第1話 リーリウムという名の少女
『アイスバレット』は少女が自分に付けた名前であり、親がつけた名は別にある。
リーリウム・ヴァージニア・ウォルモンド。
それが少女の最初の名前である。
彼女の生家であるウォルモンド家は由緒正しい侯爵家であると同時に、多くの偉大な魔術師を輩出した武門の名家だった。
ウォルモンドに生まれた者は高い魔力を有して当然。
そんな家風の中、生来人並み以下の魔力しか持たずに生まれたリーリウムは、不肖の子として蔑まれる日々を送っていた。
通常、人は生まれてから3年以内には何らかの形で魔力を発現させる。
ウォルモンド家の子女たる者は、2歳になる前までには魔力発現を迎えるのが当たり前だった。
しかし、リーリウムが自分の魔力が形になるのを見たのは5歳になってからだった。
それも水属性。
当時、四大属性である炎、水、雷、大地の中で、攻撃魔術には不向きという理由で最も蔑まれていた属性である。
最下級水魔術『氷丸』。
空気中の水分を氷結させ、前方に撃ち出す術。
戦場においては「石を投げた方がマシ」と言われ、幼児が魔術の制御を学ぶため以外に使い道が無いと言われる、誰からも見向きされない術。
それが、リーリウムが生涯で使うことのできた唯一の魔術である。
彼女に物心がついたとき、すでに両親は彼女への関心を完全に失っていた。
むしろ、不肖の子を産んだ原因を巡って夫婦の仲に亀裂を入れた元凶として忌み嫌っていた。
両親が決して立ち入ることの無い場所――調理場の片隅がリーリウムにかろうじて許された居場所だった。
家族と共に食卓を囲むことは許されなかった。
使用人たちは当初こそ彼女を可哀想に思い何かと世話を焼いていたが、家長の発する雰囲気が次第に彼らの心根を侵蝕し、己の良心が咎めない程度の無関心へと変わっていった。
リーリウムの境遇をさらに不幸なものにしたのは、彼女の姉と弟妹の存在だった。
3歳年上の姉、ヴァイオラ・アレキサンドラ・ウォルモンドは歴史的にも類稀な4属性全ての魔力を有し、初代アルバートの再来と言われる天才だった。
ヴァイオラ自身はリーリウムに対し冷たく当たるようなことはしなかったが、妹として接することもなかった。
魔力の劣る者は人ではないという家風に自然に従い、屋敷の庭園に飼われている番犬に対するものと同じ眼差しでリーリウムを見ていた。
1歳年下の双子の弟妹、ダリアとオリヴァーは4属性の中では最も希少であり、当時最も重宝されていた雷属性の魔力を有し、1歳にして魔力発現としては最高の形と言われる魔力暴走を引き起こすという、ヴァイオラに次ぐ才覚を発揮していた。
この双子こそが、リーリウムにとっては直接的な脅威だった。
彼らが物心ついた時、すでにリーリウムはウォルモンド家の恥さらしとして存在していた。
ゆえに、彼らは悪戯心の赴くままに彼女を虐げた。
実験と称して彼女の食事に劇物を混ぜ、訓練と称して蛇や害虫を彼女にけしかけたりした。
痙攣する体を地べたに這わせ、嘔吐するのがリーリウムの義務だった。
悲痛な声で泣き叫び、自らの尊厳をすり減らす言葉を吐きながら、一刻も早く彼らの嗜虐心を満足させるのが彼女の仕事だった。
そんなリーリウムが唯一安らげるのは、家人が寝静まった夜の時間だった。彼女は、毎夜こっそりと屋敷を抜け出し、裏山で魔術の鍛練を行った。
アイスバレット。彼女が扱える唯一の魔術。水属性の魔力を持つ者なら誰でも扱え、誰もあえて使わない魔術。
少女は暗い森の中で氷の礫を撃ち続けた。
乏しい魔力はすぐに尽きた。それでも、ふらつく体に鞭を打つように彼女は足を踏ん張り、歯を食いしばって最下級の魔術を発動し続けた。
両眼、鼻、耳、顔中の穴から血が溢れた。
それでも彼女は止めなかった。
死んでも良かった。
毎日、殺されているようなものだった。
その日の終わりに、命があることを喜ぶべきか呪うべきかもわからなくなっていた。
ただ、願いがあった。
記憶の奥底にある光景。
