7 化外の夜に妖狐は……
雨脚は、また強くなってきていた。
「どういうこと? なにが起きてるの?」
アスファルトの上を川のようになって流れる雨水を蹴り、涼菜は走る。
寝間着にしているTシャツに学校指定のジャージのズボンという、およそ外出着とは言いがたい服装で、涼菜は街灯の光すら雨に煙る、夜の街路を疾走する。
狐……戌神である涼菜の、人よりも数倍鋭敏な感覚が異常をとらえたのは、潤との電話を終えてしばらくしてからのことだった。
潤が由香里の家から帰ってきたらなにを話そうか、とか、紅茶の美味しい淹れ方とか、明日はなにをしてすごそうかとか……先の予定についてあれこれ考えていた涼菜だったが、気配を感じた後、即座に家を出て夜の路上に飛び出したのだった。
もちろん母……涼菜の母、深智子にもなにも告げてはいない。
『母』を心配させることは本意ではないし、『涼菜』の大事な家族を巻き込むのはもってのほかだ。
雨は、追跡する者には邪魔以外の何物でもない。
足跡が消える、匂いが消える、音が消える。
追跡者が並の化外よりも格上の涼菜でもなければ、彼らがテリトリーへ侵入していることすら気付くこともなく、気付いたとしても見失っていたはずだった。
「『大妖』を嘗めないでほしいのだけど」
人目がないことを確認し、地を蹴り、塀を蹴り、屋根を蹴る。
小柄な少女の身体はしなやかに、発条のように撥ね、電柱を二歩で駆け上がる。
電柱の天辺につま先立った涼菜は、目をこらして、街を睥睨した。
じっと、獲物を待つように、しんと、一歩も動くことなく。
もし、今の彼女の目を見ることができたなら、瞳孔がまるで猫のように……いや、狐のように縦に絞られていることに気がついたはずだった。
「いた……」
ひとつではない。
とはいえ『化外』の存在そのものは、人里でもさして珍しいものではない。人に害を為さない小規模な者や、人と対立する意志のない者ならば、こうして複数が感覚の網にかかることもよくある話だ。
ゆえに、ターゲットは絞られる。
悪意をもって害意を振るおうとする化外や、本能のままに獲物を探す化外は、その気配の動きでわかるのだ。
「遠いテリトリーからやってきた、ただの旅行者の可能性は……ないか。最後に狩りをしてから、たった半年でこうも縄張りに入り込まれる……どうにも嘗められたもの」
つぶやく。
『涼菜』を最後の戦いで失った後、涼菜……つまり子狐スズナは、テリトリーの安全を守るために、短期間で領域内と周辺の化外を狩り尽くしていた。
涼菜に『定め』られていた涼菜が残りの力を振るえる間に、ここには『大妖』たる白狐が棲み、ここはその狩り場であると喧伝することで、涼菜の大切な人……すなわち潤の住む領域の、この街の安全を確保しようと図ったのだった。
その試みは、上手く行っていた。
時折迷い込む者はあれど、以前のように『化外』が悪意を持って害を為すということはなくなり、この半年は間違いなく平和に過ぎていたのだった。
(それが、ここに来てゆらぐ……)
ありえないとは言わないが、命知らずと言って良かった。
もちろん、今の涼菜は人の手により『定め』られてはいないがゆえに、『涼菜』と共に戦っていた頃よりも確実に弱くなってはいた。しかし、いくら定められてはいなくとも、『燐火』を操する白狐の一族を相手取って戦おうなどと、力持つ化外であればあるほど考えることはないだろうし、思い立っても実行に移そうなどとはしないはずなのだ。
もちろん、昨日の狼のような命知らずもいるが、それはあくまでイレギュラーのはず。
「違うか……イレギュラーも三日続けば例外たり得ない、そう考えるべき、涼菜ならそう言うね」
本物の涼菜ならそう考えるだろうと判断して、涼菜は意識を強く持つ。
目標をひとつに絞り、電柱の天辺を蹴って、民家のすき間の狭い路地に降り立った。
路上に拡がる水面を蹴る。
ひときわ大きな水音をさせて一歩目を踏み出し、夜の街灯の下に身を躍らせ、駆ける。
一瞬で路地を一つ通り抜け、次の角を減速することなく疾走する。
踏み出した先が地面でも壁でも構うことなく足を運び、降る雨のすき間すら縫うのではという速さで、街を駆け抜けていく。
シャツの裾から、尾が姿を現す。
白い炎の毛に覆われたボリュームのある尾が、アクロバティックに街を駆け抜けていく涼菜の身体のバランスをとる。
疾駆は、ものの十数秒。
乗り物であっても追いつけない速度で目標に迫り、家三件をひと跳びでナナメに飛び越えて、上空から人通りの無い通りへ躍り込む。
躍り込みざま、爪を立てた。
アオォォォォォォン!
