最終話 アイスバレットという名の
『シェリルスの戦い』の火ぶたを切ったのは、紅玉の騎士団だった。
魔女アイスバレット襲撃の片棒を担いだとされる彼らだったが、その組織は深刻な内部分裂を起こしていた。というのも、ダリアにそそのかされた者たちは騎士団の中でも特に過激な思想を持つ、ごく少数の一派に過ぎなかったのである。
だが、事態が一変した今、そんな事情が顧みられることはなく、紅玉の騎士団全体がこの騒乱を引き起こした共犯者として見られていた。
この状況を打破するために、追いつめられた彼らがとる道は1つだった。
「先陣の名誉を担い、王国軍に勝利を!」
「我ら、この命を賭して騎士の名誉を全うせん!」
はたから見れば、それは自棄から始まる抜け駆けの功名に過ぎなかったが、それだけ彼らの視野は狭まっていた。
「勝つのだ! 勝てば我らの正しさは証明される!」
「蛮族に死を! 汚れた魔女に聖なる炎の制裁を!」
猛進する騎馬隊に対して、激情と冷静さを併せ持つ魔王ゼロクは、その二面性を最も残酷な形で発揮した。
彼は静かに、前衛の兵士たちを後退させた。それを、功名に逸る騎士団は自分たちの都合のよいように解釈した。
「見ろ! 蛮族共が怯んだぞ!」
「我らの威光の前に恐れをなしたか!」
そんな彼らを、魔王ゼロクは「バカが」と嘲ったかどうかはわからない。
敵を追って突進した彼らの前に現れたのは、長く深く掘られた塹壕だった。遠目には、まるで騎馬隊がふっと消えたように見えたことだろう。
「卑怯者め!」
彼らの声は、負け犬の遠吠えに過ぎなかった。
そんな彼らに、魔王軍は名誉の戦死をもたらす弓矢ではなく、屈辱の生還をもたらす獣狩り用の網を投げ込んだのだった。
捕らえられた彼らは武器と馬は奪われたが、騎士の象徴たる鎧は奪われず、『捕虜にも要らん』というメッセージを添えられて王国軍の陣営に送り返されることになる。
およそ考えうる限りの騎士の恥を塗り付けられた彼らは、それきり歴史の舞台から姿を消す。
彼ら自身の結末はお粗末なものだったが、その無謀な抜け駆けがもたらした影響は深刻だった。
シェリルス平原に展開していた王国軍のうち、南北の両端を担っていた部隊が中央の命令を待たずに突撃を開始したのである。
もっとも、この場合彼らを責めるのは酷だった。
指揮系統も連絡網も定まっていない中、「中央軍、突撃」との伝令を受けた両翼の将が慌てて自軍に出撃を命じた。続いてその突撃が事故のようなものであるとの伝令を受けるが、すでに動き出した軍隊を止めることはできなかった。
そこには、正規の兵や騎士団が中央に集中し、両翼の部隊には功名や略奪を目当てに参加した山賊くずれのような傭兵があてがわれていたことも原因だろう。
そんな荒くれた王国兵の突撃に、侵略者は容赦なく叩き潰すことを信条とする魔王軍にも火が付いた。
かくして、なし崩し的に『シェリルスの戦い』は幕を上げた。
この時の両陣営の兵力は、双方に残る文書を照らし合わせるに、王国軍5万、魔王軍2万と算出される。
兵数は王国軍が圧倒的であるものの、魔王軍には城塞、城壁、塹壕などの準備が万端に整っているという強みがあり、戦況がどちらに転ぶかは誰にもわからなかった。
この時、王国軍の総司令官を務めたのは、新たに金剛の騎士団の長に任命されたレオス・モーヴィウスという男だった。
レオスは当時32歳。魔術の素養があったものの、実家が貧しい平民であったために魔術学校に入ることができず、一兵卒から実力で武勲を立てて準男爵の地位を賜って騎士となった、たたき上げの将だった。
彼に関する後世の評価は2通りあり、ヴァイオラという番狂わせがなければもっと早くこの地位につけたであろうという説と、このシェリルスの混乱が無ければ騎士団長にはなれなかったであろうという説である。
この論争が決着する可能性は低いが、歴史創作の世界におけるレオスは、大軍師ネハンや魔王ゼロクと壮大な戦略合戦を繰り広げる主役級の人物として扱われることが多く、民衆からの人気の高さをうかがわせる。
