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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
5月28日
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8-10:ホーム《光る轍と最短の遠回り》


  *  *  *


 何気なく思い出して窓の外に目をやる。

 例のカタツムリはまだ石の上にいて、なおもアマガエルの方へと這いながら進んでいた。

 そして、その距離は明らかに最初に彼が見たときよりも進んでいた。

 それは決して見間違いなどではなかった。

 カタツムリが這ったあとに残るキラキラと光る轍がそのことを証明していた。

(ちゃんと進んでいたんだ)

 目蓋の開かれる思いがした。

 たとえ、一瞥して分かりにくい道のりであったとしても、じっと見つめていなければ止まっていると勘違いしてしまうほどのゆっくりとした歩みでも、着実に、諦めずにこのカタツムリは進んでいたのだ。誰に信じられずとも、なんの応援も受けずとも、ただ1人黙々と。大きな渦巻きを背負って這いながらでも進んでいたのだ。

 もしかしたら、とそのとき思った。

 このカタツムリなら、いつか辿り着けるかもしれない。どれだけの時間と労力を費やすことになったとしても、諦めさえしなければ、きっと――

(俺もいつまでも立ち止まってちゃいられないな)

 彼はその姿に胸を打たれた。

 人を励ますのにきっと言葉など必要ないのだ。己に課したものに挑むものの姿は、ただそれだけで見る者に勇気を与える。それは雨の日や強風の中でジョギングをする人の姿でも、通勤電車の中で資格取得の勉強をする人の姿でも構わない。たえず諦めないための希望を探す人の目は、それだけで勝手に力を得ることが出来る。

 こんな風に自分も進んでいたのだ。

 足下の小石や遠くの山頂ばかり気にして見過ごしていただけで、実は自分もゆっくりとした歩みで、けれど確かに進んできていたのだとそのとき気づいた。 

 彼はずっと、自分と戦い続けてきていた。

 戦うことが避けられない定めならせめて「誰と戦うか」、「なんのために戦うか」だけは自分で決めようと考えた彼は、大切な人たちの力となるために他人ではなく自身の弱さを相手として戦い、向き合おうとしてきた。

 そしてそのすべて過ちであるとは今も思わない。

 ただ、打ち負かそうとばかりしてきたその弱さや愚かさの中にこそ、今自分が必要としている手がかりがあるのかもしれないと気づいたのだ。そしてそのことに気づけたのは、今まで長いこと孤独の鏡の中で、欠点だらけの自らと戦い続ける葛藤があったからにほかならない。

 ここまで続いているあの長い道のりこそ、きっとここに辿り着く最短の道だった。

 あのカタツムリと同じなのだ。

 堂々巡りをしているつもりでいたけれど、実は螺旋階段を一歩ずつ登っていたのだ。それに気づいた彼の瞳は、今までと違う窓の外の景色をとらえた。彼の目の前で、見慣れた世界が生まれ変わろうとし始めていた。


 迷いが消えてさっぱりした気持ちで背中を伸ばしていると、絵本を抱えた〈わんぱく〉が部屋の中に入ってくる。

「ねー、これ読んで」

「いいよ。じゃあこっちにおいで」

 晴れやかな気持の彼は快く引き受ける。ベッドに並んで腰掛けて読み始める。

 ところが、当の本人は上の空の様子だった。

「学、眠くなってきた?」

 黙ったまま。

「なにか悩んでることがあるの」

 そう聞いてみると、こっくり頷く。

「・・・明日、行きたくない」

「行きたくないって、幼稚園?」

「うん」

「そっか、行きたくないのか」

「・・・・・・」

 やけに口数が少ない〈わんぱく〉だった。

 なにか言いづらいことを隠しているというより、自分でもなにをどんな風に伝えたらいいのかわからないといった様子に見える。

「なんか嫌なことがあったとか?」

「ううん」

「自分でもよくわかんない?」

「・・・うん」

 理由もないのに行きたくないと駄々をこねている、などとはさすがに受け取らない。

 なにがしかの不調や不安があってそれが〈わんぱく〉を憂鬱にしているのだろう。そして本人が幼稚園に心当たりがないということは、ホームに原因があることは十分に考えられるし、彼にしても思い当たる節があった。

 〈不良〉や〈ガリ勉〉とのピリピリした会話はできるだけ年少組の耳に届かないよう気を配ってきたつもりだった。けれども子どもは周囲の空気に敏感だから、もしかしたらこのホームの中の緊張感やギスギスした空気を感じ取っているのかもしれない。

 そうして彼らの抱える問題をこのような形で提示しているようにも思えた。

 罪のない小さな子どもにそんな苦しみを背負わせていると思うと胸が痛んだ。

 そうして、〈不良〉とのことにさっさと片をつけてしまいたくなる誘惑にかられるが、安易な手段に走るのがかえって事態を悪化させるのは彼から見ても明らかだった。

「・・・そういう日もあるよな、たまには」

 彼には頭を撫でてやることしかできない。

「休んでいい?」

「だめなことないさ」

 辛いときには休んでもいいと伝えて安心させる。

 彼としても休ませてあげたいけれど、休み癖がついてしまうことも懸念としてはあった。

「でも、どうしても行けない感じ?」

「・・・・・・」

「どうしても頑張れないときは休んでいいよ。休むのだって大事なことだから。だからさ、明日一日だけ頑張ってみるのはどう?そして、明日行ってみて、やっぱりしんどかったら、あさっては休んで一日中家の中で好きに遊ぼう」

「明日だけ?」

「うん」

「あさっては休んでもいいの?」

「しんどいときはしょうがないさ」

「じゃあ、行く」

「よし、えらいぞ」

 また頭を撫でる。それから思いついて、

「飴食べる?」

 と聞いてみると、にわかに元気が出てきて

「うん!」

 あっという間に笑顔を取り戻す。通学鞄のなかから袋を出して開いている口を向ける。

「好きなのとっていいよ」

「一個?」

 なにやら物欲しそうな顔で誘惑してくる可愛らしさについ負けて、

「うーん、二個」

「やった!」

 いそいそと選んでマスカットとメロンを取っていく。緑が好きらしい。ずんだグリーンの色だからだろうか。

「よし、そしたら宗介さんにもそう伝えておいで」

 明るい顔になって去って行って――そしてすぐ戻ってきた。

「ん、どうしたの」

 〈わんぱく〉は小さな手の中に折り紙で作った赤い花を握っていた。それを、はい、と彼に渡す。


  

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