した。
運命だろうか。
彼らの――特にアイスバレットの人生は、転換点に犬が深く関わっていることが多い。
◇ ◇ ◇
ヴァイオラは自らを『魔力でしか他人を計れなかった者』と評した。
残念ながら、その自己評価は正しかったと言わざるを得ない。
夕食の席で、家族がアイスバレットに接した時、ヴァイオラは波風が立たなかったことにほっとした。
特にダリアが、形だけとは言えアイスバレットを『姉様』と呼んだ時は、前途は明るいとさえ思ったものだ。
人生の大半を魔術に捧げてきた彼女には、人の心の機微が分からなかった。
家の名誉のために、これまで蔑んできた者に頭を下げる屈辱が、彼女には理解どころか存在すら考えもつかなかったのである。
元々の予定では、ヴァイオラはアイスバレットを国境まで送り届けるつもりだった。
だが、騎士団から危急の呼び出しがかかり、同行することができなくなった。
思えばこの時から、計画は実行に移されていたのだろう。
結局、アイスバレットには家中の者を2人護衛に付け、彼女は去ってゆく馬車を見送った。
ことが起きたのは、アイスバレットを乗せた馬車が国境に続く山中の小道に入った時だった。
彼女の足元にうずくまっていたウルルが、突然耳をピンと立て、低いうなり声を上げはじめた。
「ウルル?」
次の瞬間、ウルルはアイスバレットの隣に座っていた護衛の男の腕に噛みついた。
その手には毒の塗られた刃が握られていたのだが、視力を失っているアイスバレットにはわからなかったかもしれない。
「!」
それでも、アイスバレットもまた、数多の戦場を駆け抜けてきた歴戦の猛者である。
頭が理解する前に体が動いた。馬車の扉を蹴り飛ばし、ウルルと共に転がり出る。
「ッ!?」
だが、すでに彼女たちの周りは山賊の姿をした男たちによって取り囲まれていた。
「へへ……」
彼らは顔を泥で汚し、下卑た笑みを浮かべて彼女を見た。
一方、アイスバレットは彼らの姿を見ていなかった。彼女は左目に埋め込まれた魔晶に共鳴する微細な魔力を感じていた。
「騎士……」
その呟きは諸刃の剣と言えた。
男たちは、一瞬で正体を見破られた衝撃で少なからぬ隙を見せた。
だが同時に、その隙をついて逃走する魔女と犬を決して逃してはならないと決意した。
アイスバレットは走った。
その速さは、とても盲目とは思えなかった。
彼女はウルルの気配だけを頼った。他のものは一切無視した。
背後から射かけられる毒矢さえ気にも留めなかった。
その愛犬に対する潔いまでの信頼が彼女を救った。
◇ ◇ ◇
『あの子を襲ったのは、紅玉の騎士団の者たちだった』
ヴァイオラはそう述懐した。
『奴らは焦っていたのだろう。かつて商人ギルドの私兵に敗れ、都市国家ホートの独立を許すという失態を演じていたからな。そして……』
彼女の思念に口惜しさがにじむ。
『彼らを尋問した時、ダリアの名が出た。あの子が密かに我が家を訪れたことを騎士団に密告したのはダリアだった』
すべては私の責任だ、と彼女は言った。
ダリアはヴァイオラを慕い、尊敬していた。だが、ヴァイオラはその気持ちに気付かなかった。悪意なく、彼女の存在を無視していた。
その鬱憤が幼き日のリーリウムへの虐待につながり、その嫉妬がアイスバレットの襲撃につながったのだ、と。
だが、私はその考えもまたヴァイオラの傲慢ではないかと思う。
ダリアもまた生きていた。
彼女の行為は、彼女の責任だ。その責任まで背負われてしまったら、それこそ存在の無視というものではないか。
『奴らは賢しげに言っていたよ。『最下級の魔女がどれほどのものか。奴は何もできず、ただ狼に引かれて逃げるだけだった』と。愚かな奴らだ。自分たちがあの子に生かされていたとも知らず……』
