10-7:ホーム《武井大河――二》
入院から数ヶ月後、とうとう大河の母が亡くなった。
そのときも傍らにはずっとSWの姿があった。まるでそれが大河に残された社会との唯一の繋がりでもあるかのように、通夜の席で一晩中手を握り、支え続けた。その助けがあったからこそ、大河も自暴自棄になってしまうことを免れた。
小学生にして家族というものを失くしてしまった武井大河は、それからなんとかして養育者を見つけ出さねばならなかった。SWの説得のおかげで、母親と長年ともに暮らしてきたアパートを離れ、児童養護に入ることまでは渋々とはいえ納得が得られた。ところが、家財道具の処分の話になると、途端に目の色が変わった。
SWは、児童養護に入るにあたり、生活に必要なもの以外はどうしても処分しなければならないことの理由を丁寧に何度も説明した。けれど、説明を繰り返すほどに大河の態度が硬くなっていくのは明らかだった。
母親という存在は、父親の顔も知らない大河にとってのたった1人の家族だった。
自分を産み、苦しい環境の中でも女手ひとつで一生懸命育ててくれた大切な母ちゃんだった。そして旅だってしまった、もう会えない存在だった。不安に押しつぶされないように、周囲に舐められないように突っ張ることでしか自分を保てなかった大河は、母親にさえ素直な態度を取っていたとはいえないけれど、その存在に並々ならない感謝と愛情を抱いていた。それらの想いは、母の死に直面してからいっそう強められ、その棘だらけの心の柔らかい部分に慈しみ深く刻まれた。
天涯孤独の身となってしまった大河にとっての、亡き母の形見である家財道具。それがどれほど大切であるかを知らないSWでは、もちろんなかった。むしろ、身近でずっと支え続けてきたからこそ、金に換えることも言葉で言い表すことのできない価値があることを誰よりも思い知っていた。思い知ってはいたけれど、福祉という巨大な組織とサービスの中において単なる一個人に過ぎないSWには、それをどうすることも出来なかった。
大人としてあっさり諦めて自分自身に仕方がないと言い聞かせるSWと違って、当事者でありまだ小学生だった大河が、そう簡単に聞き分けよく現実を受け入れることが出来るはずもなかった。母を失った直後の、まだ喪失の悲しみが癒えきらない時期だからこそ、なおさら心の拠り所となるものを求める気持ちも大きかった。
そこで大河はSWに提案をした。
「そうだ、あんたが預かってくれよ。オレの持ちもんだから処分されるんだろ。だったらこれ全部あんたにやるよ。年食ってアパート借りれるようになったらちゃんと受け取りにいくからよ。だからさ、それまでのあいだどうか、頼むからあんたの部屋に置いといてくれねえか」
他人の前で決して本音を漏らさずに肩肘を突っ張ってる大河が、こんな風にお願いをしてくれるのも信頼の証と言うことができた。その事実の重みを感じ、焦りと戸惑いがこの強気な少年の瞳に揺らぐの目にしたときSWは耐えきれないほどの心の痛みを覚えた。SWはこんな顔を見せるのはプロ失格だと自分を責めながらもとうとう耐えきれずに涙をこぼしながら呟いた
「――――できない」
「・・・・・・・・・・は?」
大河は目を見開いて魂を抜かれたように呆然としている。
理解できない、のだろう。本当に、脳が理解を拒むほどのあまりの残酷さなのだった。冗談でもなんでもなく「なにを言ってるのかわからない」という顔をしていた。
「・・・・・・なんだよ、それ・・・」
顔色が失われていく。頭の中が真っ白になる。空っぽになるという意味ではない。ひとひらひとひらでは他愛なく溶けていく雪が降り積もって日常の景色を銀世界の下に覆い隠してしまうのと同じだった。いくつもの途方もない量の思考と感情とが混線して頭の中が塗りつぶされて結果的に真っ白のようになってしまうのだ。
「――じゃあ、あれは、どうなるってんだよ」
虚ろな指先で母のいない部屋の中の家具を示す。その指が細かく震えている。
「処分、される」
