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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
6月18日
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10-8:ホーム《武井大河――三》


 信じた気持ちが大きかったからこそ、裏切られたときの絶望もまた大きかった。

 これまで心の中にあったポジティブなものすべてが一変に反転したのだ。空が落ち、世界が真っ逆さまにひっくり返ったみたいだった。オセロで角を取られたときのように、信じることを通して得られた安心感や喜びが、裏切られる悲しみと騙された絶望とに塗り替えられていった。真心を踏みにじられたショックが、ドス黒い感情に塗りつぶされた心のど真ん中に埋めようのない空洞を作り出した。

 本当に意味が分からない。

 自分のこんな感情も、どうして目の前のSWが腐れ外道の分際でさも被害者らしく、しくしく涙を流すことができるのかも。あんまりにも分からなさすぎて面白くなってきた。

 大河はとうとう、高らかに笑い声を上げ始める。瞳には暗い光が宿り、その唇は醜く歪む。可笑しくってたまらない。大河は目から血のような涙をこぼしながら、それを拭うこともせずに大声で嗤い続けた。心の中で糸が切れたような、なにかが壊れる音がした。

「――は、はは、くくくく、はっははははは」

 SWが狂人を見るような怯え目でこちらを窺ってくる。そこにはあの、何を言っても微笑みながら受け止めてくれるかつての面影はなかった。もはやSWにとってさえ、武井大河は得体の知れない恐怖の対象に過ぎなかった。こいつに一体何をされるか分からない、とその表情にありありと書かれているのが見て取れた。

 ああ、ほんとうに、オレは馬鹿だ。

 その今にも小便をチビりそうな顔を見ると、今までのどんな快楽よりも気分が良かった。誰だってそうだ。オレもこいつも化けの皮を剥いでしまえばなんてことはない。それなのに、それなのに。こんなやつを、どうして――

 大河は不安定な情緒のまま、地獄の底から響いてくるような声で呟いた。

「あーあ、てめえみてえなクズを・・・信じるんじゃなかったなあ」

 その日を境に、それまでの武井大河は死んだ。

 

 それからというもの、行く先々で当然のごとく問題行動ばかり起こした。

 以前とはもはや別人と呼ぶべき変わりようだった。あまりにも残忍で、悪辣で、手負いの虎のように凶暴だった。あらゆる偽善に暴力で応じ、枠組みの中に押し込もうとする圧力に対してもそれを上回る暴力で反逆した。

 そうして飢えた獣のように夜な夜な街へ繰り出しては傷害沙汰に明け暮れた。

 その殴り合いに興じているときだけ大河は生きている手応えを得ることができた。目の前の相手、自分よりも人数の多かったり、年齢が上だったり、体格が恵まれていたりするそいつらに立ち向かい、片っ端から腕力でもってねじ伏せる。そうして自らの肉体を貫く痛みと目の前の相手の浮かべる苦悶の表情。拳の先に感じる肉や骨の感触、それらすべて暴力の連鎖が大河にドス黒い喜びをもたらした。

 けれどそれも終わってしまえばすぐに虚しくなるのだった。

 そのたびに大河はまた新しい虚しさと衝動を覚え、それらをかき消し、満たし、快楽を得るためにより過激な戦いを求めた。


 いつのまにか、大河に近づく人間はいなくなっていた。

 誰もが遠巻きに眺め、腫れ物を扱うように大河に接した。いつかあいつは人を殺すかも知れないと周りの人間は本気で恐れていた。そうしてその犠牲者が自分になるかも知れないと信じていた。恐れに曇らされた瞳は物事の正しい理解から人々を遠ざけた。

 けれども実際大河自身はそうなってもおかしくないし、構わないとも思っていた。

 大切な物すべてを失い、奪われ、人間である証すら踏みにじられた大河にとっておよそ価値のある、守るべきものなどどこにもなかった。それは自分自身の肉体や生命や人生ですら同じだった。大河はまったくの自暴自棄だった。ただの暴力の化身にすぎなかった。ましてや他人の価値などというものに、どうして路傍の虫けらとの違いがあるだろう。自分のすべてを蹂躙したこの世界になんら価値のあるものなど存在するはずがないのだ。


