9-2:廃 墟《あまりにも幸せすぎる悪夢》
◇ ◇ ◇
日中晴れていたとはいえ、さすがは梅雨。
午後になってから急に天気が崩れたかと思うと昼間のことが嘘のように降り出した。そのせいで空気も冷やされたので、少し肌寒いくらいだった。
けれども彼は、これまでのように気が滅入らされずにすんだ。街に咲く色とりどりの傘の模様を思うことができた。肌寒く、水気を含んだしめやかな空気だったので、歩いているだけでまるで淡い水の中を泳いでいるようでもあった。
雨に叩かれる透明な傘の中。彼はその状態とそこから感じる世界を気に入っていた。
雨は世界によく馴染むノイズ、という表現はちょっと矛盾をはらむかもしれないけれど、そういう風に呼びたい独特の風合いで、音や景色を曖昧にして染めていった。
ふだん硬質な線であまりにも明確に輪郭を描かれてしまったがゆえに乾いて殺風景にさえ見える世界。それを水性の膜で包んで潤いをもう一度与えてくれるようなものとして感じられた。こういうときの雨の感じは優しさ淋しさによく似たイメージを持つ。暑苦しくない、ひんやりとして透明な連想は彼女に教えてもらったものだった。
そういう意味で、彼女はまぎれもなく、世界の見え方をほんの少しでも前向きにしてくれた。それは彼の世界を変えてくれるのとほとんど同じだった。
なので彼はこの日も、彼女が部屋の前で待っているといけないと思い、心持ち急ぎ足でやってきたのだった。けれど、その姿は見当たらない。
(このあと来るんだろうか)
この雨の中、まさか最上階にいるとも思われない。いるのだとしてもここ最近の雰囲気から察するに挨拶くらいしてくれそうなものだ。とすると、いないんだろう。その結論に行き着くと、ちょっとだけ、当てが外れたような落胆があった。
それはそれとして、彼はここでの日課をこなそうとした。
けれど雨天なので鉢植えに水やりをする必要は当然ない。ソファに腰掛けてまたいつものように図鑑を開くけれど、なんとなく気が散って思うようにて入り込めない。
(なんか、落ち着かないなあ・・・)
別に無理してここにいる必要もなし。帰って宿題をさっさと片付けて久しぶりに早めに寝てみるのもいいかもしれない。
そんなことも思いつつ、けれどもやはりなんとなく残っていたい。
(〈希〉さん、今日は来ないのかな)
自分でも心がざわつく理由はわかっていた。
低気圧だとか疲れだとかのために神経が乱れているわけではない。彼はつい期待してそわそわしてしまっているのだ。ここに来ればまた彼女と会って話しができると。
(思えば、ここに来ると毎回とは言えないまでも割と高頻度で顔を合わせるな。生活サイクルが同じなのか、俺よりも通い詰めてるのかな)
会えないときはそれを補うように彼女のことばかり考える。今頃なにをしているのだろう。
1人を望んでいたはずなのに、平穏を愛していたはずなのにこんなに胸が騒ぐなんておかしな話だ。
(でも、平穏が本当に俺の望む「しあわせ」だったんだろうか)
ちょっと脇道に入るつもりが随分底の深そうなことを考えてしまった。まあ別になんだっていいか、と3人掛けのソファに移動して横になる。最近くよくよ考えすぎていたくらいだしたまには頭を休めなくちゃ。そもそも息抜きをしにここに来ているんだし。
そのまま目をつぶると不思議なくらいすんなりと眠りに入った――。
* * *
夢を見ている。
彼は津波に壊される前に住んでいた家にいた。
そこには記憶のままの両親の姿と、現在の妹の姿とがあった。そして日曜日の昼下がりみたいな幸せに満ちた居間のテーブルには、たくさんの料理が並んでいる。天気は最高にいい。大きな窓から入る温かな日差しが部屋を明るくする。どこからか軽やかな小鳥の声が聞こえてくる。絵に描いたような幸せだった。
けれど彼は家の中でも制服を着て靴を履いたままだった。部屋の端っこに立っていて、開かない大きな窓の外を気にしていた。
「〈××〉、もうご飯できてるわよ」
母が手招きで彼を誘う。その背丈を高校二年生の彼はもう追い超してしまった。現実の母は、そんな彼の姿をまだ見たことはないけれど。
