10-11:ホーム《郷村純平――3》
空が鉛色に濁っている、ある薄暗い雪の日のことだった。
純平はいつものように学校にも行かなかった。
学校に行くふりをして家を出たあとフラフラ街をさまよっていると今日もやけに彼の後をつけてくる車がある。それは純平の父親だった。
父親は息子が学校に来ていないという連絡を受けると、仕事の合間に時間を見つけ出しては自ら純平を探し出し説得をしにくるたことがときどきあった。それを無視するのが純平の常でもあった。
純平は決まって大きな森林公園で時間を潰した。そこで物言わぬ植物に囲まれて答えのない考え事に耽るのが好きだった。その場所もやがて父親にバレてしまい、純平が着いたころには父親がもう車を降りて待っていることさえあった。この日もそういう一日だった。 父が歩いて純平の元までやってくる。それを避けて、螺旋状に道が続く丘を登る。森林公園の中心には展望台がありそこを目指して歩いているのだ。
「――――!!?」
すると突然足下が激しく揺れた。
木々が激しくざわめいた。公園にいたまばらな人が、それぞれ動揺の声を漏らした。立っていられないほどの激しい地震だった。それが収まったかと思うと、今度はさらに大きく、長時間揺れたりもした。誰もが不安になり、動揺した。
背後から父親の切羽詰まった声が聞こえてくる。
「純平、こっちにきなさい!」
珍しく声を荒げるので、どうしたのだろうと不思議に思う気持ちと、こんな異常が起きたときに父親が傍にいてくれてよかったという子どもらしい安心感が去来した。けれども天邪鬼で幼稚なわがままを貫いく純平は、振り返るに振り返れない。
「純平、速く逃げるぞ」
だんまりを決め込んでいると強引に手を掴まれた。さすがにどきりとした。怒らせてしまったかと恐る恐る父親の顔色を窺ってみると、そこには焦りが見て取れた。
「・・・なにさ、急に」
無愛想に純平が尋ねると、父親は海の方向を指さして、
「津波がくる。さっさと逃げよう」
振り返って確かめてみると、それまで一度も見たことのない恐ろしい光景が広がっていた。あれだけ広く大きな海の水が一斉にこちらへと大挙してくる。遠くにあるうちはゆっくり動いているように見えるそれらは、けれど近づくにつれてとても恐ろしい速さであるということがわかってくる。およそこの世に起こりうる自然現象とは思われなかった。いくら自然が強大であろうとも、さすがにあれだけの海水を、東京ドームがいくつあっても足りそうにないほどの海水をいっせいに動かせるはずがないと思いたかった。けれど実際にそれは目の前で起こっていた。
あまりの恐ろしさに腰を抜かしそうになる純平の手を引いて父親が走り出す。そして鋪装された正規のルートでは迂回するため時間がかかると判断し、土で覆われた斜面部分を登り直接頂上を目指すルートを選んだ。
事態は一刻を争った。それは誰の目にも明らかだった。それなのに常日頃張り通してきた意地が足を引っ張って、あっさり父に従って逃げることが出来なかった。それでも父は純平をその場に残して去るようなマネをしなかった。大人である父の方が事の重大さをよく承知しているはずなのに、1人で逃げた方がずっと助かる確率が高くなるのに、あくまで純平とともに逃げようとしてくれた。
「いい加減にしろ!」
生きていて初めて父が声を荒げるのを耳にした。
力強い手が純平の肩を、まっすぐな眼差しが純平の瞳を捉えた。
「死にたいのか?」
ど真ん中にぶち込まれた質問だった。幾晩も死に怯えた恐怖を思い出して、たまらず首を振った。生きていたいという欲求が強く芽生えた。純平はすぐさま父の後をついて山肌を登り始めた。
純平の手が届かない場所があると、父はときには自分が足場となりながら、あくまでも2人で生き延びることを最優先にした。斜面が鋪装されていないおかげで、土から直接木が生えていたり、根っこが剥き出しになっているところがたくさんある。それらがちょうど良い足場となって登ることを容易にしてくれた。やがて頂上が見えてくる。夏になれば花火を見に来る客が殺到する展望台には、既に数人分の人影があり、純平たちのことに気づいて励ましの声をかけたり、なにか掴まれるロープを探したりしてくれているらしい。
(あそこまで、もう一息だ・・・)
確実とは言えないけれど、あの高さならきっと津波もどうにかやり過ごせるだろう。厳しい寒さの中、かじかむ手で土を掴みながら登るのはとても手が痛く辛かったけれど、終わりが見えると希望が湧いてきた。
