11-4:ホーム《郷村純平と福士久子の問答》
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「なんですか、これは」
「なにって見れば分かるでしょう。あの問題児のケースファイルよ」
そんなことは見ればわかる。そうではなくて、これはどういうつもりだと聞いているのだ。不快感をぐっと自分の中に押し殺す郷村になんの関心も示さないまま、〈専門家〉が話を続ける。
「未婚のシングルマザーの子ども。無力感から抜け出そうと反社会的な態度を身につけて逸脱行動に発展していった典型的なケースね。そのあとの境遇もまさにって感じで、問題行動を起こしてはいろんなところをたらい回しになってるわ。もともと保護課のワーカーに対して反抗的な態度をとっていたそうなんだけど、こんなのは別に珍しくもないわね。
ワーカーといっても公務員ってだけのなんの専門的教養も無いずぶの素人にあれだけ高度な専門性が求められる役割を押しつけてるわけだから、当然色んな弊害がでてくるわ」
高度な専門性をもつ自身にはなにひとつ欠点も過ちもないようなことを言う。もちろん国家試験を通っているのだからある程度の努力はしたのだろうけれど、暗記科目で満点を取れる人間が必ず頭の良い人間であるなどと一体誰が決めたのだろう。
世の中には生徒の親と不倫したり、あろうことか年端もいかない児童に性的な対象として劣情を催す教師だっている。飲酒運転や恐喝まがいのことに手を汚す警察官だって、スピード違反をおかしたり、駐禁を切られたりするタクシードライバーだっているものなのだ。学問に興味もないどころか、むしろ活字を読むのが苦痛でしかない大学生だってそこら中に溢れている。それらは少数派である場合の方が多いだろうけれど、事実紛れもなく存在するのだ。
とはいえ、資格や試験が無意味だなどと主張するつもりは毛頭ない。それらは最低限の必要な知識を有しているかを選別する上で確かに有効ではある。けれどもそれらが保証できるのはあくまで、その人物が試験を通過するための努力をしたのかということにすぎない。その人物の適性であるとか、あるいは人格的な性質ともなると、それはもう誰にもどうすることもできない。
つまり、福祉の資格を持ち、福祉の仕事に従事しているからといってその人間が福祉的であるかの保証はない。それどころかむしろ反社会的な人格であることも十分ありうるのだ。
「――それで。アナタにはそんなことがないように、ちゃんと実践的な理論をアタシ自ら教えてあげてるの」
ゴミの分別方法を新人バイトに教えるような、いや、もっと軽蔑がかなり色濃く表れている口調で放す。呆気にとられている郷村がとうとう黙り込むのを置き去りにして、むしろ他人が自分の言うことを鵜呑みにすることがごく当然であるかのように話し続ける。
「で、母親が死んでから歯止めがきかなくなって一挙に坂を転げ落ち始めたっていうことらしいんだけど、こういう相手はものすごく凝り固まった不信感の塊みたいなものだからまともに相手するだけ骨折り損になるの。どうせこっちが何を言っても聞く耳を持たないし、向こうが言うことだっていっつも同じことなんだから。とりあえず壊れたラジオ方式で――」
「あの――これは問題ないんでしょうか」
とうとう耐えかねて郷村は話に口を挟んでしまった。自分の思い通りにならないことをすべて反抗としか受け取れない〈専門家〉は水を差された不快感を露骨に、わざとらしく表情にあらわした。
「これは、よくないとおもうんです、プライバシーのこととか。先生は専門家ですから扱いに長けてらっしゃるんでしょうけれど、俺はただの学生です。大河と同じ立場にあるんです」
そういう彼の言葉もあくまで表面的な予防線であり、他人に弱みを見せないための警戒心としか取っていない様子だった。誰かを思いやったり、心配するという気持ちそのものがこの人間にとっては共感不能な感情にほからならなかったのだ。〈専門家〉はうんざりした顔で、抜け目ない奴、とでも言いたげな口ぶりで話す。
