2 好きなのは君
教室を追い出された潤がなんとなく選んだのは、校庭で涼菜を待つことだった。
目当てのプールは校舎の脇にあった。横にはあんまり立派でない弓道場があって、中からスパン、スパンと、矢が的……もしくは土に刺さる音がする。
(夏休みだっていうのにごくろうさま……と)
そうこうしている間に、補習組(お仲間だ)が目の前を通り過ぎ、陸上部が帰って、別に強くない野球部がクールダウンのランニングをはじめた。
ああ、夏だものな。
ぼんやりと空を仰ぐ潤の脳裏を、今更ながらそんな想いがよぎる。
夏場の水泳部は、ほとんど最後まで残って練習を続けるのが通例だ。他の部活が練習を終えても、笛の音と飛び込みの音が、夕焼けを越えて夕闇が迫る時間まで続くのだ。
耳を澄ます。どれが涼菜のたてる水音なのか……水音だけで、プールに飛び込む涼菜を想像をして、ちょっと幸せな気分になる。
涼菜は小学生どころか、幼稚園の時から水泳が得意だった。元々がんばりやだった彼女だ、きっとこの先を期待されているに違いない。
この夏が終わる頃には、多分レギュラー入りもしているだろう。
それを心から祝ってあげられるのは、なんにもできなかった中学生までの涼菜を知っている自分だけなのだ。
これぞ、幼なじみゆえに許された優越感ってやつかぁ……などと、潤が頭の悪いことを考えている間に、どんどん時は過ぎていく。
待っていることに苦はなかった。
小学校の時はこうしてずっと涼菜を待っていたのだから、むしろいざ待つと決めてしまえば、自然なことにすら思える。
やがて、夕焼けの時間が迫り、空の色もスミレ色に染まっていく。
黄昏……と言い切るにはまだ早いけれど、夕の空気は、なにか特別なことが起きるような気にさせるから不思議だ……
なんていうのは思い切り錯覚なのだが、今の潤は無意味に高揚しているせいで、自分のしていることのおかしさにも気がつかない。
しばらくしてプールから人の声がしなくなり、男子更衣室から男子水泳部員が出ていった。
女子更衣室の重い鉄扉が開いたのは、それからたっぷり三十分をかけて後のこと。
中から、白い半袖ブラウスがひとり、またひとり、と姿を現す。
まだしゃべり足りないのか、彼女たちは更衣室の前で固まって笑いあって、やがて、それぞれが数人ずつのグループに分かれて各々の家の方向に歩き出した。
その中のひとつ、正門から下校する組に彼女はいた。
ひとめでわかる。
間違えようはずもなかった。なんたって潤は、この学校のだれよりも長く(多分)、涼菜の姿を見てきたのだ。
が……
ここにきて、潤は自分のうかつさを呪うことになった。
(ちょっとまて、いったいどうやって声をかけたらいい?)
補習が長引いたから、ついでに?
……いきなりこんなところで涼菜を待ってた理由にはならないし、別に補習は長引いてない。というか、むしろ追い出された。
幼なじみなんだから、当然でしょ?
……今まで幼なじみらしいことなんかしてたっけ? むしろ避けてなかったか?
なんにしろ、中学校入学からこっち三年と数ヶ月、半ばどころか、ほぼ完全に涼菜を避けていた潤が、いきなり彼女を待っていたことに対する論拠としては薄いし弱い。
もしそれを涼菜が許したとしても、涼菜の友人たちは見逃してはくれないだろう。
この一学期で十人を越えるという噂の告白玉砕組と同一視されるだけならまだいい。これくらいの歳の女の子は変に警戒心がつよかったりするから、最悪、陰でストーカー呼ばわりされることは覚悟しなくちゃならないだろう。
そうなったら、卒業までの二年間と半分、変な人呼ばわりは確定事項だし、そんなことになった日には、きっと涼菜は目も合わせてくれなくなるに決まってるのだった。
もちろん涼菜はもてるから、そうやって避けられてるうちに、やっぱりあっと言う間に素敵な彼氏ができて……いたたまれなくなった潤は、毎朝いつもより三十分早く家を出る毎日が続くのだ。
……これはイヤだ。
教室で妄想していた結論と同じところに至って、冷静になる。
僕は……馬鹿なのかな?
