10-3:廃 墟《満点の星といつか終わる今》
回らないコーヒーカップで、2人はしばらくにらめっこに没頭した。
お互い、こんな顔を知り合いに見られたら二度とそいつの顔を見られないだろうなというくらいの変顔を披露し合って、腹のよじれるほど大笑いした。
それからメリーゴーランドの白馬になんとなく跨がってポーズを取ってみたり、本物が出てきそうなお化け屋敷の前を怖々通り過ぎたり。
もちろん、それらのアトラクションが動き出すことはない。けれども2人だけの世界が生み出す甘い戯れの夢の中で、虚しくも豊かな空想の中で、それらは確かに動いていたのだ。
この錆びれた園内に、星よりも月よりも目映い灯りがともった。2人だけのためにたてがみを揺らしながら木馬は生き生きと夜を駈けた。観覧車は1席しか埋まらないまま2人を星々で満たされた夜空のてっぺんまで運んだ。
それは、この瞬間に限ったことではない。そして彼らだけの話でもない。幻想を抱くというのは往々にして現実を願望で塗りつぶすことを言う。
「思えば私、クラスメイト以外と遊園地に来たの初めてかもしれません」
「親と一緒に来たこととかは?」
「さすがに小さい頃、何度か連れて行ってもらったことがあるとは思いますけど、ほとんどなにも覚えてません。それ以外と言ったら、あとは修学旅行で小学生の時に何回か行ったことはあるんですけど、それくらいだと思います」
「でも、俺もそれくらいな気がします。震災があってから結構みんなバタバタしてましたし」
気がつくと、入場ゲートの前まで来ていた。
さすがに広大すぎる敷地をすべて回ったわけでも、アトラクションを網羅したわけでもないけれど、ここに来るまでに十分足腰を使ってきたのもあって、そろそろ帰る時間かもしれないとも思っていた。
名残惜しさが尾を引きながらも、遊園地を後にする。
ただ、もとが相当な距離を歩いてきたので帰るにしても同じだけ歩くことになる。五分か10分か一時間なのか分からないくらいただただ歩いて、彼女は大丈夫だろうかと声を掛けてみると
「ちょっと、歩き疲れました」
しんどそうに笑いながら膝に手をつく。
さすがにこんな遠くまで引っ張り回したのはよくなかったかな。彼は自分の身勝手さを悔いた。辺りを見渡してみても休むのにおあつらえ向きなベンチなんかがそう都合良くあるわけでもない。
(おぶりましょうか、と言ってしまっていいんだろうか)
彼としては自分が連れ出した以上そうすべきと思った。彼女は羽毛ほどの重ささえもあるんだろうかという朧気な雰囲気を醸し出しているし、おそらく体力的にも可能ではあるだろう。いや、でも、しかし――
「よいしょ、と――」
迷っているうちに、彼女、なんとその場に座り込んだ。
「あ、よかったらこれ、敷いてください」
それを見て条件反射的にハンカチを取り出して渡してしまう。
いや、そういうことじゃない、と自分自身を戒める。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。私はちょっとここで休憩していくので、どうぞ私のことはお気になさらず」
「そうは言われても気になりますよ、さすがに」
ハンカチをしまいながら言葉を返す。こんな人気のない夜空の下で、自分がさんざん連れ歩いた女の子が疲れたといってアスファルトに座り込むのをそのまま捨て置くくらいならば、初めから彼女がここにいたいといったときに血も涙もないやり方で断っている。とはいえ、自分がいたところで彼女の体力が回復するわけでもないのだけれど。
「外じゃできないことをそんなに堂々とやられたら、うらやましくて仕方ありません」
そんな風に言い訳しながら彼も隣に腰を下ろす。
ずっと真面目なふりをして生きているのだから、たまにはひとつふたつ不真面目なことをしてみないと、不健康というものだろう。
「言われてみればたしかに。道路の真ん中に座り込むなんてなかなかありませんよね」
「一生に一回あるだけでもかなり珍しい方だと思いますよ」
――すると彼女は。
「じゃあこれは、一生に一度の思い出になりますね」
冥土の土産が手に入ったようなことを言う。
「そういう見方も、できるかもしれませんね」