母の腕に抱かれ、向かい側に父がいて、すぐ隣に姉がいる。
真っ白なテーブルに並んだ、あたたかな食事。
家族で囲む食卓の記憶。
もう1度、ダリアとオリヴァーも含めて、家族みんなの食卓に入れてもらえたら。
もう思い残すことはない。
そのためにできること。
彼女は他に思いつかなかった。
彼女は知らない。
人が内包できる魔力の量は先天的に決まっており、どんなに努力しても無駄だということを。
彼女は知らない。
ウォルモンド家が重要視するのは魔力の量と魔術の威力であり、彼女がいくら氷丸を速く遠くへ飛ばそうと何の価値もないということを。
リーリウムは12歳になった。
この日、ウォルモンド家は喜びに沸いていた。
長女ヴァイオラの王立魔術学校への首席入学が発表されたからだ。
今日が最後のチャンスだった。
明日、ヴァイオラは魔術学校の寮に入る。家族が食卓を囲めるのは、今宵が最後だ。
「お……おね、さま……」
生まれて初めて、リーリウムは自分から声を出した。
「?」
ヴァイオラが振り返ったのは、聞き慣れない声が聞こえたからだった。
もし、初めからリーリウムの声だと知っていたら、振り返ることはなかっただろう。
「魔術、見て、ください……」
ヴァイオラはしばらく唖然としていた。
このたどたどしい吃音で話しかけて来るみすぼらしい少女が、自分の妹であることを思い出すのに時間がかかった。
「魔術を?」
だが、気付いてからの理解は早かった。
おそらく、この不肖の妹は人知れず何かしらの努力をしていたのだろう。
それを認めてほしい。そして家族の一員として迎えてほしい。
その想いをヴァイオラは読み取った。
「いいだろう。見せてみろ」
それだけでリーリウムの顔がぱぁっと輝いた。
初めてヴァイオラは妹の顔を認識した。
適当に切られた、艶の無いくすんだ薄鈍色の髪。
肌は青白く、体は貧民と見紛うほどに痩せこけていた。
(本当に私の妹か?)
飼い主に無心で懐く子犬のような眼差しをする灰色の瞳を見ながら、ヴァイオラは無感情に思った。
2人は人気のない裏山へ向かった。
「い、いきます……ッ!」
リーリウムは左手を前に突き出す。
「アイスバレット……!」
少女の手元で、小さな魔法陣がかすかに瞬いた。
「!?」
ヴァイオラの前で、1枚の枯れ葉が弾け飛んだ。
「……それだけか?」
聞くまでもなかった。
ぐったりと憔悴したリーリウムの身体が、今のが全身全霊の1発だったことを雄弁に物語っている。
足元に落ちた小さな枯れ葉を拾い上げる。真ん中に小指の先ほどの穴が空いていた。
「石を投げるよりはマシか……いや……」
ヴァイオラは首を振った。小指の先ほどの石を投げるのに、人はあそこまで疲労しない。
そもそも、たとえ魔術を不得手とする者であっても握り拳程度の大きさの氷塊くらい精製できる。できねばならない。
(この子には、人並み以下という言葉すら当てはまらない。これではもはや……)
軽いため息と共に、ヴァイオラは妹に対する興味を今度こそ完全に失い、歩き出した。
背後ですすり泣く少女の声も、ヴァイオラの心にはさざ波すら起こすことはなかった。
◇ ◇ ◇
『今にして思えば……』
ヴァイオラの亡霊は、遠くを見る目を虚空に向けた。
『あれが最後のチャンスだったのは、私の方だった……。もう半日早く、あの子の成し得たことに気付けていれば……』
歴史に『たら、れば』はない。
むしろ、歴史とはそんな大小の後悔の積み重ねだと言える。
『そこのタンスに』
亡霊が指し示す先に、朽ちたタンスがあった。
『一番上の引き出しだ。2重底になっているだろう?』
学生が言われるままに2重底を開けると、そこには握りこぶしほどの石があった。
それは大地の魔術で精製されたクリスタルだった。そして、その中央には小さな枯れ葉が埋め込まれていた。
木の葉の真ん中には小さな丸い穴が開いている。
「見事ですね」
私の言葉に、ヴァイオラは一瞬沈黙し、そして寂し気に微笑んだ。
