5 由香里の二年を支えるもの
胸の奥でゆっくりと育ててきた想いがある。
たった2年の恋。
でも、由香里には大切な2年だ。
◆
黒江潤という少年は、決して褒められた人間ではないと思う。
彼は、人の心の機微に疎くて、悪い意味でマイペースだ。
容姿は人並み、背だって高くない。勉強だって本当に優れていたら、由香里と同じ高校になんか通っているわけもない。
もっとも由香里にとっては、この高校でさえ、潤が受験すると知って無理して受けた学校だから、少なくとも由香里よりは頭が良いのだけれど……偏差値で言うなら、まあ普通だ。
スポーツは……どうだろう? 得意という話は聞かない。
じゃあ趣味は? 身体を動かすのが好きな由香里に対して、潤は徹底したインドア派でどうにも趣味が合わない。彼が仲間とゲームの話をしているのはたまに聞くけれど、好きでやっているという感じでも無い。
つまり、普通の男の子だった。
でも、好きなのだ。
理由なんて憶えていないけれど、気がついたら好きになっていたのだから仕方がない。
潤と知り合ったのは、合同文化祭実行委員の集会だった。
いつのまにか近いグループになって、いつのまにかよく顔を合わせるようになっただけの人だった。
実行委員での潤は、よく荷物を持ってくれる人、という認識だった。
楽しそうでも嫌そうでもなく、人のめんどくさがることを、文句も言わずにこなしていたのを憶えている。
唯々諾々、自分が無い、事なかれ主義、便利な使いっ走り……悪く言おうと思えばどれだけでも言えるけれど、当の本人にとってみれば、アレコレまかされることは苦でもないようだった。
最初は、損ばかりしている馬鹿な人だな、と思った。
けれど、話してみればすぐにそれは違うとわかった。ややぼんやりとしたところはあるものの、彼自身は自分を持っていないというわけでもなく、どちらかといえば、嫌なことは嫌だと言える側の人間だったのだ。
思い出す……
当時、実行委員の中で、由香里のことを悪く……正しくは酷く言った委員がいた。
合同文化祭の委員は全部で15人がいたのだが、それだけの男女がいれば色恋沙汰が起きるのは致し方の無いことで、その絡みで由香里がとばっちりを受けたのだ。
潤が助けてくれたわけではない。
むしろ彼は、起きていることにほとんど無関心な体だった。
しばらくして、由香里を責めたグループの中で、彼らの仲が徐々にギスギスし始めた。
理由は、意外なところにあった。
潤が、彼らの頼みだけを徹底的に断っていたせいだった。
それまで雑事を潤に放り投げて楽をしていた彼らは、雑用係を失って、面白楽しい作業だけをやっているわけにいかなくなり、グループの中で面倒な仕事の押し付け合いがはじまっていたのだ。
とはいえ。
決して潤が、そうなるよう仕向けたわけではないし、もちろんこれは、彼が由香里のためにしたわけでもない。
潤は、そのグループの人たちがしたことが気に食わないから頼みを断って、言うことを聞きたくないから無視を決め込んだだけのことだった。
だが、彼らはその影響をモロに被ることになった。彼らが雑事の当番を持ち回りでやるくらいのことをすれば、それだけで済む話ですらあったのに、だれもそうはしなかったからだった。
結局……
由香里を責めたグループの不協和音は、彼らの中での大喧嘩に発展し、最後には、グループの面々がバラバラに、別のグループに入れられることになってしまった。
肝心の潤は、彼らがどうなるのかなんて無関心なようだったけれど。それでも、由香里に悪口雑言をぶつけた張本人だった福本翔が潤と組まされると決まったときに、あからさまに苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたことは、今でも印象に残っている。
