第4話 アイスバレットという名の魔術
『あの子は……』
この時ほど、ヴァイオラの悲痛な思念を感じたことはなかった。
『オリヴァーを殺した時も、私の両手を奪った時も、顔色ひとつ変えなかった。そんなあの子が、そうか、犬のために哭いたのか……』
彼女は妹の非情さを嘆いていたのではなかった。妹をそんな風にしてしまったのが他の誰でもない、自分たちであることを嘆いていた。
そのことについて、私が言うことは何もない。
私はただ、歴史学者としてステュクスやネハンの手記から読み取れる事実を語るだけだ。
特にステュクスは後に薬学者として大成するだけに、彼女の記述は微に入り細を穿ち、余計な感情を排した客観的事実の羅列が多かった。それが逆にアイスバレットやゼロクの感情を読み取る手掛かりとして大いに役立つこととなった。
むしろ、ネハンの日記の方が多分に自身の感情や好悪の偏りが見られた点は興味深い。
「ここから先は、貴女もご存知のことが多いでしょう。金剛の騎士団の長であった貴女にとっては不愉快なことではありませんか?」
だが、亡霊は静かに首を振った。
『コーンウェル殿、私は知りたいのだ。自分が目をそらしてきたもののすべてを。我がままを言って申し訳ないが、どうかこの哀れな魂を救済すると思って、続けてほしい』
◇ ◇ ◇
「まずは、蒼玉の騎士団と戦わなければならないでしょう」
それが、一晩考えに考え抜いたネハンの最初の言葉だった。
逃げた分隊長が本隊に今回の件を報告すれば、本隊は必ず報復に動く。
当たり前のことだが、ゼロクたちにはまず、その当たり前から説明しなければならなかった。
「で、どうする?」
犬小屋の奥に積み上げた藁の上に胡坐をかき、頬杖をついたゼロクが問うた。人に教えを乞う態度ではなかった。
ステュクスは適当な犬に寄りかかり、アビスは地べたに腕枕をして寝っ転がっている。
行儀よく座ってるのはアイスバレットと側の子犬だけだった。
(この人たちは本当の意味で礼儀知らずなんだ)
彼らは態度が悪いのではなく、態度という考え方じたいが存在しないようであった。
つい半日前まで、栄光ある王国騎士団の従卒だったネハンが、こんなろくでなしのために労力を捧げている状況に、彼自身が最も困惑していた。
だが、ネハンがさらに不思議に思っているのは、この状況に少しだけワクワクしている自分がいることだった。
ネハンは王国の下級貴族の次男坊として生まれた。もしかしたら三男か四男か、八男かもしれない。とにかく重要なのは長男ではないということだった。
セフィラ王国では、貴族として爵位を継げるのは長男だけである。
長男以外の子供はみな平民だった。彼らはいずれは家を出て、自らの食い扶持を探さなければならなかった。
実家に財力があれば、官僚や学者になる道を選べた。
ネハン自身も学者の道に進みたかった。そのために猛勉強し、王都の魔術学校に入学した。
そこで彼は、真理を探究するのではなく、探究された真理を多くの人に広める道、つまり教師の道に興味を持った。
ちなみに、彼が研究者になることを諦めたのは、魔術学校の同級生に希代の天才がいたからである。
だが、ここで彼に苦難が降りかかった。
実家が突如没落したのである。当主となった兄のギャンブル癖と、兄嫁の浪費癖が原因だった。
ネハンは憧れの魔術学校に入って1年もせずに中退を余儀なくされ、貧乏貴族の次男坊が吹き溜まる辺境の騎士団に入れられることになった。
そこで彼は腐敗した騎士団の実態を目の当たりにする。
肥大化した権威、形骸化した儀礼。上官に媚びへつらい、王都にある最上位騎士団である金剛の騎士団を羨み、そのストレスのはけ口を辺境の異民族に求める。
人々が血を吐く思いで生産したものを租税と称して過剰に徴収し、平気な顔で横領する。それはもはや略奪である。
ネハンの目から見て、騎士団とはもはや捕まっていないだけの盗賊団だった。
だからだろうか。
ネハンにしてみれば、上辺だけは正義だの誇りだのと語る腐り切った騎士団よりも、取るに足らないろくでなしと言われながらなんとなく自分たちの正義を貫いているゼロクたちに爽快感を感じてしまったのだ。
「騎士団と正面から戦ったところで勝ち目はありません」
ネハンは力説した。装備が違う。練度が違う。何より実戦経験が違う。
「こちらが騎士団に勝っている点はただ1つ。地の利です」
「ちのり?」
首を傾げる少年たちに、ネハンは少しくじけかけたが、
「騎士団も、寒いの、苦手なの?」
助け舟を出してくれたのはアイスバレットだった。
ゲデルの万年凍土しか土地を知らない他3人と違い、彼女はこの地が特別であることを知っていた。
以降、ネハンの話はアイスバレットが噛み砕いて伝える形となった。
「……騎士団を狩るか」
ネハンの話を聞き終えたゼロクが静かにつぶやいた。その言葉には、ネハンの伝えたかったことがすべて集約されていた。
(ゼロクは、ただの馬鹿じゃない)
この時、彼はアビスよりも体が小さく、アイスバレットよりも知識が少ないゼロクが彼らのリーダー格である理由がわかった気がした。
「で、どうすればいい?」
ゼロクの鋭い眼光が真っ直ぐにネハンを見る。
この時、ネハンは言いようのない心地よさを感じた。この時は漠然とそう感じただけだったが、後にその理由は明らかになる。
次にネハンが行ったことは、普段彼らがどうやって獲物を狩っているかをつぶさに聞き出すことだった。
それを自分が知っている騎士団の戦い方と照らし合わせる。
敵が知らない情報は何か?
