10-12:ホーム《郷村純平――4》
父はなにひとつミスをしないで登ることができていたけれど、さすがに自然そのものには勝てなかった。さきほどの純平と同じように転げ落ちて、また振り出しへと送り返される。
「・・・――!」
思うより先に身体が動いた。再び展望台を降りて父の元へ駆けつけようとしたけれど、彼を引き上げてくれた青年がその腕をがっしと掴んだ。純平はほとんど親の敵を見る形相で睨み返した。そうしてなんとか逃れようと暴れると、周囲の人間も加わって、純平を必死に押さえ込んだ。助けがなければそのまま落ちてしまいかねない勢いだった。
その騒ぎが聞こえたのか、下の方から声がした。
「純平、お父さんは大丈夫だから!お前はその人たちについて逃げなさい!きっとあとで必ず合流するから――」
純平は周囲の人が声に気を取られている隙をついて手を振り払う。
「だから、前だけ見て進め」
純平は必死に駈けよってかじりつくように展望台の縁に辿り着く。
父の姿はもうすぐそこにあった。
「父さん!!!」
叫びながら手を伸ばす。それに気づいた父も、届かないと知りつつ手を伸ばす。
そこへ――
次の瞬間、展望台から下を見る彼の頬に、水しぶきがあたった。
一瞬遅れてものすごい轟音が押し寄せてくる。むせ返るほど濃い磯の香りがする・見下ろした視界一面がどす黒い一面の海だった。その中に車や木やなにやらが浮かんでいる。丘の斜面に波が当たっては砕け、その飛沫のいくらかが顔にかかるほどの近さと迫力だった。
純平はその瞳で目の当たりにしてしまったのだ。
父が、津波に飲み込まれてしまう瞬間を。
危ないから、と誰かが純平を展望台の縁から引きはがした。それでも脳裏にこべりついた景色は消えなかった。木も土も道もなにもなかった。本当にあれが海なのかと疑いたくなるほどの水の魔物が陸を侵し、すべてを飲み込みながら、丘を削り取って更地に変えてしまいかねない勢いで押し寄せてきた。
純平は必死に何度も父の名前を叫んだ。けれど、どれだけ呼んでも、どれだけ待っても一向に返事がこない。魂が抜けてしまったようにふらふらと数歩後ずさりして、それから足の力が抜けてその場に尻餅をついた。
(死ん・・・だ・・・のか・・・?)
死んだのか?あのお父さんが?俺のせいで――?
頭の中は、その日の空のように濁り淀み、海のようにどす黒くごちゃごちゃとしていた。
気がつくと避難所にいた。どれくらい時間が経ったのか、どこをどう歩いてきたかも定かではない。大方、頂上にいた人たちが波が退いてから自分をここまで連れてきてくれたのだろう。大勢の人がそれぞれの大切な人を探し回り、右往左往していたけれど、純平には何をする気も起こらなかった。脳裏にあるのは、あの、津波に飲み込まれてしまった父のことばかりだった。
「――純平?純平なの!?」
聞き覚えのある声がして、虚ろな意識で振り向くやいなや力強く抱きしめられる。まるで純平の存在を確かめるように、息苦しいほど強く抱きしめてくる。すぐ耳元で、よかった、よかったと震える声が繰り返していた。
「おかあ、さ、ん・・・?」
「そうよ、そう。よかった、本当に、よかった――」
無事で良かったと何度も何度も繰り返す。その姿を見れば見るほど、ああ本当にこの人は自分のことを大切に思ってくれているのだなと身に染みて感じる。だからこそ、純平は余計に罪悪感で胸が張り裂けそうだった。何も知らない母に、まさか息子のせいで夫が死ぬ羽目になったなどとは想像もしないであろう母に、どうやって父の死を告げよう。
そんな葛藤をよそに、今度は妹も抱きついてくる。小さな腕を回してきてぴっとりとくっついてくる。怖い思いもしただろうに、こうして自分なんかの無事を喜んでいてくれる。
(どうして・・・)
彼はまた、そう思わずにはいられなかった。
どうしてもっと早く気づけなかっただろう。
どうしてもっと素直になれなかったろう。