恥ずかしい話なのだが……当事者であるにもかかわらず、実はそのときの由香里には、実行委員の中でなにが起きているのか理解できていなかった。
むしろ、例のグループがなぜ崩壊に至ったのかを牧原に解説されて、はじめて潤の存在を認識したくらいで。
だからだろうか、彼らのグループが崩壊したことよりも、たったひとりの行動が場を大きく変えて、仲間の枠組みすらも変えてしまうという事実にこそ、驚いたのだった。
由香里が、潤の姿を目で追うようになったのはそれからだった。
そうして気がつけば、潤と牧原、そして由香里を含めた五人でよくつるむようになって、由香里はどうしようもなく潤のことを好きになってしまっていたのだ。
それから2年、潤と同じ高校に行きたくて、由香里はスポーツ推薦を蹴って猛勉強をした。元々頭の出来がよろしくない由香里だったが、合格の通知を受け取ったときには、母といっしょに小躍りして喜んだものだ。
母は、由香里が潤のそばにいたくて受験を頑張ったことを知っていたから、父の地方赴任に母がついて行くと決まったときも、由香里の一人暮らしを認めてくれた。
……がんばって、手に入れて、近づいてきた。
もしかしてと、そう夢を見た。
だからこそ、今、後ろを歩いている親友に問わなくてはいけない。
なぜ部活をサボってまで、潤と共にいるのかを。
どうして涼菜が、潤とふたりきりで、こんなところにいるのかを。
◆
どれくらい歩いただろうか、由香里と涼菜は、噴水が水を吐く浅い水場のそばに来ていた。
付近に人の姿はなく、行楽におとずれている人々の声も遠い。
もっと人がいてもよさそうなものだが、まるで人払いでもされているように、付近は静まりかえっていた。
由香里は、そんな場所で足を止める。
「由香里?」
涼菜が疑問符つきで由香里を呼ぶ。
不安そうな涼菜の声が由香里の心を萎えさせそうになったが、由香里は勇気を奮い立たせて、後ろを振り向いた。
想像していたそのままの顔で、不安に押しつぶされそうな表情で涼菜が立っていた。
なにを言われるかは、涼菜もわかっているはすだった。
でも、涼菜は黙っている。
由香里はそれを卑怯だとは思わない。自分から切り出せない涼菜を卑怯だと言い切れるほど人は強くないことくらい、由香里にもわかるから。
わかるから……
ウソだ。
わかるからって、納得なんてできない。
でなければ、こんなところに呼びだしたりするものか……
「涼菜」
今度は由香里が名前を呼んだ。
もしかしたら、彼女のことを名前で呼ぶ最後かもしれないとさえ覚悟をして。
「答えて。なにをしていたの?」
潤と、なにをしていたのか。
二択。
考えられる回答はふたつしかない。
これから彼女が……涼菜がなにを言うのか、それに由香里と涼菜の関係のすべてがかかっている。
涼菜は、まだ黙っている。
うつむいて、左手で右腕の肘をかかえて……右下の地面に視線を落としたまま……いや、目をそらしたままに。
それが答えだった。
なによりも雄弁に、その目に映る罪悪感と開き直りが、涼菜のしていること、したことを物語っていた。
「すず……」
「ごめん!」
涼菜が、がばっと頭を下げた。
「わたし! 今日、潤ちゃんとデートしてた!」
「な……」
不意打ちのような告白に、由香里は目を見開き、絶句することしかできなかった。
しかし、涼菜は由香里の戸惑いにも気付かずに話し続ける。
「わたし、潤ちゃんが好きなの! わたし、潤ちゃんのとなりにいなくちゃだめなの!」
「待って……涼菜……なに言って……? だって、昨日は応援するって言って……黒江のことは、ただの幼なじみって……」
なにをも言わせまいとするような、強い、あまりにも身勝手な涼菜の言葉に戸惑い、由香里の反発は途切れ途切れになってしまう。
嘘をついてた? 応援するって言ってたのに……?
泥棒? 卑怯者? 親友だと思っていた女の子に裏切られて、私はなんて言えばいい?