それを最も有効に活用するにはどうしたらよいか?
(騎士団だって馬鹿じゃない)
見下げ果てたならず者ではあったが、それゆえに彼らは戦闘のプロフェッショナルである。
彼らの意表をついたところで、混乱は一時的なものだろう。
その「一時」で、敵に決定的な打撃を与える以外に勝ち筋はない。
少年たちが自分の身を守るために戦いの準備を進めているその頃、蒼玉の騎士団が駐屯している砦では、騎士団長オライオンが床に片膝をつく分隊長を見下ろしていた。
「で、おめおめと逃げ帰ってきたわけだ」
「は……」
冷や汗が分隊長の額を濡らす。
できれば戻って来たくはなかった。だが、比較的温暖な季節とは言えここは極寒の地。乗り継ぐ馬もなく単身でこの地を踏破するなど、よほどの死にたがりでなければ不可能だった。
だが、結局彼の選択が己の寿命に与えた影響は皆無だったと言えるかもしれない。
「うーむ……。蒼玉の騎士団がたかが辺境の村人に殺されたなど、他の騎士団に知られるわけにはいかんなぁ」
オライオンは獣のような唸り声をあげる。
彼は頬と顎に豊かな髭を蓄えた、禿頭の大男である。腕力だけで騎士団長にのし上がった豪傑であり、それだけに面子というものには異常なほどのこだわりがあった。
騎士団長の側に立てかけてあるのは、巨大な両刃の斧である。すでに軍団1つ分の血を吸ったと言われる、オライオンがこの世で最も信頼する相棒だった。
「敵前逃亡は……」
斧が、ゆっくりと振り上げられる。
「ひ……」
分隊長は指一本動かせなかった。数秒後に自分が死ぬとわかっていても。少しでも生きる確率を上げたくてここに来たにも関わらず。
「騎士の恥よォッ!」
恐怖に歪んだ顔は左右に分割され、汚らしい血飛沫が天井まで染め上げた。
「思い上がった奴隷共……。この俺が直々に身の程というものを教えてやろう」
蒼玉の騎士団の面子を守る。その目的も確かにある。
だが、それ以上に彼を昂らせていたのは、久々に嗅ぐ血の臭いだった。
村を1つ殲滅する。
逃げ惑う村人を追い回し、思い存分に斬りつける。
父親の目の前で娘を嬲り、夫の死体の前でその妻を犯す。
「俺は近衛騎士になれなかったんじゃねぇ。この愉しみのために、あえてならなかったんだ」
指揮官の心情は騎士団全体の心情でもあった。そういう意味で、蒼玉の騎士団は結束の固い集団だった。
問題は、指揮官の知性までが団員に伝播していたことだろう。
意気揚々と出撃した蒼玉の騎士団は、ほどなく村の異常に気が付いた。
「ふん、誰もいないか」
予測された事態ではあった。
「だが、奴らに落ち延びる場所などない」
他の村は厄介事を恐れて彼らを受け入れることはしないだろう。彼らの運命は2つに1つ。この凍土を永久に彷徨いながら野垂れ死ぬか、騎士団に狩られるか。
「ここはひと思いに狩ってやるのが慈悲というものだ」
オライオンは歯茎までむき出した獰猛な笑いを浮かべた。
「大勢の足跡が森に向かっています」
「だろうな」
彼らが身を隠すとしたら、森か鉱山。だが、心情的に束縛の象徴である鉱山は選びにくいだろう。
「横列に展開しろ。すり潰してやる」
騎士団は森の縁に沿って部隊を横並び展開した。これが、団長の犯した最初で最大のミスだった。
隊列を大きく広げたため、密で素早い連絡が難しくなった。そのことを団長は承知してはいたが、相手はあくまで狩りの獲物であるという認識が危機感を極めて薄いものにしていた。
「前進しろ。男は殺せ。女は捕えろ。洞穴ひとつ見落とすな」
部隊は針葉樹林へと分け入った。ほどなく、彼らの前に深く積もった雪が障害として立ちはだかった。
「くそ、歩きづらい……」
これが厳寒期ならば、彼らはすぐに馬での進行を断念しただろう。いや、そもそも進軍そのものを再考したに違いない。だが、今は恵の季節だった。雪は進もうと思えば進める程度の深さになっていた。それは彼らにとっては一見幸運に思えて、実はこの上なく不運なことだった。
彼らは獲物の足跡を追って、ジリジリと森の奥へと進んでいった。