終わってしまうことを恐れる彼とは最初から物の見方が違うのだとこのとき強く感じた。きっと彼女は最初から終わってしまうことを前提に過ごしてきたのだ。ここに来る前からずっと。たとえそれが恐ろしいことであっても、避けようでないことをきっとその身で実感してしまっている。だからこそ、終わることよりも、作ることのできるものや残してゆくことのできるものを捉えようとする姿勢が彼よりもまっすぐなのだろう。
「わ、〈樹〉くん!すごいですよ、これ!」
隣がにわかにはしゃぎだすので、ん?と横を見てみると、大胆にもアスファルトに仰向けになる彼女の姿があった。
「ちょ、なにしてるんですか!」
彼は慌てて目をそらす。
「や、そんなに驚かないでくださいよ!本当にすごいんですって、いいから早く!」
彼女はスカートを抑えたかと思うと、もう片方の手で彼の襟首をつかんで引き倒す。当たり前だけれど頭を激しく地面にぶつける。
「――痛った!」
「あ――ごめんなさい!」
これが漫画だったら頭の上にチカチカ星が舞っているんじゃないかという衝撃。
あいたたた、と頭をさすりながら目を開けてみると――
「――――」
本当に、目の前に星が瞬いていた。
「・・・大丈夫ですか?」
いたわしげに声をかけてくれる彼女が横から覗き込んでくるのにも応えられない。
それは、視界いっぱいの満点の夜空だった。
すべて純天然の、星々の実演によるプラネタリウムだった。
街の中では人工的な灯りに消されてしまって、この眼で捉えることも難しいほどの細やかな光でさえ、すべてくっきりと彼の目を潤した。あるものは濡れるように光り、震えるように揺れ、今にも消えてしまいそうにちらちらと光が強くなったり弱くなったりする。
それが、視界いっぱい、地平線の彼方のすみずみまで敷き詰められている。普通に立って見上げているのではまず見ることのできない、圧倒的なスケールだった。覆い被さられて、ほとんど星空の中に飲み込まれているような錯覚を覚えた。
今、彼らは星空の中にいるのだ。
「――すごいですよ、〈希〉さん」
外の寒さでかじかんだ手を部屋に逃げ込んでストーブにかざしていると、だんだんと指先の感覚が蘇っていく。それと同じように、その感動は時間をかけて彼の心を浸していくようだった。ゆっくりと、深く、心の洗われるような星の美しさが魂のすみずみにまで染み通っていくのを感じる。
「〈希〉さん、これすごいですよ!」
初めて流星を目にした子どもと同じ興奮を体験していた。
年を取るにつれ垢のように溜まってきた汚れもすべて落ち去ったような気がした。
その童心は、夜空の星の輝きと同じくらい純粋だった。鱗の落ちた瞳には、夜空の織りなす紫水晶や水蒼玉の色をしたグラデーション、光と空気の層が無限に重なり合うその深みさえもがはっきりと映った。
感激をそのまま身体いっぱいにあらわす彼の様子に無事を確認した彼女は、自分の発見の誇らしさを改めて感じながら、
「ね、だから言ったでしょう?」
得意げな顔をするのだった。彼は素直に頷いた。
彼はかつて家族四人で山奥へキャンプに行ったときのことを思い出した。そこで見た星空は他のどんな場所で見たよりもずっときれいだった。けれど、それを友だちに話したら、『星なんてどこで見ても同じだろ』と言われたことがある。そのときはそういうものかな、と思ったけれど、今ならばはっきりと分かる。
たしかに、どこから見ようが星は星だと思う。東日本で見ようが西日本で見ようが、あるいは太平洋側でも日本海側でも。星が星であることには変わりはない。けれど、見え方が違うのだ。天候などの気象条件や、その周囲の人工的な照明の密度などによって。そしてなにより、誰と見るかによっても大きく異なる。みんなで食卓を囲んだ方が食事が美味しくなるのと同じように、どんな風に誰と見るのかで、景色は変幻自在に多彩な表情を見せてくれる。だから、紛れもなく彼女と今この瞬間に共有しているこの星空は他の誰が見ている他のどんな夜空ともまったく違う彼らだけのものだった。
星々が秘密の言葉で彼らにだけ向かって、ささやきかけているような輝きだった。
そしてその微かなささやきも聞こえてきそうなほど近く感じた。
手を伸ばせば指先が澄んだ星の光に濡れて、冷たくなりそうなほどすぐそこにある。
空の星も、彼女のことも、今までにないくらい何もかもが近く感じた。
この時間にこの場所でしか見られない天体の神秘と夜という空間の魔法が、2人の距離をぐっと近づけた。どんな願いでも今なら叶う、馬鹿らしい話とは分かっていても、本気でそんな気がしてくるのだ。