「そんなに慎重にならなくったっていいのよ。アナタだってこの前言ったそうじゃない『自分にも関係ある』って。そのとおりよ。いい?これはあなたも人的資源として支援に加わると言うことなの。協力者と、援助をする上で必要な情報を共有するのは当たり前でしょう?だって同じ方向性を共有していないと援助がうまくいくわけないんだから」
「それは・・・そうかもしれません。でも、事前にちゃんと本人の同意を得た方がいいんじゃないですか?それに、できるならちゃんと信頼を得てから、大河自身の口で、自分の言葉で教えてもらう方が望ましいと思うんです」
あるいは、別に向こうが必要ないだとか抵抗があるとか感じるのであれば、無理にそれを聞き出す必要もないと感じている。大切なのは、知識としてどれだけ相手のことを「識っているか」ではなく、自分の知らない人生を経験してきた生身の人間として、相手のことをどれだけ「理解ろうとするか」なのではないだろうか。相手に対する敬意がなければ、どれだけの知識があろうとも、そんなのはレッテルを張って見下すのとなんら変わりがない。
このあたりから、〈専門家〉はもはや攻撃的な、というより報復の機会を窺っているような気味の悪い雰囲気を漂わせ始める。けれど彼は退こうとは思わない。どのみち避けて通ることは出来ない。いつかはぶちあたる壁なのだ。
「さっきからあいつの昔の話ばかり話されてますが、それがあいつと向き合う上でそんなに大事なことなんですか?たしかに、過去にあった出来事は今の大河にも大きな影響を与えているとは思います。それは、誰だってそうでしょう。
でも、それよりも大事なのは、今、この瞬間にあいつがどうあろうとしているのかじゃないんですか。先生は大河が昔の傷を引きずっていることばかりおっしゃっていますが、俺には先生の目こそ大河の過去にばかり囚われているように見えます」
大河の過去ばかりではない。本来であれば相手を専門的に理解するのに役立つはずの学問的知識によってすら目が曇らされているように見えた。学問と言えば、随分聞こえがよくて大層立派に聞こえはする。もちろん、先人たちの遺してくれた知識はすべて貴重であり、現代に繋がる数多の貢献あってこそ今の自分たちがいることは疑いようがない。感謝こそすれ先人たちに唾してよい人間などいるはずもない。
けれど、学問はやはり学問でしかない。その叡智は確かに人を理解したり社会問題を改善するための極めて優れた道具のひとつではあるけれど、どれだけ優れていようと、やはりひとつの道具でしかないのだ。まずはその限界を認めなければならない。それを前提として、自分自身の価値観や直観や他人の意見にも耳を傾けつつ、先人たちの培ってきた知見を適切な場面で活かしながら、さらに自分自身の経験によってさらに深めていくことによってこそ真の効果が発揮される。これらの過程を踏まずして受け売りを鵜呑みにして撒き散らすだけならば、そんなのはただの机上の空論に他ならない。何も「学ばず」暗記した知識に縛られて他人を値踏みする人間のことを学者などとは呼ばないのだから。
まして、自分たちに足りないものを補うための道具によって視野が狭められたり、あろうことか物の見方が固定化されてしまうということがあるならば、これほど本末転倒なことは他にないだろう。
そういう言い方をすれば、自分自身の価値観ですら生き抜くために身につけたモノサシのような道具だと言える。人それぞれが違うモノサシを持っているから、どうしても対立したり葛藤したりすることは避けられない。その「違い」や「分からない」を素直に認めて、自分のモノサシはこんな風なものだけれど、あの人のはどんなのだろうかと関心を持つ、歩み寄ろうとすることこそ大事なのではないか。分からないからこそ、分かろうとする。誰かとわかり合おうとするときに、確かに人は傷を負うかもしれない。自分自身のモノサシが相対化されて迷ったり、相手の短所に触れることで傷つけてしまったり、自分の欠点に触れられることで傷ついたりするかもしれない。