処分、という言葉に大河の瞳がどんよりと濁った。大河の脳裏にあるのは母とふたりきりで貧しくも健気に助け合って生きてきた狭い部屋での思い出だった。仕事が忙しくなかなか掃除にまでは手が回らず、雑然と溢れる小物や本。物を大事にする母親だったから、それらひとつひとつには決して忘れられない思い出が宿っていた。埃の積もった本屋、棚に置かれた小さな人形だけではない。たんすの傷や、破れたのを縫い合わせたズボンの裾にすら。
それらが、すべて――
『処分される』SWの言葉が粘っこく耳の底にまとわりつく。
不吉な想像が駆け巡った。
あの保護課のクソ野郎みたいな人を人とも思わないような腐れ外道どもによって母の形見が次々に粗大ゴミか何かのように運び出されていく。淡々と処分される生活の記憶、母との繋がり。それらは大河にとってかけがえのないこの世との縁を繋ぐものでもあった。自分をかろうじて守り、支えてくれる温かい思い出たちだった。決して自分が大人たちの言うようなただの獰猛な獣ではなく、愛を知る優しい人の手によって育てられてきた血の通った人間なのだという最後の証だった。
「・・・・・・ふざけてんのかよ」
なんだったんだよ、今までのことは。本当に、なんだったんだ。大河の唇は不気味な笑みを浮かべ、口からは乾いた笑い声が漏れた。
「騙したのかよ、俺のこと」
あんたはあいつらとは違うんだと思ってた。あんたのことだけは、オレだって信じていた。オレと母ちゃんのことをちゃんと考えてくれるのだと思っていた。友だち――いや、それ以上だとさえ感じていた。
あんたなら助けてくれるって。
嬉しかった。実を言えばずっとひとりで苦しくて寂しかった。だからこそ心を許せる、信じられる大人と初めて出会えたと思えたことが嬉しかった。ああ、こんなに一生懸命に助けてくれるやつもいるんだからオレもちゃんと生きていこうと思いかけてた。あんたに会えてよかったって、オレは、オレは本当に――。
「・・・はは、は、なんで、オレは――」
なんでこんなやつのことを信じてしまったのだろう?
そんなことを考える大河の目の前でSWが涙を流す。まるで、辛くてたまらないのをこらえきれないとでも言いたいのかのようだった。それを見た大河の胸には「なぜ?」という疑問が起こった。
(なんで、お前が泣いてるんだよ)
いったいどういう神経してたらそんな被害者みてえな面ができるんだよ。
なにが『できない』だ。できないじゃなくてやらないんだろう。最初からお前はこうするつもりだったんだ。ただの仕事として、問題を起こす社会不適合者がいたからそいつをうまく処理して問題を起こさないようにすることだけを目的としてたんだ。そのために理解者を装い、味方のふりをして、オレを助けたいなどと嘘をついた。オレの孤独と窮乏とにつけ込んで懐に潜り込み、おままごとでもするみたいにお友達を演じていた。
最初から自分たちの都合の良いように操ることが狙いだったんだ。まんまとうまく転がされた。馬鹿みたいにオレは手のひらの上で踊らされてたわけだ。さぞ愉快だっただろうなあ、あれだけ意地を張ってたクソガキも一皮むいたらただの寂しがり屋だったんだから。傍にいて笑いを堪えるのが大変だっただろう。お前は最初から誘導し手綱を握ってなだめすかして、オレを飼い慣らしていたんだ。そうして最後の最後でこうして裏切りオレのことを見捨てたんだ。
大河は許せないと思った。殺してやりたいと思った。涙が出るほど憎らしかった。けれど、それだけが感情のすべてではなかった。ドス黒く渦巻く破壊と暴力の衝動以外に今まで一度たりとも経験したことのない感情が交ざっていた。
その感情がなんなのか、そのときの大河にはわからなかった。今までのような周囲に対する憤怒と憎悪ではない。母を亡くしたときの喪失感や孤独ともまた違った。
それは、その感情は――信じていた人に裏切られた悲しみと絶望だった。
それまで誰1人にも心を許し信じることのなかった大河だったからこそ、そんな感情を今まで味わうことがなかった。けれどこれまでの大河自身と違い、ついさっきまでの大河は人を信じるということを覚えてしまった。SWとの交流を通して他人に心を許せる安心感や絆を通して得ることの出来る喜びを初めて知ってしまった。この出会いを通して自分は変わることができるかもしれないとさえ思っってしまったのだった。
そしてそれこそが裏切られる悲しみと絶望に繋がってしまった。