なんで涼菜の帰りを待っていよう、なんて思ったのか。
そもそもいっしょに帰る理由も、彼女の未来の彼に嫉妬する権利も、今の潤にはないのだ。
涼菜はいつまでも、あのどんくさくてクソ真面目で、潤を慕っていた涼菜ではないし、あの頃とは違う高めの女の子になったからこそ、涼菜は学年で指折りの上位人気なわけで。
そうなったからこそ、改めて好きになったわけで……
(さすがに、これは都合良すぎる……我ながらクズだよな)
おとなしく帰ろう、と思う。
空気でいる分には最低な男になるよりは幾分かマシだと、背を向けようとして、視線に気付く。
涼菜が、こちらを見ているのに気づいてはっとする。
(見つかった?)
目があったような気もしたが、気のせいだったのか、涼菜はすぐに友人たちの方に向き直る。
いけない、逃げなくては……いや、落ち着け!
涼菜がこちらを見ていたといっても、この暗がりの中でこの距離だ、少なくとも目のあまり良くない涼菜には、こっちが誰なのかまでは確定できていないはずだった。
周囲を見回す。
ロータリーのすみにある芝生が目に入る。
松の木や名前も知らない木に囲まれて、校歌の刻まれた石版が立ててある。なんかの偉い人が寄贈した石碑らしいが、とにかくこの裏に隠れれば、問題なく涼菜と、その友人ふたりをやりすごせるはずだった。
少しずつ近づいてくる彼女たち。三人が潤に気づいた様子はない。
潤は急ぎ芝生に足を踏み入れると、潤の身長ほどもある石版の後ろに身を滑り込ませ、腰を落として座り込んだ。
校歌の彫ってある板の裏側は、もうかなり真っ暗な闇だった。
視界がきかないせいで聴覚が研ぎ澄まされているからなのか、プチドップラー効果よろしく、女の子たちの声が近づいてくるのがわかる。
潤は、彼女たちがなにを話しているのかを聞き取ろうと耳をすますが、会話の内容なんて聞きとれるわけもなく、女の子たちの声はゆっくりと遠ざかっていった。
遠くで彼女たちを呼ぶのは、先に着替えを終えて出てきていた水泳部の男子だろうか。
涼菜もこれから彼らと寄り道の一つでもするのか、そんなふうに思うと、それだけで胸がぎゅっと痛くなる。
だが。
それでも。
嵐は去った。
潤は勝った。
二年半暗黒痴漢呼ばわりの刑の悪夢は、靴底の音と共に、潤に背を向けて歩み去ったのだ。
思わず安堵のためいきが漏れた。思いのほか緊張していたのか、体中から力が抜ける。尻餅をついた潤は、両足を放り出して座り込んでしまった。
芝生がふくんでいた、たっぷりの湿り気が、ズボンのお尻に染みる。
苦笑。
僕はアホか……
自分がやっていることのあまりの馬鹿馬鹿しさに、思わす夜空を仰ぎ見て……
心臓が口から飛び出た。
いや、飛び出るほどびっくりした。
校歌を彫った碑の上から、誰かの首がのぞき込んでいた。
暗くてすぐにはわからなかったのだけれど……
「こんなところでなにしてるの?」
その声は涼菜だった。
◆
「黒江くんの姿が見えたから」
さらり、と涼菜は言ってみせた。
言って、今は視力も人並みだよ、と笑う。
潤と涼菜は、住宅地を見下ろす坂を歩いていた。
この学校のある高台から見える家々の中に、潤と涼菜の家はある。
高いところから見下ろすと、西の空はまだほんのりと、赤い夕日の名残に染まっていた。そのわずかな今日の名残が涼菜の横顔を照らし、輪郭を浮き上がらせる。
改めて見ると、やはり涼菜はとても綺麗な顔をしていた。
いや、綺麗な姿をしていた。
薄いピンク色の唇も、練習で日に灼けているはずなのになお白いうなじも、目に入れば女の子を意識せずにはいられなくなってしまう。
それに……中学までは眼鏡をしていたからだろうか? 今まで気がつかなかったが、涼菜の目は少し上がり気味の……つり目ってやつなのだ。それが感情一つで目尻が上がったり下がったりして、とても表情豊かに見える。
肩口よりも少し伸ばした髪は、日焼けとは無縁なくらい艶やかで。部活帰りという理由で無造作に結ばれた毛先が、歩くのにつれてぴょこぴょこと揺れている。
……そういえば、いつの間に髪の毛がこんなにも伸びていたのだろう?
