第6話 魔女の咆吼
『ビネ沼の戦いか……』
亡霊の顔にほろ苦い笑みが浮かんだ。
『王国の歴史的敗退、だったかな?』
「はい。王国の公式文書に『最下層の魔女』の名前が最初に記される戦いでもあります。魔狼の遠吠えと共に現れた魔女の強大な魔力と未知の魔術により、金剛の騎士団率いる王国軍3万が壊走した、と」
『それだけか?』
「はい」
『まあ、そうだろうな。王国も、自分たちの無様な負け戦を詳細に残したくはない、か』
そこでヴァイオラは、子供っぽい好奇心と大人びた諧謔味を混じり合わせたような顔で私を見た。
『どうだろう。ここはお互い、知っていることを合わせてみないか? あの戦いで本当は何が起きたか、貴殿も知りたいだろう?』
◇ ◇ ◇
セフィラ王国最強の騎士団と言われる金剛の騎士団の出陣は、王都全体を上げて大々的に行われた。
1つには、長年の圧政と内乱により限界までため込まれていた国民の疲弊と不満をお祭り騒ぎでガス抜きをするためというのがあった。
もう1つには、半島の覇者である王国の力が未だ健在であると他国に見せつけるためでもあった。
団長、ヴァイオラ・アレキサンドラ・ウォルモンド以下、副官はオリヴァー・ウィリアムス・ウォルモンド、その下に騎士団1000名と徴兵された兵士や傭兵が3万人。
数千人のぶつかり合いが主流だったこの時代において、破格の大軍勢であったことは確かである。
対する魔王軍の兵力は定かではない。ただ、斥候からの情報や砦の規模から言って、多くとも3000名程度だったと思われる。
「これはもう、戦わずして勝てそうですね、姉上」
馬上で純白の鎧に身を包んだオリヴァーが話しかけて来た。
「時に、魔王軍には魔女がいるという噂をご存知ですか?」
「魔女?」
「ええ。巨大な狼を眷属とした、隻眼の魔女だそうです。何でも、怪しげな魔術で戦場に死をまき散らすとか。はてさて、どんな魔術が見られるか楽しみですよ」
オリヴァーの口調には、未知の魔術への好奇心よりも、どんな魔術だろうとウォルモンド家には敵うまいという慢心が見て取れた。さらにその先には、自身の圧倒的な魔術の実力をもって憐れな田舎魔術士の尊厳を粉々に踏みにじってやろうという嗜虐心が潜んでいた。
「勝ち誇るのは勝ってからにしろ」
ヴァイオラはそうたしなめたが、思えば勝利を前提としたこの言葉も彼女の慢心の現れだったと言える。
「もし、魔女を生け捕りにできたら私に譲っていただけませんか? 開発中の魔術がいくつかありましてね……」
「捕虜の虐待や拷問は騎士道にもとるな」
「姉上は真面目すぎる。みんなやってますよ」
「……」
黙り込んだヴァイオラに、オリヴァーは肩をすくめた。
この時の彼女は心の中に満たされない飢えを抱えていた。
王都の魔術学校に首席で入学し、首席のまま卒業した。その後は王国騎士団に入っていくつもの実戦を経験し、常に最大の武勲をあげ、出世街道を最短最速で駆け抜けた。
そんな彼女にライバルと言える者は存在しなかった。対等に話せる友人もいなかった。
孤独が常に彼女の心を支配していた。
懐に忍ばせた石をそっと握る。それは彼女が大地の魔術で作り出したクリスタルで、その中には穴の開いた小さな枯れ葉が閉じ込められている。
(リーリウム……)
心の片隅に、痩せ衰えた少女の影が巣食っていた。
もう、顔もよく思い出せない。
(生きてはおるまい)
ヴァイオラの心には、孤独と共に「自分と対等な魔術士はもうこの世にいない」という自負が刺青のように彫り込まれていた。
そんな彼女に、魔王軍などとふざけた名を名乗る山賊まがいの集団に属している魔女の正体に思いを馳せるゆとりは無かった。
一方、ビネ沼を天然の堀として建造された『ビネ沼の砦』では、アビスが援軍として駆け付けたアイスバレットを迎え入れていた。
「何か、すげぇことになったな」
アイスバレットの顔を見るなり、アビスは驚きと悲しみの混じった表情を浮かべた。
毒矢により左目を失ったアイスバレットは、壊死した眼球と周辺の肉をえぐり取り、代わりに紫色の魔晶を眼窩に突っ込んでいた。
今、彼女は左目から尖った水晶柱が中央に1本、それを囲むように不揃いな水晶柱が4本放射状に突き出している、異様な面相となっている。
一方、アイスバレットの素の顔はここ数年で急激に美しく整い始め、それが独特の隻眼と相まって、どこか妖しく背徳的な雰囲気を帯びていた。
「すげぇ魔女っぽい」
「おかげでみんなの役に立てる」
アイスバレットはにっこりと微笑んだ。微笑むと、漂っていた妖艶な雰囲気が押しのけられて、ありし日の少女の顔が現れた。
