3 雨に打たれ少女は……
雨が降っていた。
土砂降りだった。水の入った桶を片端からひっくり返したとしか思えない激しい雨が、拷問のように少女の体をたたいていた。
少女はひどい有様だった。
長く伸びた髪はぼさぼさにからみ、雨でべったりと頬にはり付いている。
本来なら可憐なのだろうその顔は、何度も転んだのだろう……なすりつけたように土に汚れていた。
いや、汚れているのはなにも顔だけではない。
明るい色だったとおぼしき装いは、元もわからないほどに色を変え、まるでボロ布を身体にまとわりつかせているだけのようだった。
むしろ、土砂降りの雨が彼女を洗ってくれるように見えてしまうくらいに彼女は汚れ、傷ついていたのだった。
いったい、いつから歩き続けているのか。
細く痩せた足にはなにも履いておらず、素足は血にまみれ、一歩を踏み出すごとに、ずるり、という耳障りな音がする。
だが少女は痛みなど感じていないように、自分の身体をいたわることすらなく、足を引きずりながら、ただ前を目指していた。
足下がよろけ、少女がバランスを崩す。
硬い音がして、ブロック塀に肩をぶつける。少女は、力無く壁にもたれかかったまま、それでも前へ、前へと進んでいた。
雨はやむことなく降り続いている。
アスファルトに叩きつける雨で、誰の視界も煙っていた。
まばらに通りかかる人々の足も家路を急ぎ、少女に気を止める者はない。
よしんば気になったとしても横目で見るのが関の山で、まして呼び止めたり優しい言葉をかける余裕のある者など、ひとりもいなかった。
世界の中で 誰の目も彼女を映しはしない。
彼女は一人だった。
同じように、彼女の目も、誰も映してはいなかったのだけれど。
◆
ラーメン屋に向かう途中で降り出した真夏の雨は、もうほとんど滝だった。
「今の人……」
「人?」
「うん、そこに……」
突然降り出した大雨を避けて、潤と涼菜は、紅茶屋の軒先に飛び込んだ。
茶葉を売る専門店と、経営者の同じ喫茶店が軒を並べた小さなお店だった。
販売店舗の入り口にかかったひさしの下に待避した潤は、傘をたたみながら、涼菜が指さす先へ目をこらすものの、ひさしから流れ落ちる水のカーテンに視線を遮られてしまい、まともに風景も見えはしない。
「知ってる人?」
「そうじゃなくて。傘もさしてなくて、裸足だった気がするんだけど」
涼菜は心配そうに眉根を寄せる。
「どこだろ」
問いながら周囲を見回すが、それらしい人影は、さっと目に入らない。
雨の中に身を乗り出して、もっとよく確認しようかとしたそのとき、紅茶屋の中から店員のおばさんが姿を現した。
「お客様、よろしいでしょうか?」
「ごめんなさい!」
とっさに謝ったのは涼菜だった。
女性店員は、手にビニールのシートを持っていた。
車がはねた水がかかったりして商品が濡れないように、軒先の商品にかけるための覆いだ。
邪魔をしてはいけないと端により、どうしようかとふたり顔を見合わせる。
「ラーメン屋まで結構あるしなぁ……」
「潤ちゃん、わたし紅茶飲みたい、あったかいの」
「そうしようか」
額にはりついた髪の毛をよけてあげながら、潤も涼菜に同意する。
「濡れてますけど、いいですか?」
「あ、タオル持ってきますね」
手早く商品に覆いをかけた店員は、そう言ってお店の奥へと引っ込む。
どこまでも親切すぎて、潤と涼菜は恐縮することしきりだ。
◆
店内はクーラーが効きすぎて寒いくらいだったけれど、その分紅茶が身体にしみる。
「よかったー」
鞄の中の教科書とノートが無事であることを確認した涼菜が、潤の正面でほっと息を吐いた。
「潤ちゃんは?」
「濡れたのは参考書だけだから。教科書は無事」
「よかったねー。濡れてべこべこになった教科書で授業なんて冗談じゃないよね」
「充分に、勉強嫌いになれるよなー」
紅茶を口にふくむ。
「……『なんだろうこれ、紅茶ってこんなに美味かった?』っていう顔してるね」
