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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
6月18日
79/106

10-2:廃 墟《仲直りと水没都市と廃遊園地》


  ◇  ◇  ◇


 朝に降っていた雨が昼過ぎにやんだ。

 おかげで路面が乾きはしたものの、水たまりはまだそこら中に残っている。そのせいで一面水没したみたいにも見える。ここが廃墟だという先入観がそう見せているだけなのか。あるいは実際このあたりは何かの理由で水はけが悪いのか。

 そんなことを考えながら〈ウォーターフロントガーデン〉に向かうと、最上階からピアノの音がこぼれていた。

「・・・・・・」

 最後に会ったときのことを思い出して一瞬ちょっとだけ気が重くなった。

 それでもビルに入る。彼が階段を昇るたび、ローファーが硬い音を立てる。やがてそれに彼女が気づいてピアノがやんだ。もう1人分足音が増えた。昇っていく足音と、降りてくる足音が、彼の部屋の前で合流する。

「この間は、すみませんでした」

「ううん。私のほうこそ、ごめんなさい」

 謝りたい気持ちを伝えるのには、それだけの言葉で十分だった。

「その、仲直りにってわけじゃないですけど・・・どうですか?また散歩でも」

 彼の誘いに、彼女は微笑んで頷いた。

 それだけの仕草で、十分すぎるほど気持ちが伝わった。


 今回の目的地は、今までで一番遠い場所だった。

 ビルを後にしたときはまだ空は茜色をしていたのに、もうすっかり青紫から群青へとその蒼みをどんどん深めていく。その空の下で水没都市のような廃墟を歩きながら2人は色んなものを目にした。これまでも、たくさんの場所に2人で触れ、景色を瞳に焼き付けてきた。

 道はゆるやかに傾斜していく。遠くに空港の光の明滅が見える。それを横目に歩いていると、自分たちの今歩いている無人の道路も、あてのない夜への滑走路のように思えてくる。

 いつになく言葉の少ない2人は、聖地を目指す巡礼者のように黙々と歩を進めた。

 誰もいない、街灯もない町を歩き疲れてもなお歩く。まるで遠い惑星に迷い込んでしまった宇宙飛行士のように。見知らぬ星の僻地に不時着し、進むことも帰ることも叶わぬまま、ただ淡い夢を見る。それが現実逃避の切ない願望と知りながら、それでも夢を描く。

 見なくてもいいものばかりをあまりに多く目にしてきた寒がりな彼らの恋を現実は暖めてくれはしないということを、もうどこかで知ってしまっているから。

 彼女とこうして肩を並べていると、もう、このままここにいてもいいのかもしれないと思う。

 それがたとえ、朝の訪れることのない常夜の森に足を踏み入れることを意味するとしても。ずっと、終わりのない迷路の中で彷徨い続けるのだとしても、彼女が傍にいてくれるならすべてを失くしてしまってもいいような気さえしていた。

 彼は、予感していた。

 2人で廃墟をあてもなくさすらう旅路が、もうじき終点についてしまうことを。 

 何かから逃れるように足を踏み入れたこの廃墟で、昼間の太陽が照らさない日没と夜の間だけ、彼らは逢瀬を重ねてきた。けれどそれも長くは続かない。先日の件があるためではない。彼に人格上の欠陥があるためばかりでもない。もっと根本的な、つまり、そもそも彼女が彼女の意志によって廃墟を訪れることができるか、もっと直接的な言葉を使うなら、それほどまでに彼女に時間が残されているのか、ということについて、ほとんど確信と呼びたいくらいの疑いが彼の胸には渦巻いていた。

(それが杞憂なら、どれだけいいだろう)

 終わりを意識してしまったからだろうか、それとも彼女への思いに気づいてしまったからだろうか。向き合ってしまえばきっと自分ではいられないと恐れて、蓋をしてきたはずの想いが胸の内側から溢れ出しそうになる。

(このままいっそ時間がとまって、記憶もなくして、そうして同じ場所を何度でも巡り続けることができたら――)

