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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
6月5日
75/106

9-7:ホーム《龍造寺建寛――参》

それがたとえ歪であれ価値観は価値観なのだ。自分で築き上げた壁のために外の光が届かなくなり、暗く湿った闇の底で孤独を腹の中に抱えたまま暮らすしかなくなるとしても。それが自分をも相手をも傷つけてしまうことになるとしても、それに至るまでの道が誰にでも必ずあったのだ。

 痛みに苦しみ、涙をこらえながら必死に壁を築くその様はきっと真剣そのものだった。どれだけの痛みの深さだったのか、その程度をはかりしることなどできようはずがない。けれどもきっと、もうこんな思いはしたくないと強く誓うほどに、本人にとっては大事なことだった。

 誰かにとっての大事な壁を壊そうすることができるのは、それを知りもしないからだ。

 その苦悩の深さを知ろうともしないからだ。

(こいつは今、おれの正義の砦を破壊しにかかっている)

 それはもはや、利己的な防衛本能ですらあった。

 けれども認めるわけにはいかなかった。自分と違う考えなど。自分以外の正義など。たとえ建寛自身さえ心の底でその理想を渇望していたとしても。

 建寛は綺麗事だと言い放った。理論的じゃないと突き放した。

 ところがこの男はまるで動じない。

 そして最後に平穏を持ち出した。この男はずっとずっとそれを大事にしてきていた。建寛とてそれを見てきた。そしてそのためにこそ建寛も戦ってきたはずだった。

『でも、そんなものはどこにもないし、望まなくてもよかったんだ』

 ――それなのに男は、あまりにもあっさりと自分の最大の願いを手放した。

 そして、それよりも大切なものがあるのだと言った。

 男は建寛の戦いと思いやりに感謝しながらも、自分が今まで大切にしてきたものをただの幻と切り捨ててまで進もうとする姿を見せた。そんなことよりももっと大事なものがほかにあるのだという。あのここに来たばかりの乱暴者を受け入れ得るためにそこまでする。しかもその理由が、見捨てられないから、助けたいから、放っておけないからではない。

『最初から俺はばかだと気づいたんだ』

 自分が今まで大事にしてきたものを投げ打ってまで他人を受け入れようとする理由が「自分がばかだから」。

 そんな、なにを、それこそ馬鹿な話しじゃないか。

 そして建寛は自分まで馬鹿にされていると感じた。

(じゃあ、今までのおれの苦労と戦いはなんだったんだ)

 お前一人はそれでさっぱりしたかもしれないけれが、幻を見ていたお前を思って振り下ろしてきたおれの拳はどうなるのか。じゃあ、おれが今まで正義のなのもとに正当化してきた暴力はなんだったのか。

 他人を理解しようとすることは新しい価値観を受け入れることだ。

 それは絶えず自己否定に似た恐怖を伴う。いままで壁を作ってきたことは間違いで、あの涙ぐましい努力もバカバカしい滑稽な独りよがりだと言われてしまうようで。自分の人格が生まれ変わるときには、それまでの自分が象徴的な意味での死を経験してしまうような恐ろしさがある。

 だから人は分かりたいと思いながら期待を裏切られることに不安を抱き、分かってもらいたいと願いながらも本当の自分を見せることに恐怖する。愛と理解に飢えれば飢えるほどますますそこから遠ざかっていく。

(こいつの言うことを受け入れるわけにはいかない)

 そもそも。

 この世に法律と警察と軍隊が誕生してからというもの、それらが必要とされなくなった試しなど一度もない。その紛れもない事実が何よりも有力な証拠ではないか。人類はいつだって罰や武力による威嚇を必要としてきたし、それを手放すことなどこれから先だってまずありえない。だから自分は間違っていない。治安を乱す輩に罰を加えようとしただけなのだ。

 そうだ。

 もし自分から正義という金科玉条を剥がしとってしまったのなら、暴力に対し暴力で応じたただの無法者とほかならない。かつて自分を痛めつけることを楽しんでいたあの憎き両親や、メディアの垂れ流す犯罪者やテロリスト、それらと何も変わらない。

 それどころではないかもしれない。それじゃ、それじゃまるで――

(ただの人でなし――いや、怪物だ)

 それとも、自分はただの怪物なのだろうか。

 たとえ血に逆らおうとしても、どれだけ過去に立ち向かおうと、運命を覆すことなどはできないのだろうか。だったら、おれが今までやってきたことは、目指してきたものは、一体――


(おれはおれが今まで排除してきた者たちと変わらないのか。おれこそが最も重く裁かれるべき悪なのか)

 鉄面皮に亀裂が入るのを感じた。

 〈××〉はなんて酷いやつだろうと思った。

 他人の正義を踏みにじってまでこいつは自分の我を通そうというのか。そんなにうまくいくはずはない。ありえないのだ。人は弱く、現実は無情なのだ。だからこそ強く己を律さなければならない。そうだ。そうだとも。そのはずなんだ。おれは間違ってなどいない。

 弱さとは悪であり切り捨てられなければならない。

 そうでもしないと生きていくことさえままならない。おれの正義は、おれが、他の人々が生きていくためには必要なことなんだ――。

 頭でどれだけ理屈をこねようと、しかし「心」ではもう敗北を悟っていた。

 建寛の主張とて完璧とはほど遠いのだ。

 本当は、突こうと思えば突ける穴などいくらでもある。驕り高ぶった傲慢な正義などいともたやすく崩壊させることができる。それなのに、相手は一撃も見舞ってこない。守りに徹することも攻撃に転じることもない。その手を握り拳として振り下ろすこともしないし、その指で他人の欠点を言い当てるようなことさえしない。どれだけ殴られて突き放されても、その手はずっと、開かれていて、握手するためだけに差し出されているのだ。

 話の中身から、信じられないほど思慮深い人間であることは間違いない。だとするならば、龍造寺建寛の弱点などいくらでも見抜いているはずなのだ。にも関わらず、それを武器として用いるどころか、冒頭で誤りだったと謝罪までした。そう、そうだった。あのときから既に相手は自分の立場をこれ以上ないくらい明確に示していたのだ。

 つまり、誰のどんな弱さであろうとも受け入れる覚悟がある、と――。

 人の不完全さを認め、そのうえで相手にちゃんと敬意を払うと宣言したも同じだったのだ。建寛はそのことに気づいたとき〈××〉という人間が途方もなく大きく見えた。

 一体あの優しげな瞳の奥でどれほどの絶望を目にしてきたのだろう。あの物静かな口元は何度泣き叫びたい気持ちをぐっと堪えてきたのだろう。あの穏やかな雰囲気の向こうで、どれだけ激しい葛藤と苦悩に身を焼かれながら、それでも他人のせいにすることなく戦い続けてきたのだろう。


 

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