『そうか、それの凄さが理解される時代になったんだな。あの子は、生まれてくるのが100年早かったのか……』
◇ ◇ ◇
ウォルモンド家をあげて行われたヴァイオラの祝賀は、盛況のうちに終わった。
その場に、最初から最後までリーリウムの姿は無かった。
「お姉さま、何を考え込んでいらっしゃるの?」
ダリアがすくい上げるような目でヴァイオラを見上げた。
「別に」
ヴァイオラはそっけなく答えた。彼女にとって、4歳年下のダリアは血を分けた妹であり優秀な魔術の弟子でもあるのだが、それ以上の感情は湧かなかった。
そもそも、歴史的天才と言われ、すでにその名声にふさわしい偉業をいくつか成し遂げている彼女にとって、自分と対等な人間と呼べる者がいたかどうかも疑わしい。
ぺちゃくちゃととめどなくしゃべり続けるダリアの声を聞き流しながら、ふとヴァイオラは心に乾いた風が吹き抜けるのを感じた。
「……」
寝室で寝衣に着替える時、ヴァイオラは足元に落ちた枯れ葉に気が付いた。
その真ん中に開いた丸い穴を見て、すぐにあの時の葉だと思い出す。無意識のうちに持ってきてしまったらしい。
「石を投げるよりはマシか……」
あの時の感想をもう一度繰り返す。
最下級水魔術アイスバレット。
あの時、リーリウムの中に感じた魔力の灯はあまりに弱々しく、儚いとさえ言えるものだった。
ヴァイオラの内包する活火山の奥底で煮えたぎるマグマのごとき魔力に比べ、リーリウムのそれは風の前に揺らめくろうそくの火のようなものだった。
「小さい。あまりにも」
いかに強大な魔力を有し。いかにそれを自在に制御するか。それが魔術の神髄だった。
求められていたのは天を焦がす火柱であり、城塞を一撃で打ち崩す雷であり、大地を揺るがし意のままに動く岩の巨人だった。
なのに、なぜだろう?
なぜ自分は、こんな小さな穴にこうも心をざわめかせているのだろう?
この、ヒントを出された問題にうまく答えられないようなもどかしさは何だろう?
「小さい! あまりにも!」
その答えにたどり着いたのは、地平線に陽の光がわずかにのぞいたその瞬間だった。
魔術の神髄とは、いかに強大な魔力を有し、いかにそれを自在に制御するか。
(あの乏しい魔力で、木の葉を撃ち抜くのに必要十分な大きさと形の氷を精製し、空中を舞う標的の中心を正確に狙い、乾いた葉を砕かず穴だけを開けるだと!?)
少女の手の平で、かすかに瞬いた小さな魔法陣を思い出す。
(何だ!? あの速度は!?)
あの一瞬で、あの精緻極まる術式を発動させる。
自分に同じことはできるだろうか?
天才だからこそ解る。
やってできないことはない。だが、自分があの領域に到達するには10年以上の月日が必要だ。
しかも、今の時代が自分に求めているのはそんなことではない。
もっと強大で、万人が恐れ慄き、ひれ伏し、神の所業と見紛うほどの示威的な力だ。
だが、リーリウムは――
(見つけた! ようやく!)
誰もいない払暁の廊下をヴァイオラは走った。
(あの子は気付いていないのだ。自分が何を成し遂げようとしているのか。私と真逆の道を征きながら、私と同じ神への領域へ到達しかけていることに!)
ようやく出会えた! ただ1人切っ先を走らねばならない、誰にも理解されないこの孤独を共有できる存在に!
「リーリウム! リーリウム!」
広い屋敷の片っ端から扉を開けていく。
(何てことだ! 私はあの子が普段どこにいるのかも知らないのか!)
執事を叩き起こし、妹の所在を聞いてヴァイオラは愕然とした。
「リーリウム……?」
調理場の片隅、生ごみを入れる大箱のさらに奥。陽の届かない暗がりが彼女の寝所だった。
「ブライトフレイム」
ヴァイオラの手の平に魔法陣が浮かびあがり、白く煌めく炎が闇を照らす。
だが、そこにはボロ布の敷物が1枚あるきりだった。
震える手で敷物をめくる。
そこには、黒茶けた染みのような文字が書かれていた。
みんなと、ごはんを。