大事なのは、その2つの痛みをちゃんと両目で見つめることではないだろうか。
ところが、学校の教師や市役所の職員のような責任ある立場の人たちは職業上どうしても結果を出すことを強制される。素行不良児がいれば学校の看板に泥が塗られるし、生活保護を申請する人々が全て根っから善良な人間とも限らず、色々の問題が起こってもいる。あまりにも過酷すぎる職務内容と仕事環境が人々から余裕を奪ってしまう。上からもしつこくせっつかれるし、その「上の人間」でさえもっと上の人間や、世間様にせっつかれて、どうやってあの問題児をせめて見かけだけでもルールを守らせるか、どうやって枠の中に押し込むかばかり考えるのかばかり考えざるをえなくなる。その問題の根本がどこにあってどのように向き合えば良いのかを考えるだけの悠長さを誰も与えてはくれないのだ。その結果、手に負えない素行不良とか悪たれの問題児とかいうレッテルがついて回り、専門知識とやらに目を曇らされた人間は覚え立ての受け売りにかじりついて人のすべてを理解したような顔をする。
「たしかに、大河は昔になにかとてつもない辛い思いをしたかもしれません。今だってたくさん問題行動と呼ばれる騒ぎを起こしているかもしれません。
けれど、どれだけ多くの人間があいつを札付きの問題児だと言いはっても、俺たちは札を貼るような真似はしません。素人なんですから。あいつがどこで何をしようがあいつは武井大河なんです。先生はプロだからどうしても小難しい専門用語を持ち出したり、こういう書類を用意する義務があるのかもしれませんが、俺にとってあいつは支援対象なんかじゃない」
そして郷村はもっとも大切な言葉を伝える。
「俺に、俺たちにとってあいつは、ただの大事な友だちなんです」
郷村の所信表明を聞いた〈専門家〉が勢いよく吹き出す。大人になっても本気でサンタクロースを信じている哀れで滑稽な人間を見るような目で。
「そんなに冗談が得意だったなんて知らなかったわ。これだけ面白いんだからもっと色んな所でもそうするべきよ」
挑発を受けても郷村は穏やかに微笑みを返す。
「でしょう?これで大河のやつも笑わせてやりたいんですけど、あいつなかなか笑ってくれなくて」
思い通りに相手が取り乱さないことを受けて、気分を害したのはむしろ〈専門家〉のほうだった。白けて苛立ったような顔に戻る。
「アンタって大したマゾだったのね。それとも認知機能に障害があるのかしら?自分がなにをされてきたか覚えてないなんて」
この間の椅子で殴られようとした一件は風呂場にいて知らないはずだから、それよりも前のことに言及しているのだろう。いや、冷蔵庫の一件も知っていたからなにかしらの手段で把握しているかもしれないか。だがなんにしろ、大した問題ではない。
「今まではそうだったかもしれません。でも、これから仲良くなればいいだけの話でしょう?」
〈専門家〉を恐れない郷村は涼しく返す。もしかしたらこの人間にも〈専門家〉式のやり方に従うなら、あのケースファイルを用意しなければならないような過去があるのかもしれない。そう思うといくらか気の毒に思わないでもない。けれども、彼はここにおいては妥協することを己に許した。たかだか一学生に過ぎない彼にはどうしても限界があった。これが、精神的な領域での決別になったのかもしれない、そんなことを郷村は思った。
すると部屋の外でフォルテが吠え出す。ドアを前足でひっかく音もする。
なんだと思って出てみると、床に皿が置いてあって、食べかけのリンゴが落ちている。それにとこどころ、水をたっぷり含んだ雑巾を絞らないまま持ち歩いたときのような水たまりがところどころにある。いずれもさっきまでそこになかったものだ。
何事かを理解した郷村はすぐさまリードを用意する。
「フォルテ、大河のところまで連れてってくれるか?」




