6 記憶の中の涼菜は……
由香里の家で寝息をたてていたのは、間違いなく涼菜だった。
目にした瞬間、小さく彼女の名前をつぶやいてしまうくらいに、それは潤の涼菜の姿をしていたのだ。
「いや、でも」
「そんなはずないって、思うよね」
由香里が言い、潤もうなずく。
騒ぎ出さずに済んだのは、この光景があまりに不自然だったからだ。
だって、美濃守家の玄関でいってらっしゃい、と手を振って送り出してくれた、すこしだけ心細そうな顔をしていた女の子が、こんなところで寝ているわけがないのだから。
やや思案して、ポケットからスマホを取り出した。
「加藤、ちょっと待ってて」
言って、その場で涼菜に電話をかける。
あわてた由香里が潤のすることを止めようとするが、「大丈夫、言わない」と、手で彼女を制した。
『潤ちゃん?』
ほんの数秒で、涼菜は電話口に出た。
「今ついた。タオル借りて身体を拭かせてもらったよ」
『うん、よかった。あったかくさせてもらってね。夏だけど、冷やすと風邪引いちゃうから』
「そうさせてもらうよ」
「紅茶、淹れてあげたいけど帰ってきてからね」
「楽しみにしてる。そういえばさ、涼菜って加藤の家来たことあるんだよね、一人暮らしとか聞いてなかったよ」
『そうだったっけ』
「初耳、びっくりした」
『広くて独り占め、ウラヤマシイよね』
「だね」
『潤ちゃん。由香里と、ゆっくり、ちゃんとお話ししてね』
「ああ、遅くならないうちに帰るから」
『うん、帰り道、危ないから気をつけてね。じゃあ、邪魔者は消えるねー』
いたずらっぽい言い方でそう言うと、涼菜は通話を切った。
これではっきりした。つまり、ここにいる涼菜と向こうにいる涼菜は別人だ。
「芝居じゃない、ってことかぁ」
「うん。だから黒江くんにしか相談できなくて。まさか涼菜に会わせるわけにもいかないし、本当にどうしたらいいかわからなくて……」
「そうなるよなぁ」
それには納得するものの、相談されたって、潤だってどうしていいのかわからない。
だって、好きな女の子が……彼女……恋人? が二人に分裂しているのだから。
もちろん分裂しているというよりも、二人いる、の方が正しいというのはわかるけれど、どっちも本物に見える以上は、潤としては分裂したと認識する方が感覚的に納得しやすいのだった。
「黒江くん、涼菜を見ててくれる?」
由香里は、それだけを言ってリビングを後にした。
電話からこちら、呼び方が「黒江くん」なのは、あまりなれなれしくしないようにという、彼女なりの気遣いなのだろうが……潤としては、いつも通り黒江と呼んでくれた方が気楽で良いのに、と思わないでもない。
ともあれ、今は涼菜だ。
ふたりきりになった部屋で、潤は涼菜……にそっくりな女の子の正面側に回って、その脇に腰を下ろす。
見れば見るほど、寝顔は涼菜の物だった。
下唇の左端、小さく残る傷は、小学校2年のときに、近所の子供たちと遊んでいてつけた怪我の痕だった。
髪が伸び放題なこと、日焼けをしていないこと、顔色が悪いこと、目の下に隈が見えること。そんな違いはあるけれど、彼女は間違いなく涼菜に見える。
いや、むしろ潤の知る涼菜は、今の快活になって綺麗になった涼菜よりも、この、薄幸そうで放っておけない感じのする涼菜に近い。
……気がする。
「涼菜……」
もう一度呟いて、不安になる。
潤は、目の前の涼菜が本当に生きているのかを確かめたくなって、彼女の顔の前に手をかざしてみた。
指先がわずかに息を感じる。
呼吸に合わせて、布団もかすかに上下しているのを確認して、ほっと息を吐いた。
「お待たせ」
由香里が再びリビングに顔を出したのは、それから少し後だった。
「黒江くん、晩ご飯まだだよね」
「そうだけど」
「あり合わせだけど用意したから、食べながら話そう」
