7 未来のため捨てるべきもの
どのくらい、どんな道を走ったのだろう。
ゲートを抜け、電車に乗ったところまでは覚えている。
気が付いたら近所の公園にいた。いつのまに時間が流れたのか、目に入るのは青と濃紺、そして朱に染まった地平。夕闇が迫る黄昏時だった。
公園の古びた遊具、寝かせてある、色のはげたコンクリートの土管の中に身をひそませ、膝をかかえて……涼菜は、三角形に開いた窓から、沈んでいく夕陽を見つめていた。
ああ、と思う。
わたしはもう、白狐たりえていないのだ、と気づく。
わたしが昔のままのわたしなら、「公園」になど来るはずがなかった。電車に乗って逃げることなどなく、駆けて、野へ、山へと行方をくらましていたはずだ。
「これじゃ、まるで人間だよ……」
たった半年で染みついてしまった、人という汚れ。
「だんだん人間になっていくわたしがいるのに、わたしは涼菜になれない……」
狐である自分を捨てたのに……
「まだ、捨て足りないの? 涼菜ぁ……わたし、まだ捨てなくちゃいけないのかな……」
思い出すのは、雨の中で涼菜に拾われた自分。抱かれ、運ばれて、潤に看病してもらった一晩。それから涼菜と共にすごした2年。
まだ覚えている。すり寄せあった涼菜の頬の感触、抱かれた胸の暖かさ、寝息を髭に感じながら眠った幸せな日々。
そんな日々を糧にして、涼菜の姿になって生きると決めた。だからもう、寂しさは払拭されたと思っていた。
「でも、そんなの嘘だってわかってたじゃん……だってさ……涼菜のベッドはひとりじゃ広すぎるよ……」
齢二百を数えても、子ギツネは子ギツネだった。十二歳の涼菜のほうがお姉さんだった。
でも、もう優しかったお姉さんはいない、涼菜の命は永遠に失われた。
涼菜の姿をした子狐は、思い出す。
化外……人外の妖物と戦うなんて、そんなの怖いはずなのに、いっしょに戦うことを選んでくれた女の子のことを。
変わっていないようで、涼菜という少女は、ゆっくりと強くなっていった。共に戦う子狐は、人間の生きる力、成長する心をすばらしいと思った。
それを気づかせてくれた涼菜だから、失ってはいけないと思ったから、子狐は、妖物の世界を捨てて、子狐であることを捨てて、涼菜の人生を続けようとしたのだ。
でも、それは自己満足でしかなかった。
涼菜の望んだ幸せを手に入れて、気づいてしまった。
(わたしは……潤くんが好きだ)
涼菜じゃなくって、わたしが、潤くんと幸せになりたいと思っている。
涼菜じゃなくて、わたしが……
許されるわけない。絶対に許されるわけなんてない。
こんなの、涼菜が許さない。
「やっぱりここだった」
涼菜が……涼菜の姿をした子ギツネが肩をふるわせる。
まさか、これは潤の声?
幻聴だろうか、振り向くのがこわい。
「涼菜、みんな探してたよ。加藤なんか、わたしのせいだって泣いてた」
よっこいしょ、と声がして、潤が土管に身をすべりこませてきた。中腰で近づいてきて、すぐ脇に腰を降ろす。
「泣いてたの?」
伏せた顔をのぞき込んで、潤は、心配そうに聞いてくる。
罪悪感が涼菜の身体を包み込む。
優しい言葉が嬉しい。喜んじゃいけないはずなのに、嬉しい。
それは絶望に似た感覚だった。
潤の優しさを喜んでいいのは、本物の涼菜だけのはずなのに。わたしは涼菜のために喜んであげなくちゃいけないのに。なのに、わたしにかけられた言葉を嬉しいと思っているわたしがいる……
だめなのに……
「聞いたよ、ぜんぶ」
潤が静かに言う。
「加藤には、ごめんって言った」
「うん…… え……?」
「加藤の気持ちは嬉しかったけど、僕は涼菜が好きだから」
涙がこぼれ出す。嗚咽がのどをふるわせる。
泣いちゃいけないのに、こんなに嬉しくて泣くなんていけないのに……泣いていいのは本物の涼菜だけなのに。
頭が、胸が、心が、ごちゃごちゃになる。
罪悪感と後悔と絶望に、嬉しい、なんていう気持ちが侵入してきて、自分が何を考えているのかすらわからなくなってしまう。
「僕が好きなのは、涼菜だから」
なのに、涙がとまらない。
幸せだった。どうしたって幸せな気持ちをおさえることができなかった。
「潤ちゃん……ごめんね……ごめんね……」
「なんで涼菜が僕にあやまるのさ? 加藤の気持ちにちゃんと向き合ってあげなかったのは僕なのに」
「ちがうの……わたし、わたし……」
嗚咽になって続かない言葉。
他人の人生なのに、奪って……親友を裏切って、なのにかけられた優しい言葉を嬉しく思って。
そう、ここにいるのは涼菜じゃなくて、白狐のわたしで、潤ちゃんが好きになってくれたのは、きっとわたしになってからの涼菜で。
それを嬉しいと思ってしまっている……
(ああ、そうだったんだ……)
唐突に涼菜は答えにたどりついた。大好きだった涼菜の代わりとして生きる自分が、なさねばならないこと。そのシンプルな、たったひとつの答えにたどりついたのだった。
「潤ちゃん……わたし、わかったよ……」
「え……?」
いぶかしむ潤。しかし、涼菜は潤の顔を見つめたまま、まるで焦点のあっていない瞳で告げた。
「わたしが、なにを捨てなくちゃいけないのか、はっきりとわかったの」