 そうして次々に至る所をたらい回しにされた挙げ句――。

 武井大河はとある小規模住宅型児童養護施設で暮らすことになった。


 そこは大河がこれまで巡ってきたどの場所とも雰囲気が違った。初めて足を踏み入れた瞬間からそれが分かった。あまりにも和気藹々としているのだ。彼らとて何らかの悲劇を経験し、どこの馬の骨とも知らない連中との共同生活を仕方なしに強いられているはずなのに。どうしてなのか、友だちとも家族とも片付けきれない独特の、しかし確かな親しい繋がりによって生活が維持されていることが感じられた。

 大河が訪れた場所の中にはもっとギスギスして陰険な空気が漂う場所だってあった。お互いに疑心暗鬼となり、自分こそは養育者からの愛情や恩恵を他の人間より受けようとする者や、あるいは当たり散らしたり、平気で嘘をついたり他人の物を盗んだりする者だっていた。中には被虐待児が別の被虐待児にいじめと呼ぶには犯罪的すぎる心身の苦痛を与える場面だって目にしてきた。そういう意味で、自分の身で直接経験してきた世の中の負の側面の場数で言えば大河は相当に鍛えられているものがあった。そしてそれらの経験がさらに大河の心を冷たく、残忍に磨き上げてもきた。なによりも、それらの場面で身を守るのに最も有用な手段はやはり暴力にほかならないことを学んだのだった。

 ともかく、少なくとも新しい「仮住まい」はいくらか快適に思えた。当然またそこを追い立てられる日が遠からず来るだろうとは知っていたけれど、食事が美味いことだけはマシな点だと言えた。

 ところがやはり問題がある。

 そこの責任者が見下げ果てたゴミみたいなやつであること。眼鏡をかけ七三分けをしている優等生ぶった奴がしつこく関わろうとしてくるのが鬱陶しいことなどがそうだった。

 子どもの中の最年長の住人が子犬を拾ってきたときに、その問題が顕在化した。

 いかにもお行儀良く振る舞うのが鼻についた優等生が本性を剥き出しにして大河に襲ってきたのだった。けれど拳を交えて気づく。そいつは表向き正義漢のふりをしているけれども、紛れもなく自分と同類の人間だったのだ。

 快感に身が踊りそうだった。まさかこんなところで自分の鏡像のような人間に出会えるなんて。研ぎすまされた獣の直観がささやいていた。どれだけ化けの皮をかぶってめかし込んだって、間違いないと。こいつはオレと同じ、他人といたぶり痛めつけることによって生きている実感を得ようとする人種だ。己の暴力でもって相手を蹂躙し、屈服させることでしか乾きを満たせない血に飢えた人間だ。ますます楽しくなってくる。こんなやつをぶちのめせたらさぞ気分がいいに違いないと興奮した。こいつをオレの足下に跪かせてやりたいという欲望が膨らんだ。

 せっかく盛り上がってきたところに、けれど邪魔が入った。

 それは今まで傍観者を決め込んでいた、線の細くいかにも平和主義を気取ってそうな男だった。そいつは何度殴り飛ばしても締め上げても決して音を上げなかった。やり返そうとすらしなかった。初めから大河と争うつもりなどなかったのだ。それなのに大河の趣味には水を差した。なんて鬱陶しいやつなんだと思った。キツめに灸を据えてやったが、そいつの態度は改まらない。

 そうしてとうとうこの日、再び大河の前に立ちふさがった。それもあの、クソとゲロをこねて作ったような泥人形みたいなあのSWそっくりの目をして。薄々は気づいていた。何よりも敏感な大河の偽善に対する本能がこいつはキナ臭いと初めから告げてはいたのだ。それもここで確定した。その厚かましい目つきと、反吐の出そうなほど甘ったるくて胸くそ悪くなる綺麗事。

 男が言う。

「俺もそうだった」 

 大河は思う。目障りな奴だと。

「俺も最初は昔の自分をお前に重ねてたんだ。でも違うだろう?お前には武井大河って名前があるし、俺にだって郷村純平って名前がある」

 大河は思う。癪に障って仕方がねえ。

「ちゃんと、この目を見て話してくれよ」

 大河は思う。あのSWには報復しそこねたがちょうどいい。こいつにはキッチリ自分の吐いた綺麗事の責任を取らせてやらねばならない、と。それももう二度と忘れられないように徹底的にその身体に刻み込んでやらないといけない。


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