うなずいて、リビングを後にする。
電気を消す直前に見た後ろ姿は、やはり涼菜に見えた。
◆
ダイニングの机には、あり合わせにしては立派な夕食が二人分、並べられていた。
茶碗のごはんと海苔の吸い物の香り。生野菜盛り盛りの皿に置かれた、やたらと大きなハンバーグがメインディッシュだ。
「マッシュポテト、作り置きだから冷たくて、ごめんなさい。それから、黒江くんの席はそっちね」
指さされたのは、由香里の対面ではなく、九十度側面右側の席だった。
椅子を引いて、腰かける。
「すごいな、こんなのすぐにできるんだ」
「まさか」
由香里は苦笑する。
「食事は作り置きしてるの、ハンバーグは、本当は明日のわたしの分」
「……悪い」
「そこは察してよ」
「?」
「……って、涼菜なら言うと思う。手料理食べてもらう機会なんてないんだから、作り置きがあって良かったって、こっちは思ってるのに」
誰に、とは言わない。
そんなの、好きな男の子に、に決まっている。
「……いただきます」
「どうぞ」
「……」
「ハンバーグ、大きいって思ってるでしょ」
図星だった。由香里の言うとおり、たぶん普通サイズの倍くらいに見える。
「水泳でカロリー使うから、これくらいないとやってられなくて。食べきれなくて余ったらお弁当に入れたりもするけど」
「小食よりは良いと思うけど」
「でしょ。わたしもいただきます」
言って、由香里は吸い物に口をつけた。
そこからはふたり、「おいしい」「ありがとう」以外、無言で食を進めていく。
そうして、改めて由香里が話を切り出したのは、潤がおかわりをお願いしてからだった。
「間違いないでしょ?」
「うん、僕にも涼菜にしか見えない」
最初は、そんな確認だ。
それから潤は、自分の唇の端を指さして。
「ここの傷……間違いなく涼菜だよ。あれ、小学校のとき、近所の家が解体されてさ、次の家が建つまで半年くらい空き地になってたんだよな。そこにふたりで入ったときに、つけた傷だから……怪我は大きくなかったけど顔じゃん。血まみれでさ、僕、涼菜の全部を壊したような気がして。それからしばらく、どこに行くにも涼菜の手を離さなくて。母さんに『涼菜ちゃん離れしなさい』って言われるまで、ずっとそんなだったんだ」
だから……
「今でも憶えてる。間違いない」
「その傷、向こうの涼菜には?」
「あった。今日ずっと、図書館で正面から見てたから、憶えてる」
「そう、なんだ」
潤と涼菜の過去を知るのが辛いのか、それとも、ふたりが付き合っているという事実を再確認するハメになったのが苦しいのか、由香里は、やや寂しそうな表情を浮かべる。
「じゃあ黒江……くんにも、ふたりはふたりとも涼菜に見えるんだ」
「そうとしか見えない、って感じかな」
「あのね……」
由香里は、言い辛そうに言いよどみ、それから箸を置いた。
「こっちの涼菜なんだけれど、最近の記憶がないみたいなの」
「記憶?」
「わたしのことを憶えていないし、わたしたちが同じ高校に入ったことも、黒江くんが隣のクラスにいることも知らないみたい」
「どこから?」
いつからの記憶がないというのか。
「わからない。ごめん。涼菜、すぐに寝ちゃったから。でも、黒江くんが文化祭の実行委員をやってたことは知ってるみたい」
そうなのか、と肩を落とす潤。
最近の記憶がない、というのはとても重大な話だけれど、だからといって、それがなにかの手がかりになるわけでもない。
「なんか、ほかには?」
「日焼けの跡がないし、水泳部で鍛えてる感じでもなかった。あと、お尻のほくろは同じ場所にあったね」
「お尻って、そ、そうか……」
「……黒江くん?」
「ごめ……ちょっとはずかしくなっただけだから」
「ああ、そういう……ごめんね、男の子にする話じゃないけど、今はね」