逆に言えば、史実における彼の立場は不遇としか言えないものであった。
「あとひと月、いや、あと10日! 兵を鍛える時間があれば!」
レオスの嘆きは、そのまま彼の代名詞として語り継がれている。
「無闇な突撃をやめろ! 一歩一歩、着実に攻めればそれだけで勝てるのだ!」
この状況において彼の指示は無意味だったが、的確だった。
彼は魔王軍の動きが「突撃」と「後退」しかないことを見抜いていた。
(奴らは単純だ。だがそれゆえに強いのだ)
レオスは魔王軍をよく研究していた。魔王軍の強さの秘訣は、勝つための準備を周到に整えることにある。意のままに動くよう兵を鍛え、地の利を整え、自分たちの戦場に相手を引き込む。
ゆえに、戦場ではただ機を見て突撃し、機を見て退くだけでいいのである。
(だが、今回は奴らにも誤算があった。それがこの兵力差だ)
魔王軍がにわかにシェリルス平原の緊張を高めたため、パニックを起こした王国軍が無秩序に兵を動員した。そのため、王国軍には兵数だけは過剰なほどに揃えることができているのである。
(とにかく兵をまとめる! それさえできれば勝機はあるのだ!)
レオスは伝令を飛ばしまくった。命令は魔王軍に倣ってただ1つ、『後退せよ』だった。
一方、魔王軍の陣営では、レオスの読みがそのままゼロクの心を騒がせていた。
終始、感情と勘で生きているような男だったが、それだけで戦乱の世を生き抜いてきただけにその勘は研ぎ澄まされていた。
(敵が退く)
まだ両軍が乱戦のさ中である段階で、彼はそう感じた。
(退かれるのはマズい)
経験と情報から論理的に答えを導いたレオスとは対照的に、ゼロクはほぼ直感だけで敵将と同じ結論に行きついていた。
これは天才というより、獣じみた勘の持ち主と言うべきだろう。
(しくじったか?)
とも思った。
しくじったとしたら、アイスバレットの涙を見て、怒りに任せてシェリルス平原に挙兵したことだろう。
地の利を生かした防衛戦を得意としていた魔王軍が、敵の恐怖心を煽り、挑発するなどという慣れないことをした報いとも思える。
だが、そうせずにはいられなかった。
家族を奪われ、傷つけられて黙っているような男は、魔王ではなかった。
(オレはどうすればいい?)
こういう時、ゼロクは一人で考えることをしない。部下を信頼するのは彼の美徳ではあったが、同時に欠点でもあった。
だが、それを問う相手はもういない。
ネハンが彼の前を去ったのは、戦いが始まる前日だった。
「私が魔王様のためにできることはもうありません。困った時はこの袋を開けて、書かれていることに従ってください」
「……」
ゼロクは早くも袋を開け、中身を読んだ。
「……アイス」
彼は、側に佇む最愛の者の名を呼び、手を差し出した。
「走ろう」
アイスバレットは泣きはらした目をゼロクに向けた。
「……うん」
ゼロクは愛馬に飛び乗った。それは黒竜と見紛うほどに黒く逞しい駿馬だった。
その後に、手を引かれたアイスバレットが座る。両腕をしっかりとゼロクの細い胴体に回した。
「出るぞ!」
一声叫ぶと、ゼロクは弩から放たれた矢のように駆け出した。
後にはひらひらと舞う紙だけが残された。そこには『あなたの心のままに』とだけ書かれていた。
「魔王軍、突撃してきます!」
早馬が王国の大本営に駆け込んできた。
レオス・モーヴィウスは「そう来たか」とつぶやいた。
(魔王ゼロクは、戦の素人なのだろうな)
一兵卒からのし上がった騎士団長はそう考察した。
まともな軍人ならば、ここは互いに後退して態勢を立て直そうと考える。
素人は、自分に都合のよいところだけを見、寡兵をもって大軍を破らんと攻勢に出る。
玄人と素人の境界は、生死を分かつ極限状態に長時間耐えられるかどうかである。
(そしてバカは……)
土煙りを上げて突進してくる魔王の軍勢。
その先頭を駆けているのは、まぎれもなく魔王ゼロクその人だった。
(バカは、何も考えない!)