……ああ、小さい小さいと思っていたけど、意外と背が高いんだ。
あれも、これも……数年ぶりに隣に並んだ幼なじみは、全てが新鮮だった。
こんなに魅力的なのに、なんで今まで気がつかなかったのだろう……
と、その綺麗な顔が、じっと涼菜を見ていた潤の方を向いた。
そして、ちょっとむっとした顔をして、再び口を開いた。
「聞いてる?」
「あ、ごめん、ほかのこと考えてた」
「もう……だからぁ」
涼菜がわざとらしく頬を膨らませて、抗議。
「黒江くんの姿が見えたから、理恵たちに先に帰ってもらって、こうしてこのわたしが一緒に帰ってあげてるって言ってるの」
「えと……」
嬉しかった。
なんとも自信満々な物言いだが、それも、今の涼菜には似合っていると感じる。
しかし、よくもまあ、あの暗闇の中で潤を特定できたものだと思う。これはもしかして幼なじみパワーという奴だろうか?
ただ、それはそれとして、嬉しいのとは別に、潤は軽く落ち込んでもいた。
小さな頃から潤のことを「潤ちゃん、潤ちゃん」と慕ってついてきた涼菜。それが、久しぶりに話す涼菜は潤のことを「黒江くん」と呼ぶ。
これが、今のふたりの心の距離で、そして現実なのだ。
「ひとの話聞く気ないわけ?」
ふたたび、自分の考えに浸っていた潤をとがめる涼菜。
「ごめん、なんの話だっけ?」
いけないいけない。こんなことでポイントを落としていては、涼菜と彼氏彼女になるのが無理なのはもちろんだけど、幼なじみとしての関係を保つどころか、取り戻すことだってできやしない。
「だからね、黒江くんって今、好きな人っているの?」
「は?」
ジャブですらない。いきなりの核心をついたストレートに、びっくりする前に間抜けな返事をしてしまう潤。
幸い、涼菜のことが好きだ……というか、この半年で垢抜けたので好きになった、なんていう最低な本心は気づかれていない様子ではあるけれど。
「最近黒江くん、水泳部の練習を見てるでしょ? それで由香里が、あれはきっと自分のこと見てるんだって思ってるの。平たく言うと、黒江くんのことが好きになっちゃったんだって……恋する女の子は目が曇るって言うけど……ねえ聞いてる?」
「あ、ああ、なに?」
「どうしちゃったの、いつもあんまりやる気のあるタイプでもないけど、今日の黒江くん変だよ」
「いや、別にそういうわけじゃ……今日はびっくりすることが多すぎてさ……で、由香里って加藤のこと?」
「うん」
「あ~」
言葉に詰まる潤。
加藤由香里は、隣の市から通っている、涼菜と同じ水泳部の女の子だ。
潤も中学校の頃、三校合同文化祭実行委員で仲間だったから、今でも時々話しはするのだが。
しかし。
確かに、最近の潤は水泳部の練習をよく眺めている。でもそれは、涼菜がいるから見ているのであって、断じて加藤由香里を見ているわけじゃないのだ。
加藤はそれなりに……いや結構好みだが、潤の本命はあくまで涼菜だから。
「あのなぁ」
人差し指でぼんのくぼ辺りをポリポリ、と掻く潤。
時分勝手なこと極まりないが、自分の気持ちを涼菜に悟られたくないくせに、涼菜のことを、鈍いんだよなぁ……などと思ってしまう。
「でもさ、じゃあ黒江くんも好きな人がいるわけじゃないんだよね?」
「ん、ああ、まぁ、あ、いや……」
「じゃあさ、由香里とつきあってみるっていうのはどうかな?」
「なんで?」
「だってさ、由香里も黒江くんもフリーでしょ? だったらつがい……じゃなくて恋人としてはとってもお似合いかと……」
「あのな……」
潤は、まず涼菜がそれを言うことにがっかりして、それから徐々にムッとしてくる自分に気付いていた。
だって、潤は涼菜が好きなのに、当の涼菜は平気な顔をして『別の女の子と付き合え』と言うのだ。
人の気も知らないで。ってやつだ。
もちろん逆恨みであることもわかっているので、なるべく顔に出さないようにする。
……のだが。
「ほら、気づいてないかも知れないけど、黒江くんそれなりだし……由香里もかわいいからきっとみんなの話題に……」
「あのなぁ……」
涼菜の勝手な言いぐさに……いや、これはあくまで潤の視点なのだが……ついに潤の堪忍袋の尾がプチっと切れた。
「勝手なことばっかり言ってるなよ! だいたい、僕が好きなのは加藤じゃなくて、涼菜、お前なの!」
「え……」
時間が止まった。
そして……