3 仔狐スズナが守りたいもの
「おトイレに行く」……と、潤をベンチに待たせた涼菜は、洗面所に直行することなく脇に道を逸れた。
入ってはいけないはずの場所へと入っていく。
上空を、この遊園地の2大コースターのひとつ、巨大ループコースターが轟音をたてて行き過ぎる。
涼菜の周囲には大きな木が何本も生え、その脇には敷地を区切る金網があった。金網の向こうにはさらに広い敷地があって、やはり、かなり濃い密度で植林がなされている。
『新アトラクション建設予定地、来年度春休みに登場!』
そんな立て看板が、何枚も金網にくくりつけられている。
数ヶ月前まで『憩いの森』と呼ばれていた敷地は、新アトラクションの建設を控え、現在完全に封鎖されていた。
当然、金網の先は無人。人波にごったがえす遊園地の中にいくつも存在する、真空地帯のひとつだった。
涼菜は金網に手をかけて、まるでガードレールを飛び越えるように、軽々と、身長の倍はありそうな柵を飛び越える。
「ふっ」
小さな呼吸をひとつしたたけで、腰を落とし、軽々と金網の封鎖地帯側に着地した。
立ち上がる。一瞬前までの優しい笑顔はどこへ消えたのか、と問いたくなるほどに怜悧な貌の涼菜がそこにいた。
「しつこいね」
涼菜の顔で、涼菜の声で、涼菜が「らしからぬ」言葉を口にする。
中途半端に深い木々の中で、気配がゆらりとうごめいた。
気配の主が姿を現す。濃く茶色い毛を全身にまとった、目つきの鋭い犬……いや、狼だった。
かつて日本の山野の王者だった生き物は、音をたてることを気にもせずに、涼菜の前に歩み出てきた。
「昨日のとは違う……か。で、なんの用?」
涼菜は半眼で、面倒くさそうに低い声色で言い放った。
「子ギツネめが、言う」
狼は、こちらも鷹揚な態度で声を発した。
もちろん、自分も物の怪の……白狐の変化である涼菜は、狼が人語を操ることに驚く風もない。
ただただ不機嫌そうに、目を伏せて言い放った。
「なんの用かと聞いているの。悪いけど、あなたたち化外を狩るのはもうやめたのだけれど。仲間の敵討ち、とかいうのだったら相手になるけど……やめておいたほうが身のため」
涼菜は……涼菜の姿をした子ギツネは、産まれてから二百年の間に何匹もの妖をその手にかけてきたため、自然、涼菜を恨む妖も多い。
この狼もそんなたぐいのひとつだろうと、涼菜はそう判断した。
「齢二百足らずの子ギツネと思って、なめるな、か?」
狼の言葉にぴくりと反応する涼菜。それは涼菜が昨日の夕刻、闇の中に逃げた化外に向けて言い放った言葉だった。
「やっぱり昨日のやつの仲間?」
「さて」
「まあいい。かかってくるなら来なさい」
「いいのか、子ギツネ?」
「わたしが「定め」られてないから? だから弱いと思ってる?」
静かな言葉の中に威圧が混じる。それは狼も同じだった。人外なるもの、獣ならざる獣同士の戦いだ。動かぬままに、緊張の密度が濃くなっていく。
「若いね……八十……いえ、百とすこし?」
「ふん、育ちの遅い狐といっしょにされてはかなわん。百も齢を重ねれば立派な成狼よ」
「そう……だったね。で、話はそれだけ? なら帰らせてもらうけど」
狼に背を向け、金網を見上げる涼菜。その背に黒い陰が飛びかかる。
涼菜が身体をすこしだけ傾がせた直後、がしゃん、とけたたましい音で金網が鳴る。金網を蹴った狼は、次の瞬間には、元の位置へと着地していた。
恐るべきスピードだった。
今の狼の挙動、誰も見てはいないが、もし見ていたとしても、なにが起きたかわかる人間は、そうはいないはずだ。
が、涼菜はさして驚いた様子もない。それどころか、なにもなかったような顔をして、来たときと同じように金網を飛び越えて、遊園地側に着地する。
「なんのつもりか知らないけれど、生きていたかったら、これ以上ちょっかいをだすのはやめて」
涼菜のつぶやきを無視するように、狼が再び飛びかからんと、四肢をたわませる。
今度は金網をやぶるつもりか、それとも金網を飛び越えて涼菜に迫るつもりか……なんにしろ、狼の殺る気はいささかもそがれていない様子だった。
ふう、とためいきをつく涼菜。
狼が飛びかかろうとしたその寸前、涼菜は腕を振り、下に向けた手のひらの中で指を鳴らした。
刹那。
狼の体表を覆う黒茶の体毛が、白く燃え上がる。
いましも涼菜に飛びかからんとしていた狼は、地を蹴り損ねたのか、バランスを崩して無様に地面へと身体を打ち付けた。
月明かりを反射する草原の草のように、白く燃える狼の体毛。狼はのたうちまわり、身体を地面にすりつけて、炎を消そうと転がる。
「安心して。殺さないから」
涼菜が手を降ろす。と同時に、狼の身体を覆いつくさんばかりに燃え広がっていた炎が、潮が引くように失せた。
「長生きしたかったら覚えておいて、今のが狐火……百歳程度の狼じゃ、食らったこともないでしょう?」
全身で息をしながら、狼はよろよろと立ち上がる。涼菜は、そんな狼にむけて半分だけ振り返ると、冷ややかな視線を浴びせた。
狼の本能が逃げろと叫ぶ。
狼に向けられた美少女の瞳は、まごうことなく獲物を狩る捕食者のものだった。
確かに戌神の一族の中にあって、自分はそんなにも強くはない。しかし、狐の……しかも子ギツネごときに畏れをなすとは……。
眷属七頭を従える戌神の誇りが、自分を許せない気持ちだけが、狼の四肢に力を与える。
「娘……」
「無様なんだ」
ようやっとのことで絞り出した言葉を、白狐の少女は鼻で笑い、切り捨てた。
「うん、もうすこし、自慢の速さを磨いたほうがいいね」
涼菜は瞳を細めたまま、ふっと小さく笑みを浮かべ、左手を鼻先に掲げた。
人差し指と親指に挟まれているのは、焦げ茶色をした狼の体毛だった。
狼は愕然とする。
目に見えない交錯の一瞬に、抜かれていた!? そんな驚愕を知らぬように、涼菜は唇をすぼめ、ふっと。体毛を飛ばす。
狼の体毛は……
涼菜の手から離れる寸前に、白い、月の色の輝きに燃え、蒸発したのだった。