11-5:ホーム《明かりの灯るリビングと帰りを待ってくれている人》
夜の雨の中へ飛び出す。片手にビニール傘、もう片手にリードと、つい癖でエチケット袋等々を握りしめて、フォルテに導かれるまま、水たまりを蹴散らしながら汚れるのも構わずにひた走る。人通りはまばら。車が通り過ぎるたび、ヘッドライトに照らされた雨粒が光の滴となって煌めく。なおも走る。無人の公園を通り過ぎ、橋を渡り、それから駅裏にやってきた。
その中でも居酒屋などが所狭しとひしめく路地裏に入っていく。ビールケースや電線や看板などの雑多なものが上にも下にもごちゃごちゃした場所に入り込む。
すると、雨でつい手が滑ってリードを離してしまう。慌てて追いかけて角を曲がると――。
そこには、フォルテを抱き上げる大河の姿があった。
その姿を見て郷村は思った。
(ほら、やっぱり根っからの悪人なんかじゃなかった)
大河は、傘も差さずに雨に打たれるがままになっている。郷村の姿に気づいて、すぐにフォルテを地面に下ろす。うってかわって、足で追い払うような仕草をする。
「しっし、ご主人様はあっちだ」
けれどもフォルテは離れようとはしない。雨に打たれながらでも、その足下にすり寄っている。
「どうやら気にいられちゃったらしいな」
そう言いながら郷村も近づく。
「そいつ、頑固なところがあって、こうと決めたらなかなかあきらめが悪いんだ」
郷村は、それを大河のことと思いながら言う。
大河は、それを郷村のことと思いながら聞く。
「せっかくだからそのまま散歩に連れてってやってくれないか。そしたら一応出歩く理由にはなるだろ。合法な徘徊ってやつだよ」
郷村は傘を下ろす。そうししてビニール傘とエチケット袋等々を渡そうとする。ところが、大河はすごむ。
「それ以上近寄ってくるんじゃねえ」
郷村も言われた通り足を止める。
「じゃあここに置くから取りに来てくれ」
といって地面に置こうとすると、
「断る」
「そんならしょうがない」
郷村は大河のすぐ目の前に来る。この場には建寛も〈補助員〉もいない。誰の救援も見込めない状況で大河が本気で襲いかかってきたならば、前回のような都合のいい展開は起こらないかもしれない。
(ま、そのときはそのときだろう)
相手は逃げも隠れもしない。襲っても来ない。ただ睨みつけてくるばかり。郷村は傘とエチケット袋等々を近くの電柱にたてかけた。
「それじゃ、フォルテをよろしく頼む」
そう伝えてから一歩下がる。
「聞かれちゃったかもしれないけど、俺はお前が何しようと責める気はない。ただ、怪我だけには気をつけてほしいとは思ってるんだ。何時になってもいいから、気が向いたら帰ってこいよ」
この言葉が、思いが、届くと良いなと祈りながら声を紡ぐ。
「――待ってるからさ」
それから踵を返し、立ち去ろうとすると、
「待てよ」
大河の方から呼びとめてきた。
「てめえは、なんでそこまでしやがる?」
なんだ、そんなことか、と思う。かつての自分を思い返して懐かしいような、遠いものに思いを馳せる気持ちになる。
「最近よくそれを聞かれるよ。色んなやつらから。でも別に大した理由はない。
ただ・・・俺たちきっとうまくやってけると思うんだ。それだけさ」
「仕事でもないのに、それだけの理由ってのか」
「・・・実を言うと、最初の方はもっと色んなごちゃごちゃしたことにこだわってたんだ。ものすごく個人的なことを大河に押しつけようとしてた。けど、それは間違いだって気づいた。今じゃ少し嫉妬してるくらいだよ。俺はお前みたいに強くない。自分で決めたことも満足に貫けないようなやつだからさ。・・・それはどうでもいいか」
焦ることもない。大河には大河のペースがあり、郷村には郷村のペースがある。つまり、彼らが共に歩もうとするならば、彼らのペースというものがあるのだ。ムカデ競走と似たようなもので、誰かが急に走り出せば全体の和が乱れることになる。ゆっくりだっていいのだ。たとえカタツムリのような速度でも。少しずつでも、みんなで前へ進むことができるのなら。
「まあそういうことだよ。風邪には気をつけて。じゃあな」
今度こそ郷村は去って行く。フォルテも大河の方に残っている。
そうして夜の雨の中に消えていく背中を、大河も同じ雨の中に佇みながら、じっと見送っているのだった。
* * *
明かりの灯るリビングに玄関のドアが開かれる音が響く。