迷っている間にも、涼菜は言い訳を続ける。
「わたしがだめなの! わかってる、わかってる! 由香里が潤ちゃんのコト好きだってわかってるんだ! ワタシが卑怯だっていうのもわかってる……きっと涼菜だったらこんなの許さない、涼菜だったらこんなことしない! でもだめ! 涼菜のために、わたしが潤ちゃんのそばにいなくちゃだめなの! 譲れないの!」
涼菜は止まらず、由香里は言い返せない。
言い返したいのに、目を合わせずに話し続ける涼菜に言葉を挟めない。
「卑怯だってわかってた……! 焦ってたの……! このままじゃ潤ちゃんがどっかに行っちゃうって思った……由香里はかわいいし、綺麗だし、背が高いし、しっかりしてるし……! だから潤ちゃんはきっと本当に由香里のことを好きに違いないって……もし今は好きじゃなくても、きっと好きになるんだって……! だから……一度はあきらめたの!」
……でも、あきらめきれてないじゃない!
「だからね……あきらめようって思って。由香里がね、潤ちゃんのことを好きだって、潤ちゃんに言ったの!」
……つまり、勝手に人の心をあばいたと?
「でも……潤ちゃんは、涼菜のことを好きだって言ってくれて……」
……言ってくれて?
「迷った……すごく……由香里を裏切って、潤ちゃんの彼女になっちゃいけないって思ったけど、それは涼菜の願いじゃ無くて……! だからすぐには返事できなくて……」
でも嬉しかったんでしょ?
「でも……でも……わたしが生きてるのは、涼菜をやってるのは……このためなの」
その気持ちは、わかってしまう。だって……
「潤ちゃんが好きなの!」
わたしもきっと、わたしがあなただったら、そうしただろうから。
いや、そうしたのだろうけれど……言いたいことはわかるけれど、だからって納得できるわけじゃない。
なのに由香里は、自分の感情を大事にしたいはずのに、涼菜の気持ちがわかってしまうから声を張り上げることもできない。
「涼菜は潤ちゃんが好きなの! 涼菜の時間は、ずっと終わったままなの……水泳も、勉強も、おしゃれも、涼菜の時間を進めてくれない! 潤ちゃんをなくしたら、涼菜の十五年は終わったままになっちゃうの!」
十五年……?
由香里は、そこでやっと口を開く。
「待って……それって、涼菜が黒江を好きだった時間のこと?」
冷や水を浴びせかけられたように、由香里の背筋は冷えていた。
感情がこんなにも身体の感覚を支配するなんて、今の今まで知らなかった。
そんなことを考えている間にも、怖いくらいに気持ちだけが冷ややかになっていくのがわかる。
由香里は、問う。
ねえ涼菜……今、あなた……
「なにを言ったのか、わかってる?」
「え……」
目を閉じ、うつむいて独白を続けていた涼菜が、顔を上げる。
「あなたの十五年は、わたしの二年より重いと思ってる……?」
涼菜の瞳が、由香里を見た。
由香里の目の前に立つ涼菜は、呆然としていた。
しまったと、自分の言ったことを後悔した様子で一歩を下がる。
感情の天秤が由香里にかたむく。涼菜が怖じ気づいた分、由香里の感情が堰を切る。
「ねえ涼菜、まさかだけどさ、私たちがここに来るって知ってて、わざとやってるわけじゃないよね」
完全に言いがかりだったけれど、それでも止めることができない。
「わたしが悔しいって思うのを知ってて、見せつけに来たんじゃないよね?」
「違う……そんなことしていない」
違うのだとつぶやく涼菜が遠くなる。
心の距離が、四ヶ月かけて近づいてきた、親友という関係が音をたてて離れていくのがわかる。
いや、きっと時間は関係なくて、何年かけて積み上げてきた関係だっていっしょだ。
お互いが不信感を積み上げていくだけの会話が続く。
こうなってしまえば、後戻りなど、もうできるはずもない。
由香里の胸中に込み上げて来るのは、怒りでも後悔でもない、どこまでも空虚な喪失感だった。
小さく喉を鳴らす。
こんな乾きは、いつぶりだろう。
ああ、と気付く。
そうだった……『いつまでも子供じみたことを続けるな』と、大事な人形を父に捨てられたとき以来だ。
知っている。
帰ってこない。
こうやって失った大切なものは帰ってこないのだ。