ひとりだけちょっと遠い席に着いている父は白い、というより薄い顔色をしている。顔だけでなく、よくみると身体全体、存在そのものがそうだった。そして何も言わずにこやかに、ただただ微笑んでいる。彼は吸い込まれそうなほど、その姿を見つめていた。
「お兄ちゃんってば なにをそんなに気にしてるの」
今朝と変わらない姿の妹が彼の手を取りテーブルにつかせる。引っ張られるようにして席に着いた彼を、みなが温かく迎え入れてくれる。
(もう、いいか。些細な違和感なんてどうでも)
ああ、なんだか嬉しいなあ。それが素直な感想だった。
こんな風にまたみんなそろう日が来るなんて、まるで夢みたいだ。彼は久しぶりに満ち足りた気分を味わった。あの日からこれまでの全てがなかったことにされたみたいだった。
彼の犯した罪も、その後の這いつくばるようにして進んできた日々も、すべて。そして笑顔でレンゲを手にし、こんもり盛られた炒飯を口に運び――
* * *
「・・・・・・・・・・・・」
夢を見ていた。
雨の音が聞こえてくる。ひどく生々しい夢だった。まだ料理の香りが鼻孔に残っているくらいだった。さっきまでそこにいた両親の姿を、つい探してしまいそうなほどだった。手を伸ばせば届く場所にいた。こんなに遠く離れてしまったというのに。
頭は覚めているというのに、心の欠片がまだ夢の中にあるみたいな感じがする。
あの部屋の中にに置き忘れてきた瞳を通して、まだ幻を見ているような。彼はなにかつかえたみたいに胸がいっぱいになった。夢で会えたことが嬉しいのか、夢でしか会えないことが悲しいのかも分からなかった。たまらないくらいに幸せで、そして手放しで泣きじゃくりたい気分だった。ただもう言葉にならない気持ちで、感情のすべてを誰かにさらけだしてしまいたかった。
(手を伸ばせばよかった・・・)
心からそう後悔した。
あの日だって、さっきの夢の中でだって。
すると――
「・・・大丈夫ですか?」
突然の声。飛び起きて振り返ると、彼の部屋の窓辺に彼女がいた。
「勝手に入ってきてしまって、すみません。鍵開いてたので、つい」
激しく動揺する彼と裏腹に雨のように落ち着いて話している。けれどもそれが返って彼を攻撃的にしてしまった。
「どうして勝手に入ってきたんですか」
声を荒げることはなかったけれど、脅すような押し殺した声になるのを抑えられなかった。彼女は「すみません」ともう一度謝って、
「でも、泣いてるみたいだったから」
指摘されて寝ぼけた目元に触れると、濡れた感触がする。
窓から入ってきた雨のせい――ではないのだろう。泣き顔を、それも寝ている間に勝手に見られたと知って、彼の心はますます冷たく閉ざされ、怒りが炎々と燃え上がった。
「なにか悪い夢でも見ていたんですか」
「・・・ええ、そんなところです」
あくまで心配そうに語りかける彼女にぶっきらぼうに返す。実際それは悪い夢だった。あまりにも幸せすぎる夢だった。ほかのどんな恐ろしい悪夢よりも胸にこたえる情景だった。
初めて見せた荒々しい彼の態度に彼女は不安よりも悲しみを覚えた顔をした。それが余計につらかった。自分はなんてことをしてるんだと思う反面、心が言うことを聞いてくれない。
「当たり散らしてすみません。でも出て行ってください。これ以上いられても八つ当たりしかできません」
彼女から目を逸らしながらそう言うと、それ以上は何も言わずおとなしく去って行った。
(・・・最悪だ)
なんてことを言ってしまったんだ。そしてあまりに皮肉すぎた。
願ったとおりに会えはしたけれど、その状況も気分も最悪だった。今日だけは、こんなところこなきゃよかった。今日だけは、〈希〉さんに会うんじゃなかった。
せっかくこの間はあんなに打ち解け合えたのに。そしてだからこそ、彼女も素直な心で彼の身を案じてくれたのだろうことも分かる。
(それなのに、俺は――)
最悪の気分でも彼は手早く帰り支度を始めた。彼の精神状態に関わらず、時間は過ぎるし、仕事は彼を待ってはくれない。今日の料理当番である以上、こんなところでこれ以上悩む時間は与えられていなかった。