 できはしないと知っているから、祈らずにはいられなかった。

 できはしないと知っていたから、それに本気になることもできなかった。

 きっと、道というものには終わりがない。地球は丸くてどこまで行っても果てがないし、海岸線に沿って歩き続ければ日本を一周してまた同じ所に戻ってくる。けれど、時間には限りがある。一日には終わりがある。目的地に向かって歩き続けている以上は、今夜の散歩にしたって、必ず辿り着いてしまうときがくる。

 ここが2人の終着駅となるのかは分からない。

 けれども2人は辿り着いた。目の前には、かつて遊園地だった場所があった。


 無人の遊園地、というのはその現象だけで物悲しさを漂わせるものがあった。

 夏にあれだけ賑わいを見せていた海の家が、冬になってしまったら誰もいない灰色の空と海の間で、あまりに殺伐と佇んでいるのを子どものときに見つけてしまったときの、あの感覚を思い出させる。

 止まった時計の針のように動かない観覧車の根元にも、回り疲れて力尽きたかのように朽ちていくローラーカップの前にも、これが本当に目玉なのかというほど寒々しく錆び付いた光景を呈するジェットコースターの入り口にさえ誰も並ぶものはいなかった。

 彼ら2人の力でこれらのアトラクションを動かすことはできない。人の訪れどころか電気の供給さえ途絶えてしまっているのだから。どれだけ知識があって力があったとしても、それらを駆使して配電盤をいじろうとも、それでどうにかなる話ではない。

 それはすべてが静止した世界だった。

 この世の果てというものがもし実在するなら、それはこんな風に誰もいない場所なのだろうかと彼は思った。

「怖いのはダメなのに、こういう場所は平気なんですね」

「俺が怖いの苦手だなんていつ言ったんです」

「でも、お化けとか幽霊は苦手ですよね?」

「それは・・・会いたくないだけです。会いたくない相手が苦手な相手だとは限らないでしょう?」

「・・・一体どんなことをしたらそんな間柄になっちゃうんですか」

 そう言う彼女の声が震えていたので、つい盗み見る。

 彼女にも、いるんだろうか。会いたくても合わせる顔のない人間が。けれどもその人はまだ生きているような気がした。きっと彼女は、化けて会いに行く方の立場だろうから。

「さあ?想像もつきませんね」

「・・・嘘ばっかり」

 彼がわざとらしく白を切ると、彼女もクスクスと笑った。

 彼にとってはこの空間で唯一他にも誰かがいることの証である声。その声さえも遊園地に虚しく響いて、青い夜空に吸い込まれて消えていくのだ。けれどまた、沈黙が降り積もるのを恐れるように彼女が言葉を繋ぐ。それは少しでも長く自分の声をこの世に残そうとしているかにも見えた。

「〈樹〉くんは好きなアトラクションとかありますか?」

「もちろん。断然、観覧車です」

「わぁ、ロマンチック」

 真顔で言い切る彼に対し、彼女は惚気話を聴かされた時みたくニヤニヤする。

「なんですかその顔!違います、そういうのじゃなくてですね。電車とかバスとか、座って流れてく景色を見るのが好きな子どもだったんです。それでいくと観覧車なんて縦に動くでしょう?だから初めて乗ったときにものすごく感動したっていう話です」

「コーヒーカップのやつとかはどうですか?」

「嫌いじゃないですよ。さすがに景色までは見れませんけど」

「クラスの男子が男だけで乗って『吐きそう~』って言ってましたよ」

 苦しげな声真似まで披露してくれる彼女が、いつもよりチャーミングに見えた。

 ここにきて初めて見る新しい一面に彼も笑顔になる。

「あれはお互い見つめ合うものですからね。野郎同士で乗っちゃ、悲惨ですよ。

〈希〉さんの好きなアトラクションは?」

 彼がそう聞くと、彼女はその質問を待っていました、と言いたげに満面の笑み。

「コーヒーカップです」

「ちなみにどんなところが好きなんですか」

 そしてここで、彼は彼女の術中にはまった。

「もちろん、お互いの顔を見つめ合うんです」

 そう言って彼の手を取る。そして駆け出す。手を引かれながら、彼女が自分からここまで積極的になるのは、鍵を渡したとき以来だな、とそんなことを彼は考えていた。

 彼女の小走りに目指す先には、たくさんのコーヒーカップが並んでいた。


 

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