8-12:ホーム《愛する妹と憧れる父の背中》
「相変わらず、意地っ張りなんだね」
そんな彼の思いとは裏腹に妹は寂しそうな顔になった。
打ち明けないことで彼が妹を頼っていないと誤解せてしまったろうか。彼はなんとか言葉を繋ごうとしたけれど、それより早く妹が口を開いた。
「タツヒロも、タイガも、お兄ちゃんだってそうよ。なんでそんなに無茶なことばっかりやるの」
痛ましい、縋るような瞳で彼に尋ねる。
『もうやめて』と言われているような気がして彼は引け目を感じた。こんな顔をさせないためにやってきたはずのことが、よりにもよって一番仇になっているような気さえした。
――〈不良〉はこれまで色んな場所をたらい回しになってきたのだという。
その事実が示すのは、今まで多くのプロたちが関わってきたにも関わらず、皆最終的には匙を投げてしまったということだ。彼は考えた。ほかの人たちが諦めたことを自分がやろうとするのは、おこがましいだろうか。
けれど、彼とてできると信じているわけではない。それでも限界にぶち当たる前から諦めたくなかった。誰のことも信じられなくなる絶望感と孤独なら彼だって知っていたから。
「このあいだ、建寛にも同じことを聞かれたよ。そのときは仲良くなれるかもしれないだろって答えた」
妹をこそ想って隠してきたことだけれど、こんな表情を前にして心にしまった本音のひとつも話さないわけにはいかなかった。
「でも、本当は俺にもわからないんだ」
より正確に言えば「分からなくなってしまった」のだけれど。
「ただ――恵里菜、これだけは聴いてくれ」
うつむく妹に彼は熱をこめて語りかける。
こんなことを言うのは卑怯かもしれないと思いながら。
「俺たちの父さんは、どんなひどい仕打ちを受けたとしても、目の前の人に背を向けるようなことはしなかった」
それこそが彼の憧れる、追い続けている遠い背中だった。父という言葉、ここにいない、もう二度と会えない人の名前に妹がはっと顔を上げる。
「俺もそうありたいと思うんだ」
信じてくれ、などと口が裂けても言える立場にはない。しかし、もし、もしもこの思いが届いてくれるなら――
「うん、わかった」
そういう妹の、母に似た目元から一筋の透明なものがこぼれる。
そして、その顔は涙を流しながらも精一杯の笑顔を浮かべていた。
「じゃあ、私も応援してあげる。お兄ちゃんが選んだことなら私もそれについていく。だから、いいよ。私のことは気にしないでも。全部1人で背負い込まなくても」
そこには、おませで面倒見のいい、ちょっと年上を斜めに見る妹の、健気であたたかい気持ちが溢れていた。
そしてその彼の苦しみを見透かしたような言葉を聴いてこう思った。もしかしたら、妹はとっくに彼が犯してしまった罪と、その償いのために生きてきたこれまでのことにもう気づいているのかもしれない、と。あるいは事実として知っているのでなくとも、なにかの予感くらいはあるのかもしれない。
「ありがとう」
彼は万感の思いを胸に、決して語り尽くすことの出来ない想いをそれでも言葉にこめて声を発した。
(ありがとう、恵里菜。こんな俺のことを兄と呼んでくれて。こんなろくでなしのことを信じてくれて)
そして心の中で張り裂けるような思いで詫びた。もう何万回と繰り返してきたことだった。
「よし、恵里菜も見ててくれ。大河のやつもびっくりするくらいの懐の広さで、あいつの全部を受け入れてやる」
彼はふたたびおどけてみせる。
――家族と離れ、ここで生活するようになってからというもの、かつて共に暮らしていた両親のことを話すときには、きまって兄妹の間になんとも言えない気まずさやもの悲しさが漂った。彼が過去を引きずっているためばかりではない。
その家族がどんなに懐かしく、素晴らしく、愛おしかろうと、今この瞬間にそばにいることはおろか、顔を見ることさえ叶わないという事実がどうしても残酷な現実を2人に突きつけた
だから自然と、必要なときを除いて両親に言及することは少なくなっていった。
そんな日々の中で、彼は妹がいつか笑って家族のことを話せるようになる日のことをずっと切に夢見てきたのだった。そして今、改めて想いが強くなるのを感じた。
いつかすべての過去の痛みや悲しみから解き放たれるその日が来るまで、もう二度と下を向くまいと彼は思った。
妹は、涙をぬぐってかたわらの絵本を手に取り、それをパラパラめくりながら呟く。
「ねえ、お父さんの話して」
「いいよ。あれは恵里菜が初めて三輪車に乗ったときの話しなんだけど――」
「えーまたその話?」
「これそんなにたくさん話したっけ」
「私を見るのにあんまり夢中で池に落ちたやつでしょ。お兄ちゃんいつも真っ先にその話するじゃん」
「ごめんごめん。じゃあいつの話しがいい?」
「うーん、そうだなあ~」
昔語りをしながら夜は更けていった。
結局〈わんぱく〉は絵本を取りに来ることはなく、彼が風呂からあがって部屋に戻ると妹がその絵本を開いたまま眠っていた。起こさないようにそっと毛布をかけながら、彼は妹の顔を見つめた。
ふだんはしっかりしているところもあるけれど、その安らかな寝顔はなんてことはない、ただの幼い子どものそれだった。
(ちょうど今の恵里菜と同じ年のときだったな)
もしあのとき俺がしたのと同じ質問を、妹にされたらなんて答えよう。
質問の本来の答えなら、なんの問題もなく伝えることができる。
問題は、彼についての秘密をいつ、どんな形で伝えるかということだった。今はまだよくても、いつか伝えなければならないときがくる。
妹は、さきほどついてきてくれると言った。それは素直に嬉しかった。
けれど、彼の願いはそのまったくの逆だった。これからの妹の人生が彼が歩んだのと同じ道を辿らないようにすることこそ、彼が兄として妹に大して果たすべき最も重大な責任の1つだった。
(もっとも、恵里菜なら大丈夫か。本当のことを知ればきっと苦しい思いをすることになるだろうけれど、俺のように道を踏み外したりはしないだろう)
この笑顔を守りたいと彼は思った。
それは紛れもなく両親の願いでもあったけれど、彼の何よりの願いでもあった。その晩、彼は一睡もせずにずっと雨雲を、その向こうにあるはずの夜空の星を見ていた。