言いながら、由香里の耳も真っ赤だった。
「うん。で、これからどうするかだけどさ……」
「足の裏とか手、見た?」
「いや、見てないけど」
由香里は、「そりゃ、そうだよね」と呟きながら、スマホを取り出した。
彼女は、フォトアルバムのアプリをを立ち上げて、潤に何枚かを見せる。
写真は、包帯が巻かれた彼女の手足だった。傷そのものではないけれど、まだらに血がにじんでいるのが痛々しい。
「手と足、傷だらけなの。拾ったとき、裸足だった」
「裸足って……医者に見せるべきなんじゃ……それか涼菜の家に……は無理か」
「どっちもやめてほしいって、涼菜が」
「……どうしろっていうんだよ……」
途方に暮れざるをえない。
アレもわからないコレもダメ、なるほど、由香里が潤に頼りたくもなるわけだ。
できることは限られている。
簡単なのは、涼菜が目覚めてからじっくりと話を聞くことなのだろうが、なんとなく、結局アレはダメコレもダメで、まるで解決にはならない可能性のほうが高いような気がする。
「いや……そうじゃなくて、なにができるのか、で考えるからダメなのかな」
「どういうこと?」
「なにをするべきか、で考えるべきなんじゃないかなって。ねえ加藤、涼菜の怪我ってヒドイの?」
「皮が剥けてて、両脚とも、何針か縫わなくちゃいけないと思う。正直こわくて……二度は見たくない。わたし、医者や看護師にはなれそうもない」
「……無理にでも、一刻も早く病院に連れて行くべきだね」
「うん、そう思う。さっきは涼菜が嫌がって、わたしひとりじゃ無理だったけど、今は黒江くんがいるから」
「わかった……って、ちょっと待って、裸足? 靴は履いてなかったの?」
「うん。そういえば……あの、涼菜が着てた服があるの。これ……」
由香里が、潤の対面の椅子にたたんで置いてあった衣類を手にして、潤に差し出した。
食卓の料理に触れないように受け取り、由香里と二人でそれを眺める。
「わかる?」
問われて、潤は首を横に振った。
薄い黄色のブラウスと、ピンク色のニットカーディガン。下は……伸縮性のあるスキニーの黒いパンツだった。どれも生地は相当に傷んでボロボロで、繊維が硬くなり始めているようだった。
「下着は捨てた。見ないよね」
「さすがに、ね」
服はどれも見たことがあるようなないような、涼菜らしいと言えばそうだけど、違うと言えばそうとも言えるものばかりだった。
ただ、潤にとっての涼菜はスカートのイメージが強くて、パンツスタイルをするようになったのは進学してからのような気がするのだが……確証はない。
ほとんど隣に住んでいるのに、どうしてきちんと彼女の事を見てこなかったのかと、今更ながらに後悔する。
と、ブラウスの胸ポケットに、ビニルの袋に閉じられた何かが入っているのを見つける。
「これは……」
「ポケットに入ってたんだけど。洗えないからキッチンロックに入れておいたの」
それは、ワッペンだった。
カエデの葉が縫い取られた手のひら大の、潤のイトコがカナダ土産に買ってきてくれたものだった。正直、当時は何に使う物かもわからなくて持て余していたのだけれど、涼菜が欲しがったので、いいよとあげたものだ。
色は褪せていたが、たしかに、潤が涼菜にあげたワッペンに違いなかった。
「……」
「どうしたの、黒江くん」
「涼菜だ」
「え? だからそれはわかって……」
「連れて行こう。起きたらすぐに病院だ。手遅れになってからじゃ意味がない」
そのときだった。
「……え? 潤ちゃん?」
不意打ちのように声がする。
振り向いて、目が合った。
ダイニングに姿を現したのは、入り口の壁を支えにして立つ涼菜だった。
彼女は、戸惑いに満ちた表情で二人の顔を交互に見て、やがて、困惑もあらわに疑問を口にした。
「ここは……どこ、ですか?」
……と。