その笑顔に悲壮感は見られなかった。純粋に愛する人たちを守れる力を得たことを喜んでいた。
「子供たちは元気か?」
「うん。可愛いよ」
周囲の者たちはどきりとしたが、2人が話しているのはアイスバレットの足元でお座りする愛犬ウルルにできた子犬たちのことである。
「ふわふわで、ちょっと臭くて。耳元でぴぃぴぃって鳴くの」
「そうか……」
ほんの一瞬、静寂がよぎった。
「……さて、積もる話もあるがそれは後の楽しみにしよう。この戦い、魔女の力に期待していいんだな?」
「うーん……。あんな大軍を相手にするのは初めてだから……」
「そりゃそうだ。正直、数が多すぎてピンと来ねぇ。こちとら10より多いモン数えたことねぇっつの」
「まぁ、いざというときは……」
「「尻尾巻いて逃げる!」」
無邪気に笑い合う2人。
魔王軍の陣中は、たとえどんな劣勢下にあっても、常にどこかお気楽な空気が漂っていた。
ビネ沼の戦いは、王国軍による砦の包囲から始まった。
ビネ沼の砦は、前方と両側面の三方を巨大な底なし沼で取り囲んだ要塞である。
この砦を攻めるには、この巨大な沼を渡るか、後方の堅牢に築き上げられた城壁を攻略する以外に方法は無い。
極めて防衛能力の高い要塞だったが、反面、砦側が攻勢に出る場合は後方の城壁側からしか兵を出せないため、指揮官の技量が問われた。
したがって、この砦で戦う者は、攻める側も守る側も長期戦を覚悟する必要があった。
「――だが、それは槍と弓しか持たぬ蛮族共の話だ」
丘の上の野営地に張られた巨大なテントの中で、ヴァイオラは幕僚たちを見回した。
「我々セフィラには高度な魔術がある。3万の包囲網はあくまで陽動、我らの攻撃の要は金剛の騎士団であることを忘れるな」
金剛の騎士団の特徴は、構成員1000人のうち、ゆうに半数が雷魔術の使い手であることだった。
雷魔術は4大属性――炎、水、雷、大地の中で最も破壊力に秀でていると共に、扱える者の数も最も少ないとされていた。
魔術大国と言われたセフィラ王国において、当時雷属性の魔力を持って生まれた者はそれだけで一定の地位が約束されていたとさえ言われている。
「防御を沼地に頼っている分、沼地側の城壁は薄い。この一画を雷魔術の集中砲火で破壊する。同時に、水と大地の魔術で水上に渡河橋を作成する。その間、包囲軍は城門前に牽制のための最低限の部隊を残し、残りの兵力は沼地側に集結、橋を渡って砦を攻略する」
「はは、精鋭500人による雷ですか。蛮人共、それだけで恐れをなして地面にひれ伏すかもしれませんね」
オリヴァーの軽口に幕僚たちはどっと笑った。
ヴァイオラはたしなめる気持ちも起きなかった。挫折を知らない彼らの慢心にうんざりしていたのもあるが、何より彼女自身が敵を侮っていたことは否定できない。
翌朝、日の出と共に作戦は開始された。
「詠唱開始!」
ヴァイオラの号令と共に、騎士たちは一斉に魔力を練り、術式を編み始めた。
「遥か雲上におわす雷の精霊、天空に住みたもう神に仕えし聖なる者たちに願い奉る……」
あらゆる魔術の中で最も強力と言われる雷魔術『召雷』は、発動にも非常に多くの時間を要した。
強烈な白い光を放つ魔法陣が騎士たちの前に現れ、バチバチと紫電を走らせながら高速で回転をし始める。
「放てェ!」
魔法陣から放たれた500の青白い稲妻が収束し、巨大な光の竜となり、沼地を瞬時に飛び越えて城塞に咬みついた。
凄まじい爆音と共に、熱い爆風が吹き荒れる。
その衝撃波は沼地を越え、騎士団の本陣に張られたテントを激しくはためかせた。
「どうだ、この威力……、もう決まったのではありませんか?」
恍惚とした表情を浮かべるオリヴァーを一瞥し、ヴァイオラは続けて命じる。
「すぐに橋を作れ! 雷部隊は第2射の詠唱開始だ!」
「ちょ、待ってください姉上! あんな大魔術、そう何度も撃てませんよ! 姉上じゃないんだから」
「何のための魔晶だ。さっさと魔力を補充しろ」
王国が各地の鉱山で奴隷たちに採掘させていた魔晶は、体内に取り込むことで消耗した魔力を回復させることができる。だが、魔晶は加工が極めて難しく、当時の技術では表面を滑らかに研磨することも、粉状になるまですり潰すこともできなかった。
必然、彼らは荒く砕いた結晶を飲み込むことになり、その抵抗は大きかった。
「橋、完成しました!」
雷の砲撃準備が整う前に、沼地に魔術で作られた氷と石の橋が出現していた。
(どうする? 次の雷を撃つまで待機させるか?)