レオスは槍と盾を持ち、馬に跨った。
「バカな男だ! だが嫌いではない!」
猛るレオスの足元に、1人の兵士が跪いた。
「ヴァイオラ殿か」
「ご無礼は承知しております。どうか、ご同行の許可を」
「いいだろう。天才魔術士の力を貸してくれ」
ヴァイオラに馬を貸し、共に駆けた。
魔王は王国軍の本陣に錐をもみこむように侵攻して来る。
「魔王だ! 魔女もいる!」
「逃げろ! 魔女の咆哮だ!」
土煙りの中に、次第に赤い色が混じり始めた。
ホォーン……、と。女性のうつろな嘆きを思わせる強烈な耳鳴りが響きだした。
「道を開けろ! 魔王の相手は私がするッ!」
魔女の咆哮から逃げる者と、レオスの命令を聞いた者が奇跡的に同じ行動をとった。
人の群が、左右に分かれて波のように引いてゆく。
魔王ゼロクとレオスたちの間に、広い無人の道が出来上がった。
「来い! 魔王ゼロク!」
「ふっ……」
魔王は笑った。子供のように無邪気な笑顔だった。それはゼロクが敵将に向ける最大の賛辞だったのだろう。
魔王ゼロクは馬上に身を伏せた。背後から、右手をかざす魔女アイスバレットが現れた。
「アイスバレットォッ!!」
そこへヴァイオラが割り込んだ。無詠唱で炎の壁を作り出す。
ヒン……
ヴァイオラの右手首が吹き飛んだ。
「まだだァ!」
だが、ヴァイオラは同時に左手でも術式を展開していた。
青い魔方陣から、氷の礫が生み出される。
ヒン……
だが、氷は撃ち出される前に霧散した。
左手首が弧を描いて兵士の波へと消えていった。
ヴァイオラは両腕から血を噴き出しながら落馬した。
(やはり、敵わなかったな)
わかっていたことだった。
彼女はこの10年間で様々な魔術を開発した。
だがアイスバレットはこの10年間、ひたすら最下級水魔術だけを磨き続けた。
(誇れ、アイスバレット。お前は、この希代の天才に正面から打ち勝った、最強の魔術士だ……)
これが、家族を切り捨てて魔術に生きた者から、我が身を捨てて魔術に生きる者への、せめてもの贈り物だった。
「うおおおおおッ!」
レオス・モーヴィウスはヴァイオラが作ってくれたわずかな隙に乗じ、大盾を前にして槍を構え、突撃形態をとった。
「例えこの身が砕けようと! 魔王! 刺し違えてでも貴様を倒す!」
魔女の手元が淡く明滅する。弱々しい魔力の瞬きを感じた次の瞬間、分厚い大盾にはいくつもの穴が開き、不可視の礫がレオスの鎧をも刺し貫いていた。
「魔王ォォォォォッ!!!」
激痛を忘れ、渾身の力で槍を繰り出す。
「アハハハハハハハッ!!」
魔王は笑った。
黒馬が大地を蹴って飛翔し、レオスの頭上を飛び越えて走り去った。
後に続く魔王の軍勢が津波のように流れ込み、全てを蹂躙した。
この魔王の無謀とすら言えない突撃により、王国軍5万は分断されて完全に制御を失い、戦場は大混戦へともつれ込んだ。
この時の魔王ゼロクの行動を、合理的に説明できる者は未だ存在しない。
強いて想像するなら、彼は自分の命をコインに見立てて賭けをしたのかもしれない。
最後まで魔王として死ぬか、それとも……。
――やがて陽が沈み、疲弊しきった両軍はどちらともなく後退し、『シェリルスの戦い』は終わった。
帰還した兵士の数は、王国軍3万5千、魔王軍1万5千。
損害率で言えば王国軍の大敗と言えたが、魔王軍にとっても得る物のない戦いであった。
レオス・モーヴィウスは辛くも生還したが、肩と膝を負傷し、敗戦の責任を取って準男爵の地位を返上して市井の人となった。彼のその後は創作歴史物語を書く者たちの想像力にゆだねられた。史実においては、シェリルス平原での魔王との一幕だけが、彼の唯一の見せ場となった。
ヴァイオラ・アレキサンドラ・ウォルモンドも奇跡的に生還し、唯一残された屋敷へと帰った。そこで生きる気力を失った両親と発狂したダリアと共に、財産を食い潰しながらの隠遁生活に入ることになる。
◇ ◇ ◇
