10-13:ホーム《郷村純平――5》
涙を流す彼に母が語りかける。それは、ともすると不安に呑まれてしまいそうになる自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「大丈夫、大丈夫だからね。きっとお父さんも生きてる。私たちこれからちゃんと、なんとかなるからね。よかった、2人が無事で。本当に良かった」
これまで十年間と少し、心から愛してきた息子に偽物の親だなどと罵られ、自分がしてきたことを否定されるような言葉を投げつけられても決してぺしゃんこにならなかったあの母が、今、目の前で泣きじゃくっている。
その母の流した涙が、その愛情も悲しみもなにもかもが、言葉よりも深くはっきりと純平の肩に、心に染みこんでいく。
純平はもう逃げようとは思わなかった。どんな言い訳も意味がなかった。自分がこんなにも愛されているということを、自分が他ならぬ郷村純平であることを、自分の存在すべてで受け止めた。
純平の目からも、なすすべなく涙がこぼれる。もうどれだけ久しぶりに人前で素直な感情を見せただろう。泣きじゃくりながら、胸の中で何度も父と母と妹に詫びた。詫びて、詫びて、詫び続けた。償いようのない罪だと知りながら、それでもそうすることしかできなかった。
あまりにも皮肉すぎる運命だった。もし地震も起こらず津波もなく、父が命を賭して自分を救ってくれるようなことがなかったなら、純平はその愛情を認めることなどができないままだっただろう。あのとき津波が迫ってきたから、そうして父が助けてくれたから、こうして愛されていることに気づくことができた。しかし、それと引き替えにあまりにも愛しいものが失われてしまった。
「お父さんが帰ってきたとき、ちゃんと『おかえり』って言えるように、今は私たちだけでもちゃんと頑張っていこうね」
どうやって生きていけばいいのだろう。それが純粋な問いかけだった。大切なことに気づくことはできた。けれど大きすぎる代償が支払われた。そして時は戻らず、なにひとつ取り返しはつかない。遅すぎたんじゃなかろうか。両親の気持ちに気づくのが。絶望し、未来を見失い、途方に暮れる純平に、母が言った。
「ありがとう、生きていてくれて」
その言葉が、雷鳴のように彼の心を直撃した。
絶望に塗りつぶされた暗闇を貫く稲光だった。
神からの天啓を得たように純平は、はっとした。そしていかに生きるべきか悟った。
(この人たちのために生きよう)
この先どう生きていけばいいのか。そんなこと、あまりにも簡単だった。もともと死ぬはずだった命だった。けれどお父さんとお母さんに繋いでもらった命なのだ。愛する家族が命を賭けて守ってくれた命なのだ。多少苦しかったり、辛かったりするくらいで、どうして自分なぞの一存で棄てることが許されよう。
生きよう、と純平は思った。
この先どんな困難や絶望が待ち受けていようと、この希望の光は消えない。あらゆる障害を乗り越える。必ず自分は生き延びてみせる。そうしてこの愛する家族とともに生きよう。この身と心のすべてを、命そのものを恩返しと罪滅ぼしのためだけに捧げよう。
その日、津波にさらわれた父とともにそれまでの「彼」は死んだ。
そうしてこの日、〈郷村純平〉が新しく生まれた。
それから避難所暮らしが始まった。
母は目に見えて疲れ、妹は不安とストレスから泣きじゃくった。家庭の空気は次第に暗くなっていった。明るく生きていこうと笑おうとしても、楽しい時間を過ごすことが、ここにいない父への裏切りのようにも感じられた。
待てど暮らせど現れない父を待つ姿が、あまりに痛々しかった。生きると信じるも地獄、死んだと諦めるも地獄。次第にやつれていく母の姿を見ながら、郷村は何度自分の罪を告白しようか悩んだか知れない。背負いきれない秘密をいっそ懺悔して打ち明けてしまいたい気持ちと、生活が軌道に乗るまでは父が生きてるかも知れないという希望を奪うべきではないという思いの間で常に葛藤していた。