ヴァイオラは思案する。だが、
「姉上、突撃しましょう」
そう進言するオリヴァーの目は、魔晶の欠片を飲みたくないと訴えていた。
ヴァイオラは舌打ちしたが、ここは士気の維持を優先させた。
「突撃!」
橋を渡り、下級兵士や傭兵たちの部隊が城塞に殺到した。彼らもまた、自軍の勝利を疑っていなかった。
雷は砦の城塞と壁の一部に大穴を開けている。これほどの被害にも関わらず、敵が沈黙しているのは雷の威力に恐れをなした証拠だと思い込んでいた。
「どけ! 俺が一番乗りだ!」
「手柄を上げるぞ!」
「いや、財宝を探すんだ! 女はいないのか!?」
だが、そんな彼らの前に巨大な影が立ちふさがった。
「オシャレなことしてくれるじゃないの、騎士様よォ」
瓦礫の向こうから現れたのは、しなやかな筋肉を熱い血潮で赤く染めた大男だった。
頭には真っ黒な野干を模した仮面をかぶり、腰にもさまざまな獣の毛皮をつないで作られた腰巻を着け、骨でできた装飾品をぶら下げている。
「な、何だコイツは!?」
うなりをあげる巨大な金棒が、傭兵の頭を兜もろとも叩き潰し、猛禽のように屈強な手が兵士を2、3人まとめて掴み上げ、放り投げる。
氷と石の橋の上に、巨大な男が降り立った。1万人を乗せても崩れないと自負されていた橋だったが、男の足元にはビシリとヒビが走っていた。
「わざわざ足場を作ってくれてありがとうよ。魔王軍四天王の1人、アビス様が相手をしてやる。死にてぇ奴からかかって来なァ!」
その姿は、まさに闘神の化身と表現する他に適切な言葉はなかった。
「何だあれは!? まさかあそこまで野蛮人だとは!」
驚愕の声を上げるオリヴァーに対して、ヴァイオラはふとアビスと名乗る敵将の露悪的な姿に、どこか子供っぽいユーモアを感じていた。
物語の主役よりも悪漢の方に憧れる、ちょっとひねくれた少年心とでも言おうか。
(あの男、もしかしたら子供の頃、騎士に憧れていた時期があったのかもな)
だが、そんな気持ちは戦場に吹き荒れる風によって儚くも消え去った。
「姉上! 大将首です! ここは私に行かせてください!」
姉以外の存在に敗けたことの無い青年が逸る。
「魔力は?」
「あんな奴、今ある分でじゅうぶんですよ!」
言うが早いか、オリヴァーは矢のように飛び出した。
「待てオリ――」
その時、ヴァイオラは視界の隅に何かが現れたことに気付いた。
(あれは――)
半壊した砦の物見塔。その天辺に、巨大な狼を伴った1人の女性が立っていた。
(あれが、魔女?)
遠すぎてその顔はわからない。薄鈍色の髪と、青いボロ布のようなローブが風になびいている。
オォーン!