と、夜空に苦鳴が反響する。
身長百五十九cmの涼菜、その倍はある巨大な狼が、今の一撃で地に転がり、全身を白い炎に燃え立たせていた。
涼菜の手には、白い炎に包まれ、むしり、もぎ取られた肉片が燃えている。白い炎の尾と同じ色に燃える両の手のそれを、涼菜は道に放り捨てた。
直後、放り投げた肉も血も、掌に残っていた毛すらもが、白く燃える炎に消える。
巨狼は、雨の中にあってなお満月の光を思わせる白炎に包まれたまま、地面に身体をなすりつけて、それを消そうともがき、あがく。
暴れ回り、火を消そうとするが、全身を焦がすのは大妖白狐の超常だ。
ただ暴れ回るだけで消せるものではない。
巨狼は苦悶の声で訴える。
「■■様……慈悲を……」
発せられた名前にかぶせるように、涼菜は甲高く鳴き声をかぶせる。
人の声帯で発することのできないはずの獣の声が人の口から発せられるのは、いかにも奇妙で奇怪だった。
狐の尾を闇夜に輝かせ、涼菜は言う。
「名を呼ぶな下郎め。ここは人里の真ん中。おまえのように身体の大きな犬神が、殺意を隠すこともなく、まして巨体を隠すこともなく徘徊して良い場所ではないとわかっているはず」
雨に濡れた黒髪をかき上げる。
威嚇の意味を込め、黄金色の右目と青銀色の左目を見せつけるように、睥睨する。
針のごとき瞳孔で、魂を射殺す。
「いつからここを自らの庭だと、心得を違えるまでに増長した?」
白炎に包まれたまま、巨狼はその威圧に屈し、膝を折った。
涼菜が目を細めて指をひとつ鳴らすと、遊園地の時と同じように、炎は綿のごとく宙に散って消えた。
全身を焼かれた狼は、地にひれ伏した姿勢のままに、その慈悲に頭を垂れる。
「お心遣い、感謝します……」
「それはいい。傲慢の理由を訊いている」
びくり、と、熱持たぬ炎に焼かれた黒い巨浪の背が震える。
涼菜に問われてなお、背を震わせ躊躇する、そのような大妖が、彼らの背後にいるということか、それとも?
「一昨日に一匹、昨日に一匹。自ら接触をはかる物知らずがこれで二匹、そして今夜もこれ。よもや、貴様まで蒙昧とは言うまい?」
「……お許しを」
話す気は、ない、と。
ならば。潤のため、深智子のため、ちなつのため、由香里のため……『涼菜』が大切にするすべてのためにもこの巨狼は消すほかあるまい、と、そう涼菜が判断したそのときだった。
「久しゅうございます」
闇の中から、何物かが歩み出てくる。
夏の最中にも関わらず、ビジネススーツに身を包んだ青年だった。
潤よりも拳二つ分は背の高いその青年は、胸元のネクタイのわずかな緩みを締め直し、伊達なのであろう眼鏡の硝子越しに目を伏せ、雨の中に膝を折った。
なるほどと、涼菜は鼻を鳴らす。
この男は狼……おそらくは、この街に増えている狼たちを統括する化外だった。