ずぶ濡れの1人と1匹が帰ってくる。
「・・・・・・・」
例のクソ野郎――、いや、郷村がダイニングテーブルに突っ伏して寝息を立てている。
夜遅い時間とはいえ、まだ日付が変わる前なのだ。ただ夜だから眠たいというだけではなく、ここ最近ずっとやつれた顔をして疲れていうのが原因なのだろう。そしてその原因が自分であることも大河は知っていた。
それなのに、この男は一言もそれを口にしようとはしなかった。いくらでも責めようがあったのだ。いや、むしろ処罰されるいわれしかないはずだった。それなのに、この男は――。
食卓には、郷村用の箸だけでなく、ご丁寧に大河の用の箸もちゃんと置いてある。それからあのメガネが作った料理が並んでいる。もう湯気が立っていないところを見ると、それだけの時間待たせてしまっていたのだろう。
その後ろ姿を見ていると、大河の脳裏にはかつて母と暮らしていたころの記憶が蘇ってくるのだった。
この日のように、あてもないないのに外をぶらついて夜遅く帰ってきたときのことだった。
リビングから明かりが漏れてくる。いつも仕事で疲れはてて家事の行き届かない散らかった部屋。その真ん中、大河たちのの生活のように小さくてわびしいちゃぶ台に突っ伏して、母はいつも眠っていた。疲れているのだからちゃんと布団で眠れば良いのに、いつも寝る間を惜しんで働き、そうして結局そのままコトンと眠ってしまうのだった。
机には電卓とたくさんのレシートがある。定規で罫線を引かれたノートにびっしりと細かな数字が書き込まれている。子どもの大河にはそれらの内容は読み取れなかったが家計に余裕がないことだけは痛いほど感じ取っていた。
ふだんは顔もろくに見れない、ついぶっきらぼうに接してしまう母のやつれた寝顔を改めてよくよく見つめる。まだ若いのに、美しい顔立ちなのに、そこに刻まれた苦労ははかりしれない。年齢に見合わない白髪もちらほら見える。
それでも恨み言など、一言も言わない人だった。
彼らを置いていったという父親の分まで働いて育ててくれている母のやつれた有様を見て、なにもできなことやふだんつっぱねてしまうことの申し訳なさが急にこみあげてくる。なんだか泣き出してしまいたいような気持ちになってしまう。
大河はそっと、その細すぎる肩に毛布を掛ける。このままじゃだめだと分かっている。ちゃんと学校にも通ってさっさと楽させてやりたいとも思うのに、そうすることができない自分が歯がゆかった。
「・・・・・・?」
そのとき眠っていた母が目を覚ました。しまったと大河は思った。せっかく休んでいたのを起こしてしまったというのと、夜遅くまでふらついていたことを何か言われるかもしれないというのがあった。
「あら、おかえり。大河、また遅くまで出かけてたの」
「・・・関係ねえだろ」
母に迷惑をかけたくないと思うのに、どうしても素直になれなかった。小さかった頃は「僕がお母さんを守るから心配しないで」というようなことも言っていたはずだったのに。
「まあ元気はあるみたいね。――あ、そうだ。そんなに元気があるならクラブ活動みたいなのやってみたらいいんじゃない?あんた体力は人よりあるんだし、活躍できるよ。そうしたら友だちもできて学校も楽しくなるんじゃない?」
「あんな連中とつるむ気なんざねえよ」
もとより、この窮乏した家計にそんなお金をひねりだすだけの余裕などなかった。それくらいのことは大河とて知っていた。そんなことを、ろくに学校にも通わず心配ばかりかける穀潰しの分際で言えるはずもなかった。
「お金のことなら、心配せんでもいいんだよ。お母さん、頑張って働くから。大河はいつでも、遠慮せずに好きなことをしていいからね」
そう言って微笑みかけてくれた母の顔を、大河は今でもときどき夢に見る。
母が入院したのはそれから数ヶ月後のことだった。
もしかしたら自分がろくに帰らなかったせいで母は病気になったのだろうかと大河は考えた。自分が学校にも通わないから。友だちも作らずにふらついているから。クラブ活動でもさせてやろうとお金を作るために、母ちゃんは――。
その気持ちを振り払うように、それから大河は喧嘩にのめり込んでいった。母が褒めてくれた、その人より恵まれた体力を、おそらく母がもっとも悲しむことばかりに使ってきた。もういっそどうにでもなれ、と思った。なにもかも、自分でさえ壊れてしまえば良い、と・・・。