「なんでわかるわけ? 超能力者か?」
「わたしも同じだから」
正直なところ、潤は茶葉にまったくもって詳しくない。メニューに並んだ知らない名前の茶葉の中から、『スタンダード!』と書かれたニルギリとかいう紅茶を選んで、ストレートで飲んでいるのだけれど、これがまたものすごくオイシイのだった。
「淹れ方なのかな?」
「そうじゃないかな?」
紅茶音痴が、ふたりでうーんと腕を組む。
「茶葉、すこしだけ買って帰ろうよ」
「淹れてくれる?」
「うん!」
嬉しそうに、うなずく。
「潤ちゃんね、これで涼菜の家に行く合法的な理由ができたな……っていう顔してるよ」
「……超能力者かよ」
「わたしも同じだから」
えへへ、と涼菜は笑った。
その拍子に、彼女のまだ湿り気を帯びた髪が、はらりと額に降りる。
いつもはアップにしているのを下ろしているだけでなく、濡れているせいもあって、髪はボリューム感を失って頭に張り付いていた。
(頭、小さいんだ……)
シャツも湿っているので肩口のラインが際立って、余計に華奢さが目立つ。
水着姿の時にはそんなに考えもしなかったけれど、目の前の涼菜が女の子なんだと、そう気がついてしまう。
なので。
身を乗り出して、お店に借りているバスタオルを涼菜の肩にかけた。
「なに?」
「寒いだろ」
それもあるけれど、湿ったワイシャツ姿の涼菜を他の誰かに見せたくない、というのが本音だった。
「ありがと、やさしいね」
「そんなんじゃないって」
なんとなく、会話がとだえてしまう。
しばらくして、涼菜がぽそりとつぶやいた。
「これは、ヤバいなぁ……」
「ヤバイか?」
「うん、ヤバい……幸せすぎて、ヤバイよ」
なるほど、そういう意味ならば。
「うん、僕もそう思う」
◆
雨脚が弱くなってきたのを見計らって、加藤由香里はバス停の雨よけから飛び出した。
もちろん、さっきまでほどの土砂降りではないといっても、大雨には違いない。
真上にはまだ分厚い雲がたれ込めていて、周囲は薄暗い。
行き交う車は一様にヘッドライトをつけているし、センサーで点灯する街灯にも、明かりが灯っていた。
ゲリラ豪雨だろうからすぐに終わるだろうと思っていたのだが、降り止む気配は無い。
市営グラウンドの金網の向こうにもけぶる空は続いていて、厚い雲に切れ間は見えない、と、そんな状態だった。
スマホに入れてある天気アプリを立ち上げてみれば、雨は明日の朝まで続くという予報を見ることができたのだが、残念ながら由香里はそこまで頭が回っていなかった。
「ついてない……な」
フラれた翌日ではあったけれど、気分を変えないとどこまでも落ち込んでしまうからと、無理矢理に出てきた部活だった。
当の涼菜はやっぱり練習に来ていなかったので、そこはすこしだけ気も楽だったけれど、同時に、プールから見上げた補講の教室にも潤の姿は無くて。
それだけで、ふたりは今日もいっしょにいるのだろうと想像できてしまうことが辛くて。
余計に落ち込んでしまって、だから練習を早退して帰路についた。
その結果が、この土砂降りだった。
潤にふられて、雨にふられて……もう、なにを呪えば良いのかすらわからない。
「なんでっ!」
叫んで、水着の入ったスポーツバッグを脇の茂みに放り投げる。
がさ、と、夏草の茂みをかすめたバッグは、市営グラウンドの金網にぶつかって落ちた。
大雨の音に紛れてしまい思ったほど音は響かなかったけれど、その音で由香里は我に返ってしまった。
自己嫌悪に頭を抱える。
多分、小学校の反抗期以来、物に当たったのは、はじめてだった。
胸の中がぐるぐると落ち着かなくて、情けない。やり場の無い思いを抱えて、由香里は、濡れた茂みの中に足を踏み入れた。
そこに、落ちていた。
カバンでは無い。
人が……
女の子が……
いや、違う。
由香里のよく知る女の子が、泥まみれの姿で、落ちていたのだった。