4 幸せは手の中
「じゃあ、また明日の朝」
そう言って、ふたりは別れた。
潤は家に。涼菜は街灯の下に残る。
「コンビニに行くね、お母さんに、頼まれものされてるから」
嘘をついた。
「コンビニ、つきあうよ」と潤は言い張ったが、「ダメ」と拒否をした。
しぶしぶながら引き下がった潤は、振り向き振り向き、そのつど手を振りながら家に帰っていった。
涼菜は、そんな潤をかわいいと思う。
潤は、一度黒江家の門柱の陰に引っ込んだかと思うと、顔を出して、照れたように手を振る。涼菜も小さく手を振り返した。
そうして、今度こそ潤が家の中に消えてから、きっかり五秒。
涼菜が背後の暗闇に問う。
「なんの用?」
部活でも、潤の前でも、深智子の前でも見せたことのない表情と声色だった。
研ぎ澄まされた気配と、冷徹な声の温度。彼女を知っている人が見たら、まるで涼菜が涼菜でなくなったように見えたはずだ。
涼菜の背後で、闇が、いや、限りなく闇に近い気配がわだかまっていた。
その闇に向けるあからさまな嫌悪を、涼菜は隠そうともしない。
闇の中の気配が言う。
「……狐が人間の女に化けて、男をたぶらかすかよ?」
対して涼菜は無言だった。怜悧な刃物のように細められた目は、闇の気配にすら向けられず、前方の遙か遠くを見つめていた。
今や涼菜は、先ほどまでと全く違う存在であるように、超然としてそこにいた。
夏であるにも関わらず、氷のような寒気をまとい、背後のモノを威圧する。
だが、闇の中の気配は、それをあざ笑うように揺れる。
「白狐のメス……そんなにまでして、オスがほしいか?」
「下衆か……」
涼菜とは思えない、古びた語彙。
「化外の理を破ってまであのオスが欲しいのかァ」
「……」
「凄んでも怖くないなぁ、あのオスに、まだ「定め」られてないんだろゥ?」
その言葉に、ふ、と笑みを浮かべる涼菜。
ああ、こいつは何も知らないのだ、と今度は涼菜が嘲笑う。
「その通りだけれど。でも、たかだか齢二百の子狐と侮ると……死ぬよ」
闇が沈黙する。
かすかに伝わって来るのは「怯え」だ。
直前まで挑戦的な科白を吐いていた闇が、今や完全にその立場を奪われている。
格の違い、だった。
「世も末だね、ひよこ風情が楯突く。でも、悪いけどお前たちを狩ることはやめてるの。ここにいるのはひとりのニンゲン。それから……今日は機嫌がいい。見逃してやるから……」
一拍おいて、涼菜は言う。
「居ね」
去れと言われて、闇はみじろぎをひとつ。
やがて、口惜しげに喉を鳴らすと、闇の中の気配は、路地の奥に拡がる更に深い闇へと姿を消した。
涼菜は、ふう、と息をつく。
憂いをたたえた視線を背後に向けて、なにかを振り払うように二、三度、左右に首を振った。
涼菜は、潤の部屋に明かりが灯ったのを確認して、決意の表情を浮かべる。
潤を巻き込んではいけない。涼菜の願いではないから。
幸せにならなければいけない。本物の涼菜の分まで。
「涼菜、これでわたし……本当の涼菜をはじめられるね」
涼菜は……本物の涼菜の最期を看取った子狐の少女は、涼菜の顔で小さくつぶやいた。
こうして恋は始まって、こうして物語は幕を開けたのだった。