けれど、何も言えない。言えば言い訳になる。言葉は薄っぺらくて嘘くさい。ただ黙ってあらゆることに耐える。自分に罰を与えるように他人に身を捧げる。それが郷村にできるすべてのことだった。だから、郷村は努めて無邪気に振る舞った。明るく、楽しげに。未来に対してなんの不安ももたないかのように。
それでも、結局のところ、遺体が見つからずとも前へ進むにはなにかしらの判断をくだしていなかなければならなかった。郷村は、疲れ果てた母を家に置いて、何度も何度も遺体安置所に赴いた。せめて見つけ出して供養するのが自分に出来る手向けだと考えた。父のためにも、母のためにも。
毎日毎日、何十、何百もの死体を目にした。母はすぐに体調を崩したが、彼はただの一度も立ち止まらなかった。どれほどの遺体を目にしてきたか、もう覚えてもいない。その遺体の様子をここに記すのはおそらくやめておいた方が良いだろう。郷村は胃に穴があくほどゲロを吐き、死に顔がいくつも浮かぶ悪夢にうなされた。そうして自分自身も亡者か亡霊かのように、幽鬼のような異様な気配を漂わせながら必死に死んだ父の姿を探した。
けれど見つからない。一月経っても、二月経っても。やがて遺体が見つからないままでも死亡届を出す人たちも出てき始めていた。それでも母は、そうする踏ん切りがつかないようだった。「死亡届とか、お葬式とか、なんだか自分の手でお父さんを殺してしまうような気がして」そういって涙を流す母を見たとき、郷村は自分の務めを思い出した。
『お父さんを殺してしまう』――。
それは他ならぬ郷村がしでかした所業だった。であるならば、やはり母に真実を告げることも自分が負うべき義務にほかならない。父の死の原因を作り、その死に様をこの目に焼き付けた自分こそが母の覚めない悪夢に終止符を打つべきなのだ。
ある夜、妹が眠ったのを確認してから、郷村は母に大事な話があると切り出した。
「・・・すみませんでした」
郷村は、生まれて初めて土下座というものをした。
その相手は母だった。血を吐く思いで頭を下げた。涙が溢れてとまらなかった。
額を床にこすりつけたまま、郷村は自分のすべての罪を告白した。あの日、あの場所で何が起こったのか。父がなぜ死ななければならなかったのか。それは誰のせいなのか。郷村はそれでも家族と暮らす意志があったけれど、出て行けてと言われるのならば出て行くつもりだった。死ねというのなら、どれだけそれが恐ろしくても成し遂げてみせる覚悟があった。
すべてを聞き終えた母も、尽きることのない涙を流しながら
「・・・辛かったね」
そう言って郷村を抱きしめた。
「・・・・・・!」
「ずっと1人で抱え込んで苦しかったでしょう。もう、無理しなくて良いのよ」
郷村は思わず顔を上げて涙で震える声で尋ねた。
「俺を、憎まないの・・・?」
母はゆっくり首を振る。
「薄々気づいていたわ。だってあの日から純平、様子おかしかったでしょう?
なにかあったんだなってわかるわよ。わたしあなたのお母さんなんだから」
微笑む笑顔があまりに辛くて、郷村はまた頭を下げる。
「ごめん。ごめ、んなさい・・・ごめんなさい」
「謝らないで。純平のせいじゃない。亡くなったのは、お父さんだけじゃないでしょ」
「俺、一生かけて償う。必ず、母さんと恵里菜に・・楽な、暮らし、をさせるから」
母はますます強く純平を抱きしめる。
「いいのよ、無理しないで。困ったときは助け合うものでしょう?
これからも力を合わせて頑張って生きていくのよ」
そして、あの、『やっとお父さんって呼んでくれたな』と言った父と同じ表情で、
「だって、家族なんだから」
と言った。