「よし」と、次の一手に力を込めたのが軽率だった。
それまでよりも雑に木の根を掴んでしまったために、降ってきた土が目の中に入った。とっさに目元をこすろうとしたときにバランスが崩れる。
「――!!」
なんとか間一髪、最後まで掴んでいた根っこのおかげでそのまま落下してしまうことはなかったけれど、これもいつ切れてしまうか大変危うい。早くなんとかしないと、と焦り、パニックになる。足場が欲しくて必死につま先で探しているとき、とうとう命綱だったものが切れた。
「純平!」
急な斜面をほとんど落下するように転げ落ちる。途中何度も頭をぶつけ、土が目や耳や口の中にまで入ってくる。なんとか転落がとまったときには、なんとまた振り出しに戻っていた。おまけに状況は登り始めたときよりかもっと悪い。身体は寒さに震え、手はボロボロ。全身には痛みがあり、とにかく服の中やら口や目やらに入った土のせいで気分も悪い。何より、残された時間も圧倒的に少なくなっており、ほとんど自暴自棄な気分になりかけた。
(もう無理だ。自力じゃ頂上まで辿り着けやしない)
すると純平の目が津波くらいに驚くべきものを捉えた。
父が目の色を変えて猛然と急斜面を駆け下りてくるのだ。それも自分の名前を叫びながら。せっかくあんなところまで登っていたのに。自分1人なら絶対に助かることのできる場所にいるのに。
(どうして・・・)
俺のことなんて見捨ててしまえば良かったのに。
(どうして・・・・・・)
あんなに迷いなく一心不乱に。
(どうして・・・・・・)
本物の家族なんかじゃないはずなのに。
父が目の前に来て純平の顔の土を落としながら声を掛ける。
「純平!怪我はないか?もう少しだ。あと一回頑張るぞ」
彼を立ち上がらせ、肩を貸しながらまた斜面へと登っていく。自分の命をも顧みず懸命に心配してくれているその姿こそが、何よりの証明だった。この人が、この人が紛れもなく自分の父親なのだという思いが痛いほど胸に響いた。また純平の視界が見づらくなった。けれども今度は泥や土のためではなかった。その温かく濡れるものを拭い、純平は己に渇を入れた。生きよう。なんとしてもここを抜けだそう。そうしてちゃんと伝えよう。今までのことを謝って、そしてきちんとお礼も言おう。
死ぬのが怖いということ以外の生きる理由が、生への欲求が初めて胸に湧いた。
状況は、相も変わらず登る前よりずっと悪い。けれど心構えだけは、生きていたいというその気持ちのまっすぐさにかけては、登る前よりもずっとずっとひたむきで迷いがなかった。登りきってやる、と純平は思った。押し寄せる津波とそれが生む恐怖を勇気の力でねじ伏せて、一手、また一手と頂上を目指して進み始める。一度登ったことがあるという経験も二度目だからこその利点だった。どんな道順でアプローチすればいいかが分かっているので、いちいち手がかりを探して試行錯誤する時間を省くことができる。
慣れた手つきで、ずんずん頂上へ近づいていく。中には何人かの若い男が展望台の外まできて、純平が来たら引き上げようと待ってくれている。よし、行ける。はやる気持ちを抑えながら無難に、着実に登っていく。さすがにもうあんなヘマは許されない。そしてようやく頂上付近に辿り着く。青年が手をめいっぱい伸ばして引き上げてくれる。たくさんの歓声が健闘をたたえてくれる。けれど、感謝の言葉を述べるより、ふっと力を抜いて人心地つくより、純平は真っ先に父の方を振り返り叫んだ。
「お父さん!俺は無事ついたよ!もう少しだ!」
すると父は死ぬか生きるかの瀬戸際というのに、ニッコリと笑顔になった。
「やっとお父さんって呼んでくれたな」
「――!」
思えば、父のことをお父さんと呼んだのは、出生についての事実を告げられて以来初めてだった。ずっと自分自身とそれを取り巻く環境と向き合えないでいた純平は、そうやってこれまで目を背けてきたのだった。けれど、今はもう違う。自分でも意識しないで、あんなにも自然に呼ぶことができたのだから。
「頑張れ!お父さん!」
彼はあらん限りの声で、もう一度父の名を呼んだ。それが少しでも力になってくれるといいと、今なら素直に思うことができる。もともとアウトドア派で、よくキャンプに連れていってくれた父だけあって、するすると器用に登ってくる。やった、なんとか助かった。2人とも無事だ。ああ、よかった、と思いかけた刹那――。
「――――っあ!!」
無情にも、ここに来て再び激しく大地が揺れた。