側の狼が吠えた。
魔女が、ゆっくりと右手を前にかざす。
風前にさらされるろうそくの灯にも似た、弱々しい魔力のゆらめき。
わけもなく、ヴァイオラの背に戦慄が走った。
「下がれオリヴァー!!!」
だが、彼女の声は血気に逸る若者の背中には届かなかった。
「はっ、図体だけのノータリンが! この『雷光のオリヴァー』の前にひれ伏――」
ヒン……
かすかな耳鳴りがオリヴァーの鼓膜をかすめた。
「えっ……?」
次の瞬間、オリヴァーの右手首は白く輝く魔法陣を浮かべたまま弧を描いて空を舞っていた。
「何が……起き……」
手首は沼に沈み、魔法陣は霧散した。
「さぁ? 何が起きたんだろうなぁ?」
目の前には、金棒を振り上げる闘将がいた。
「や、やめ――」
金棒はオリヴァーの眼前をかすめ、魔術で作られた橋に突き立てられていた。橋は一撃で蜘蛛の巣のようなヒビが走り、破片となって底なし沼に沈み始める。
「逃げろ! 逃げろォーッ!!」
「取り残されたら食われちまうぞ!」
「死にたくねぇ! こんなところで死にたくねぇ!」
砦に乗り込んだ者たちが我先にと潰走する。
崩れゆく橋に追われるように死に物狂いで走り、遅れた者は必死に手足をばたつかせて沼を泳ぐ。
「はっはっはァ!」
アビスはその巨体に似合わぬ軽やかさで橋を駆け抜け、敵陣に踊り込んだ。
「どうした? お前らは王国最強の騎士団なんだろ?」
「くそ! なめおって!」
ヴァイオラの命令を待たず、騎士たちが飛び出した。
「蛮人の相手をまともにするな! 取り囲んで魔術で攻めるのだ!」
「見よ! 我ら王国騎士団の聖なる炎――」
ヒン、ヒン、ヒン……
「な――」
だが、彼らが魔術を放つことはできなかった。かすかな耳鳴りと共に、魔法陣を展開する手が不可視の力で吹き飛ばされる。
手首を失うだけで済んだ者は幸運だった。
見えない何かに、ある者は鎧ごと胸を貫かれ、ある者は額に穴を穿たれた。
「魔女だ! 魔女の邪術だ!」
誰かが叫んだ。
「あそこだ! 撃て! 撃ち落とせ!」
物見塔の天頂に立つ魔女に向かって、騎士たちが術を詠唱する。
魔女の手がかすかに光るのを見た者は少なかった。まして、それが魔法陣の形であることを見抜いた者はたった1人だけだった。
「ぐわああああッ!」
かすかな耳鳴り。次いで悲鳴。
「詠唱を止めろ! 奴は魔法陣の光を狙い撃ちしているのだ!」
ヴァイオラは叫んだ。
だがその間にも、彼女のすぐ横で騎士が何かに撃ち抜かれ、首から血煙を上げて絶命した。
その『何か』を、ヴァイオラはかすかな魔力の流れで捉えていた。
「最下級水魔術……まさか――!」
塔を見上げるヴァイオラ。魔女はヴァイオラを見ていない。
魔女の手元で、淡い光がチカチカと瞬く。
その瞬間、ヴァイオラは脊髄につららを突っ込まれたような恐怖を覚えた。
ホォーーーーーーーン……
それは、洞を通り抜ける風のようにも、女性の虚ろな歌声のようにも聞こえた。
後に『魔女の咆吼』と呼ばれ恐れられるこの音は、無数の、超高速の氷弾が3万の軍勢に降り注ぐ音だった。
この世に地獄が現出していた。
断末魔の悲鳴が大地を震わせ、血の霧が周囲を覆った。
「撤退! 総員撤退だ!」
ヴァイオラが命じるまでもなかった。
すでに王国軍3万は潰走を始めていた。
「バカな! 栄光ある騎士団が敵に背を向けるなど!」
「どんなイカサマか知らないが、我らの光の壁の前には――」
勇敢な者たちは、何かしらの防御魔術を使おうとしたのかもしれない。
だが、彼らの手元に魔法陣が光った瞬間、それは血の霧に変わり、詠唱は悲鳴に変わった。
(無理だ)
ヴァイオラの天才的頭脳はそう結論付けた。
(どんなに強大な魔術も、いかなる防御魔術も、あの最下級水魔術の前には無力だ)
高速。そして正確。
たったそれだけの単純な要素だった。
だが、それがどうしても崩せなかった。
炎の壁も、雷の竜も、氷の城も、石の巨人も。生み出す前に滅される。
どんなに詠唱を短くしても、あの刹那の前にはすべて無意味。
そう悟った瞬間、ヴァイオラは鎧を――金剛の騎士団の証を脱ぎ捨てた。
「逃げろ! みんな逃げろ! 身体を低くしろ! とにかく生き延びることだけを考えるんだ!」
そして自ら地を這いながら逃げ出した。
この指揮官の無様な逃げっぷりを見て、王国軍は完全に瓦解した。
「……」
土の臭いを嗅ぎながら、いつしかヴァイオラは祈っていた。
背後ではいまだ、兵士たちの悲鳴が木霊している。
(頼む。やめてくれ。もうやめてくれ)
視界がにじんだ。
(これはもう戦いではない。虐殺だ!)
流れる涙は、惨めに敗走する自分に向けたものではなかった。
(やめてくれリーリウム。こんな悲しい魔術を使うのは、もうやめてくれ!)
ホォーーーーーーーン……
この音を、自分は生涯忘れることはないだろう。
必死に手足を動かしながら、ヴァイオラはそんなことを思っていた。