「へへ、来やがったな」
即席で作った雪のかまくらに身を潜め、アビスは笑った。
「わかってる? 今は出ちゃダメだからね?」
ステュクスの言葉に、アビスは「わかってるわかってる」と言いながら彼女の頭をくしゃくしゃと撫でた。ステュクスはいやいやと身じろぎする。
やがて、彼らのすぐ前を馬の蹄が通り過ぎていった。
「へっ、騎士共め、氷の地獄を見せてやるよ」
「ああッ!?」
騎士たちが異変に気付いた時はもう遅かった。
馬の足が突然陥没し、雪の上に投げ出された騎士は、鎧に包まれた自分の身体も雪の中に際限なく沈んでいくのを感じた。
「何だこりゃぁ!?」
一面の白い風景と、歩きづらい道に気を取られて気付くのが完全に遅れた。
そこは湖のほとりだった。厳寒期は表面が鏡のように凍り付いているが、この時期はちょうど雪解け水が流れ込み、水流と水圧によって氷が割れはじめ、その上を雪が覆い隠しているという極めて危険な状態だった。
「冷てぇ!」
「馬が! 馬が死んだ!」
湖に落ちた馬のほとんどと騎士の半数が心臓麻痺で即死した。
「くそ! 団長に知らせろ!」
水没を免れた騎士が急ぎ引き返す。
「うわ!?」
だがその時、突然馬が何かに足を取られて転倒した。
「何だ、一体何が……?」
「へぇ、猪よりバカだな、騎士ってやつは」
顔を上げた騎士の前に、大きなつららを手にした大柄な少年が立っていた。
その背後には、木に結んだ蔦の端を持つ少女がニヤニヤと笑っている。
「ま、待て、待て――」
騎士の顔面につららが迫る。
「騎士の相手は水と雪に任せましょう。僕たちが狩るのは、伝令だけです」
それが、ネハンの立てた作戦の骨子だった。
騎士団を狩場の奥地まで誘い込み、不意打ちによる打撃を与え、混乱をできるだけ長引かせる。
「彼らが森を脱出するまでが勝負です。僕たちがするべきは、彼らの脱出をできるだけ妨害すること」
「なるほど、わかった」
「……」
「どうした?」
「いえ、疑わないのかなって。僕はもともと騎士団側の人間ですよ?」
ネハンに指摘されて、ゼロクは初めて気が付いたように「ああ」と声を上げた。
(大丈夫かこの人たち)
こちらが心配になってしまう。「お菓子をあげる」と言われてそのまま誘拐されてしまうのではないかと思えるほど、純粋を通り越して愚かな少年たちだった。
「槍を渡さなかった」
「え?」
ゼロクの言葉はいつも短く、唐突だった。
「槍で、みんなが殺された時……、あなただけは、槍を、渡さなかった」
代わりに、アイスバレットが翻訳した。どうやら彼女の言う「みんな」とは犬小屋の犬たちを指すらしい。
「それは……だって、嫌だったから……」
「だからオレはお前を信じる。勝手に信じる。何をしたらいいか教えてくれ」
「たとえ失敗しても、私たちは、文句言わないから……」
「勝手に信じる」とは、つまりネハンの作戦が失敗に終わったとしても、その責任はネハンを信じた自分たちにあるということだった。
(それ、逆に重いよ……)
だが、こうも思う。
これほど自分を肯定し、信じてくれた人間がいただろうか、と。
教師になりたかったと言っただけの自分に、こうも素直に教えを乞うてくる者がこの先現れるだろうか、と。
白い闇に紛れた者たちによって伝令が次々に消されている間、湖に落ちながらかろうじて這い上がった者たちを更なる恐怖が襲い掛かっていた。
「寒い、寒い寒い寒い……!」
彼らの身体を濡らす水である。
ぐっしょりと濡れた身体が寒風にさらされるたび、気化熱により体温がごっそりと奪われる。
これではたとえ救援が来たとしても、森を出る前に死んでしまうのは明らかだった。
「早く火を! 身体を乾かせ!」
必死の怒号も、すでに半分以上凍り付いているようだった。
「炎の、炎の精霊よ! 我に力を貸したま――」
その時、騎士たちはヒン……とかすかな耳鳴りを聞いた。
「どうした? 早く火を!」
だが、魔術の炎は顕現しなかった。詠唱していた騎士がゆっくりと倒れる。その手には丸い穴が開き、胸から背中へと何かが貫通した痕があった。