そうして、次の瞬間には焦りと悔いが芽生えた。
(どうしよう、俺のせいだ・・・)
俺のせいで父さんが死んだ。俺が殺したんだ。どうやって伝えればいい?いや、無理だ。伝えることなんて出来ない、そんなこと――。このままいなくなってしまおうか。そういう卑怯な考えさえ浮かんだ。正直に自分の罪を認めて告白する勇気がないゆえに、自己保身の企みを浅ましくも巡らせた。いなくなった父を探しに出たふりをして、このまま世界のどこからも姿を消してしまおうか。
すると、母が思いがけないことを言う。
「あのね、お父さんならきっと大丈夫だから」
「――!?」
父、という言葉を聞いて背筋が凍りつく。
「さっき、メールがあったの。ほんのちょっとの文章だったんだけどね――」
父は何を伝えたのだろう。どう見てもあれでは助からない。そんな父が最後になにを母に遺したというのか。ほとんどパニックに陥る純平をよそに母が語り始める。
「『俺は大丈夫だから心配するな』って。それと『純平と恵里菜に愛してるって伝えてくれ』って・・・・・・」
語尾はほとんど涙声で聞こえなかった。言い終わらないうちに母自身も泣き崩れる。純平も愕然として全身の力が抜けた。今度こそ、今度こそ本当に頭の中が真っ白になった。
(なんて、馬鹿なことを――。俺は、なんて、あまりにも馬鹿なことを・・・)
その空白の中に、あたたかく滲みだす感情があった。その感情に触れたところから虹の中から借りてきたような優しい色彩に染め上げられていく。空っぽの心が、後悔と罪悪感と、それからそれらをすべて包み込んでくれる新しい感情で満たされていく。その感情は、父が純平にくれた心だった。それこそが空虚な器に過ぎなかった郷村純平という人間に命を吹き込んでくれたのだった。
そうだ、最初からわかっていた。それがどういう種類の感情なのか薄らとは気づいていた。けれど認めるわけにはいかなかった。だってそうでなければ辻褄が合わない。自分は愛されるに値しないから捨てられたのだ。誰だって自分と血の繋がった実の子どもほど愛おしい存在が他にあるはずもない。それなのに自分は捨てられた。まだ何も悪いことをしてなどいなかったのに捨てられた。それならば話は簡単だ。生まれたことが間違いだった自分の存在そのものが罪だった。自分は最初から愛される資格などなかったのだ。
そう言い聞かせることによって悲しみに飲まれまいとした。知っていたはずなのに、求めてもいたのに、だからこそ、その愛情が何よりも恐ろしかった。もう二度とあんな思いは味わいたくなかった。信じていたものに裏切られることが死ぬことと同じくらい怖かった。
それなのに、どうしてこの人たちは血の繋がらない、拾ってきた自分を本物の家族のように扱ってくれるのだろう。実の親ですら捨てた自分と、血の繋がった家族のように接してくれるのだろう。そんな無意味な疑問を理屈でいくら作り出しても、もう心が答えを知ってしまっていた。純平の胸を満たし、涙となって溢れ出すその教わった想いこそが何よりも雄弁だった。
もう、認めないわけにはいかなかった。これだけ暴れ散らし迷惑を掛けてもなお自分はとうとう受け入れられてしまった。父はあろうことか自分の死ぬ原因を作った自分をさえ気にかけ、愛しているといってくれた。父は、その命をもって照明したのだ。彼が本当に、心から愛されていることを。
純平は涙を流した。それは愛される喜びを知った感動の涙だった。そうして愛する者を喪ってしまった悲しみの涙でもあった。また同時に、自分が償いきれない罪を犯してしまったことに対する後悔の涙でもあった。
(俺は、なんて馬鹿なことを――)
それなのに、自分のことばかり考えてしまっていた。知られるのが怖くて逃げ出そうとすらした。自分のせいで置き去りにされた人たちに対し、恩を仇で返したまま、愛情に感謝を示すことも己の罪を償うこともなく、逃げることばかり考えていた。なんて、クソッタレな人間なのだろう。