『その1年後、私の肉体は滅んだ。腕の傷が癒えず、世話をしてくれる使用人もいなくなり、自分でもなぜ死んだやら、死因が多過ぎてわからん』
そう言って、ヴァイオラは乾いた笑いを浮かべた。
『だが、哀れだったのはダリアだった。あの子は自分が没落したことが受け入れられず、現実と虚構の区別がつかなくなってしまった。最後に話した意味のある言葉は、『きっとリーリウム姉様が救ってくれる』だったな……』
「調べたところ、この屋敷には貴女以外の死体はありませんでした。ウォルモンド家の人たちのその後はわかりません」
そうか、とつぶやき、ヴァイオラの霊は静かに目を閉じた。亡霊が死者に黙祷を捧げる光景が自分でも可笑しかったのか、彼女は照れたように笑った。
『それでコーンウェル殿。あの子は、アイスバレットはその後どうなった?』
シェリルスの戦いの後、魔王ゼロクはホートに本拠を移して国力の充実に力を注ぐ。
一方、セフィラ王国では和平派が主流となり、魔王領との講和を働きかけてゆく。
そんな中、魔王ゼロクは突然退位を発表する。
王座を離れたゼロクはアイスバレットと共にいずこかへ姿を消し、2度と表舞台に現れることは無かった。
後継者となったのは闘将アビスの息子、セクトだった。
セクトは魔王領の国名をゼロク自治領と改名し、自らは総督と名乗った。
ちなみに、アビスの妻はホートの大商人の娘であり、多分に政略結婚の色合いが強かったが、夫婦仲は円満だったと言われている。
また、1度は魔王のもとを去ったネハンだが、彼は後にゼロク自治領のいち官吏として領内を巡行し、各地の人口や産業などを調べる仕事に従事した。10年かけてその仕事をやり終えた彼は職を辞し、妻と出会って子供をつくり、家庭人として人生を全うした。
ステュクスはゼロク自治領における最初の大学創設に尽力した。彼女は家庭を作らなかったが、代わりに多くの弟子を育てた。彼らの広めた薬草学は多くの子供たちを救い、彼女の存在は『領民の母』として語り継がれている。
『そうか。あの子の消息はわからないか……』
「残念ながら」
『私は『国辱のヴァイオラ』という、汚名ながらも歴史に名を遺すことができた。だが、あの子は……』
だがそれは、先に彼女自身が言ったとおり、アイスバレットの願いだったのではないかと私も思う。
ゼロクたちが乱世を戦った理由は、一貫して「仲間たちとダラダラ過ごしたい」というろくでもない欲求だったように思える。
そして彼らは、侵略者に脅かされることのない、平穏な場所をつくることに一応は成功した。彼らにしてみれば、それで目的はじゅうぶんに達したのだ。
その中でアビスやステュクス、ネハンはそれぞれの道を見つけた。
だからゼロクは、アイスバレットだけを連れて自分たちが本来いるべき場所に帰ったのではないだろうか。
「もしかしたら、2人は故郷の村で、子どもや子犬に囲まれて余生を過ごしたのかもしれません」
『ああ、それは……』
亡霊は天を仰いだ。
『素敵な想像だな……』
陽が暮れる。
そろそろ、この対談も終わりの時が来た。
最後に、私は彼女にとっておきの情報を贈ることにした。
「セフィラ王国とゼロク自治領が互いに遺恨を封じて平和条約を結ぶには、さらに20年の月日が必要でした。なので両国は条約の締結日を記念日として、毎年平和の祭典を行うことにしたのです」
『それは、すばらしいな……』
「祭典では、様々な競技も行われます。特に人々を熱狂させるのは、ある魔術競技です。それは魔力で作りだした氷の礫を、より遠くの的へ、より正確に飛ばすというものです」
『あ、あぁ……』
私の話が終わる前に、天才の頭脳がその答えにたどり着いた。
亡霊の体が光に包まれ、ゆっくりと消えていく。
「その、平和を象徴する競技の名前は――」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