「何だこれは……、魔術か……? だが、そんな反応はどこにも……」
森を見下ろす高台に、彼女たちはいた。
「撃て」
ゼロクの指示に、アイスバレットの手の平が一瞬だけ淡く光る。
「よし」
崖の上で、アイスバレットは腹ばいになって手の平をかざしていた。
その側では、ゼロクが体をぴったりと寄せている。
「大丈夫か?」
「うん……」
わずかに上体をそらしているアイスバレットの胸元には、子犬のウルルが大人しく伏せている。
「あそこも光った」
頬と頬が密着する。
少年の手が少女の手をとり、虚空を導いていく。
「ここだ。撃て」
「んッ……」
かすかな光と、かすかな耳鳴り。
「よし!」
普段は物静かな少年が、昂揚に身体を火照らせているのが伝わり、アイスバレットもまた自分の体温が少し上昇するのがわかった。
「疲れたか?」
「あッ……う、ううん、大丈夫……」
「次、行くぞ」
「うん」
ゼロクが見ているのは、遥か彼方で展開される魔法陣の光だった。
水に濡れた騎士たちが体を乾かすために唱えるであろう炎の魔術の兆候だった。
日頃、真っ白な雪の中で真っ白な体毛を持つウサギや野ネズミを狩って来たゼロクが、おそらく唯一他者に勝っているであろう身体能力が、この視力だった。
ゼロクの手がアイスバレットの手を取り、的に向かって導いていく。そして命じる。
「撃て」
本来、「石を投げた方がマシ」と言われた最下級水魔術に長距離からの狙撃などという機能はない。
これはひとえに、少女が幼いころから行ってきた文字通り血反吐を吐くような鍛錬の成果だった。
だが、それでもなお、2人の絶妙なコンビネーションは一朝一夕でものにできるものではない。
恐らく、2人はずっと前からこのような訓練を重ねてきたのだろう。
目的は狩りのためか、それとも純真無垢な子供なりに2人で身体を触れ合わせ、何かを成し遂げることに密かな喜びを感じていたか。
どうも、2人の訓練はアビスやステュクスにも内緒であったことから、後者の比重が大きかったのではないかと思われる。
ふぅ、と息を吐く少女の頬を、血の涙が一筋流れた。
「無理でもやれ」
短い、無慈悲な言葉だった。
だが少女はその言葉に含まれた願いを感じ取っていた。
みんなで帰りたい。また、あの気楽な日常に戻りたい。
だから、今は戦うしかない。
「なんんんんんんじゃこりゃァァァァァッ!!!」
命からがら森を抜け出してきた伝令の報告を聞き、オライオンは吼えた。
こんなはずではなかった。
彼の予想していた未来図は、蛮族の生首をぶら下げた騎士たちが、裸の女たちを引きずって意気揚々と凱旋してくる光景だった。
「伝令は次々と襲われ、謎の魔術により火も起こせず……」
「バカヤロォッ!!!」
オライオンの禿げ頭が天辺まで赤熱した。
「謎の魔術とは何だ!? 魔術大国セフィラの騎士団が知らない魔術などあるか! まして蛮人共が我らの知らない魔術など使えるはずがない! 貴様には王国騎士としての誇りはないのか!」
震えあがる伝令を大喝したオライオンだったが、すぐに指先で顎髭を弄びながら考え始めた。
「おい、そこのお前」
やがて、名前もろくに憶えていない側近に命じる。
「術で火を起こしてみろ」
側近は「はっ!」と即応した。彼もまた、王国騎士団の魔術に勝るものはこの世にないと心の底から信じている者だった。
「炎の精霊よ、我に力を与――」
ヒン……
血煙を噴き上げて倒れる側近。
慌てふためく幕僚たちの中で、オライオンは獲物の臭いを探す肉食獣のように周囲を歩き回り、やがて雪の中から何かをつまみ上げた。
(氷の礫だと?)
それは、先端が尖った小指の先のような形の小さな氷塊だった。かすかに、ほんのかすかに魔力の残滓を感じる。これが側近の命を奪ったのは間違いなかった。
「まさか、氷丸――」
ヒン……、と、あの耳鳴りがした。
その時にはすでに、恵の季節でいつもより強めの陽光を受けていたオライオンの禿げ頭に、小さな穴が穿たれていた。