6 今もまだ、わだかまるもの
涼菜は焦っていた。
当たり前のことだが、涼菜は、自分の十五年が由香里の二年より重いだなんて、これっぽっちも思っていなくて、ただ、自分なりの真剣な気持ちを話したつもりだった。
本当は言っていけないことまで口にした。
偽物のわたしじゃなくて、本物の涼菜という女の子が抱いていた思いまで口にして、大切な親友に、精一杯、謝ったつもりだった。
でも、傷つけた。
だから、傷つけた?
十五年という時間を盾にしてしまった。
時間の重さで由香里が涼菜に太刀打ちできないと知っていて、絶対に越えられない、時間の重さを盾にしてしまった。
本当に……?
本当に『してしまった』……?
本当に?
「わたし……」
わき上がってきた想いを必死で押し込め、冷たい目で涼菜を見る由香里に言う。
「わたし、そんなつもりじゃなかった! 自分のために涼菜の気持ちを利用しようなんて思ってなかった!」
自分でもなにを言っているのかわからない。
違う……わかっているはずだと思考が警鐘を鳴らす。
今、口にしているのは……これは『涼菜』の気持ちじゃない!
涼菜としてこの半年を生きてきた白キツネの子供……死んでしまった涼菜ではなく、涼菜の真似をしている子狐涼菜の気持ちだ。
愕然とする。
(わたし……自分の気持ちのために……涼菜の十五年を利用した……?)
涼菜は、気付いてはいけないことに気付いたように……
「あ……あ……」
よろり、と後ろにさがる。
逃げ出したい。
気付いてはいけない事実が、ぽろぽろとこぼれてくる。
――由香里との関係を壊したくないと思ったのは、誰?
――由香里は、誰の親友なの?
由香里は、わたしの親友であって、本物の涼菜じゃない。涼菜の代わりを生きているわたしが、わたしのために護ろうとした、わたしの人間関係だ。
――潤ちゃんを……いや、黒江潤を手放したくないのは誰?
それもわたしだ。
死んでしまった涼菜のために……その気持ちは変わらないけれど、潤を手放したくないと、自分自身が感じてしまっている。
――結局、求めようとしたのは誰の幸せ?
わたしの幸せだ。
足下が崩壊していく感覚があった。涼菜の幸せを願ったはずの自分が、誰のために、なにを為していたのかに気がついてしまった。
「あ……」
人として生きていたこの半年が、その理由が、優しかった人間の少女、涼菜と過ごした二年が欺瞞の色に塗り替えられていく。
わたしは、涼菜の時間を永遠に止めて……飽きたらず、奪った?
心の片隅にずっとかかえていた不安と疑問があふれてくる。涼菜が死んで、彼女の代わりに『涼菜』になって……彼女が望んだ幸せを手に入れようとして……
結果、涼菜が手に入れたいと望んだ全てを、奪っていた?
視界の中に、涼菜を見つめる由香里の姿がある。
でも、わからない。
由香里だということはわかるけれど、その表情がわからない。
危険だと、本能が警鐘を鳴らす。
これは人の視界ではない。
人種の違いが人の顔を見分けにくくするように、『人』というくくりでしか人を見ることのできない、涼菜として生きる今の自分にはいらないはずの、妖狐の視界だった。
その妖狐の視界の中、目の前の『メス』が、うろたえる涼菜を見つめている。
ニンゲンが冷ややかに自分を見つめている。
「やはり……真似はしきれない、ということかな」
自嘲気味に漏れる涼菜の言葉。
「ニンゲンの真似は、つらいね……」
「涼菜……?」
奇妙な物でも見るような目で、由香里というニンゲンが涼菜を……いや、ワタシを見ている。
涼菜は、この表情を知っている。
きっとこの娘は涼菜を心配している。しかし涼菜のしたことに怒っているから、彼女の心がそれを処理しきれず、露わになった表情は不審の姿をとっているのだろう。
わかりやすい。ニンゲンの感情などは所詮ロジックだ。
「涼菜、どうしたの……?」
疑問、疑惑、不安。そんな『感情』がこもった声が、由香里から聞こえてくる。狐にも同じ情動はあるが、根ざしている本能が異質だ。それを理解すれば、人の真似などは簡単だった。
前髪の隙間から、のぞき見るように由香里を見ていた涼菜は、顔を上げて直立する。
「笑う」
言って、笑う。
できる、まだわたしは涼菜の顔ができる。
問題は、わたしが涼菜として生きていくための問題は、この目の前の由香里という娘だけだ。
齢二百を数えるあいだ、どうしてわたしは生きてきたのだったか……
危険なものはどうしていたのだったか?
どう、排除してきたのだったか。
イメージする。
大丈夫、あのメスは弱い。大丈夫、覚えている、身体は動く。しなやかに、柔らかな四肢を持つ獣が、地を蹴るように……
その寸前。
「涼菜!」
背後から声。
「え?」
背中が震えた。
一瞬で我に返る。
潤の声が、涼菜をすんでの所で踏みとどまらせる。どっと、冷たい汗が噴き出していた。
(わたしはなにをしようとした?)
冷静な自分が戻ってくる。
(わたしは由香里を……どうしようとした?)
「ふたりとも、こんなところにいたんだ……牧原たちが待ってるよ、まずみんなのところに帰ろう」
声が耳に入らない。
心臓が締め付けられる。ここにはいられない。
見られたかもしれないという不安が、のしかかる。
「だいじょうぶ? 涼菜」
潤の登場で冷静になったのか、本当に心配してくれているのか、さっきまで怒っていたはずの由香里が、心配そうに、止まったままで呆然としている涼菜に歩み寄る。
由香里を殺そうとしていた涼菜に、近づいてくる。
「来ないで!」
「涼菜……!?」
「ごめん……!」
振り向き、駆け出す。潤の横を顔も見ないで通り過ぎる。
「涼菜!」
潤の声が聞こえる。いつもどおりの、涼菜を気遣う潤の声だ。
でも、立ち止まることは許されない。
『だって……わたしは潤ちゃんのやさしさを受け取る資格なんてない! 本当の涼菜じゃない!』
走りながらつぶやく。
気づきたくなかった……それは、自分は所詮違うのだという事実だった。