アイスバレットが、刺客を撃退することは容易だった。
四方が敵ならば尚のこと、『魔女の咆哮』で周囲を無差別になぎ払えばよかった。
『それをしなかったのは、私のためだった。私が、両国の和平などと口にしたばっかりに、あの子は王国の領土内で魔術を使うことができなかったのだ。そのせいで、あの子は……また大切な者を失った……』
捕らえられた騎士たちは誇らしげに語っていたという。『我々の放った毒矢は、確かに魔女の魔狼を射抜いた』と。
その後のことは想像するしかない。だが、容易に想像できる。
ウルルはその体を矢傷と毒に侵されながら、アイスバレットを最後まで守り抜いた。そして彼女の安全を確かめて、彼女の前で息を引き取ったのだろう。
かつて、アイスバレットは命の恩人である母犬と兄弟たちを喪った。その時の彼女は、ゼロクに命じられるまで己の魔術を人に向けることができなかった。いや、その発想さえ持っていなかったに違いない。
自分は大切な人を守る力を持っていた。でも使わなかった。そのために、愛する者たちを喪った。
その後悔が、ずっと彼女の心を苛んでいたことは想像に難くない。
そしてまた……。
『私の人生は、あの子を苦しめるためにあったのだろうか……』
ヴァイオラの思念は、絶望と後悔と悲しみがせめぎ合い、遂には対消滅してしまったかのように、もはや諦めのただよう静寂となっていた。
「運命の歯車だったとしか、言いようがありません。歴史には、もはや人の意思ではどうしようもなくなる流れが存在するのです」
私の言葉は何の慰めにもならないだろう。
◇ ◇ ◇
魔女アイスバレットの帰還と同時に、魔王軍は動き出した。
国境付近にあるシェリルス平原に軍隊を集中させ、城塞と城壁を作り始めたのである。
魔王ゼロクは、アイスバレットが生家に対して抱いていた複雑な心情を利用され、およそ考えうる最悪の形で裏切られたと思ったに違いない。
その怒りが想像を絶するのは、ネハンとステュクスの手記を見てもわかる。
何も書かれていないのである。
ネハンの手記は、アイスバレットがウォルモンド家へ出発するところで終わっている。
その後は手記を付けるいとまもなく、回想する余裕もなくなるほどに忙殺されていたことがうかがえる。
実際、ネハンはシェリルスの戦いの準備を整えたところで後進に道を譲って第一線を退いている。おそらくは疲労が祟ったものと思われる。
ステュクスの手記からは、当時の記録がページごと破り捨てられている。
これも想像だが、それまで己の感情を抑え、客観的事実を書き記すことを心がけていた彼女が、後に自分の文章を読み直した時にあまりにも冷静さを欠いていたことに気付き、後世の混乱を防ぐためページを抹消したのではないだろうか。
一方の王国は、それまで『眠れる狼』と思っていた魔王軍の突然の覚醒に大混乱を引き起こした。
アイスバレットのウォルモンド家訪問から襲撃までの一連の出来事は、すべてウォルモンド家の独断により秘密裏に行われたことだったため、王国にとってはただひたすらに寝耳に水のことだった。
事態が明らかになった時、ウォルモンド家の命運は尽きた。
当主フィリップは爵位を剥奪され、ダリアの王太子との婚約は破棄された。
ヴァイオラもまた、騎士の称号を剥奪された。だが、この事態において彼女の才能は惜しまれたため、いち兵士として参戦を強要された。その条件は、ウォルモンド家の私有財産の安堵だった。
王国を揺るがした混乱は全土に波及し、すぐさま恐慌にとって代わられた。
王国は明確な方針を定めぬまま、残存するすべての騎士団をシェリルス平原に派遣し、現地で兵を招集した。傭兵も質を問わず見境なくかき集めた。
かくして、シェリルス平原の緊張は際限なく高まり、一触即発の様相を呈したのであった。