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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
5月28日
64/106

8-8:廃 墟《ピアノで雨を分かち合う2人》


 と口火を切ると、

「――?ピアノ弾けないんじゃなかったですか」

 怪訝な顔をしながらも席を譲ってくれる。

 それから彼はいかにも厳粛らしい素振りで、生真面目な顔を作りながら着席する。

わざとらしい大仰な仕草で演奏し始めた曲は、

「・・・・・・・」

 タララーララ、タラタタタラー。という音がたどただしく響く。そのうえピアノ自体ももっさりした音をだすのでなおさらシュールだった。そう、彼が弾いたのは『チャルメラ』だった。・・・曲と呼んでいいのか知らないけれども。

 その彼の仕草と演奏のあまりの落差に彼女も笑い出して

「それよく男子がやってました」

 と言うので、

「これが俺の十八番なんです」

 と返してみる。

「十八個もレパートリーあるんですか?」

「もちろん。数えてみますよ?チャルメアと、チャルメイとチャルメウと・・・あ、これじゃラが十八番目にきませんね」

 おどけながら指折り数えて見せると、彼女はとうとう吹き出した。その大笑いが少し収まってからプロらしい指摘をする。

「しかも、音程もずれてましたよ」

「それはご愛敬。まあ、前座ですから」

 彼が席を立つと彼女が曲げた自分の腕をとんとん叩きながら、

「本物の演奏を見せてあげます」

 意気揚々と席に着く。

 直前まで笑い転げていたというのに、さすがは長年の経験と実力を有するだけある。しゃんと背筋を伸ばし、鍵盤の上に指をそっと置くその凜とした姿は、それだけで観客をぐっと演奏の中に引き込んでいく佇まいであった。

 なにかすごいものを体験することができるぞ、という期待があたりの空気をしん、と張り詰めさせた。沈黙し緊張した耳に、2人を包む雨音が深い足跡を残していく。

 そして次の瞬間――その雨音が途切れたかと思われるほど緊張が高まったある一瞬――まるで魂が抜け出したように彼女からおよそ表情と呼べる色彩がふっと消えた。その代わりに別のなにかが降りてきて、彼女に取り憑いたかのように瞳の奥に、すん、と光が宿った。

 そして雪を思わせるほど白い指がひとりでに音を紡ぎ始めた。

 比喩ではなく、実感として彼にはそう感じられた。まるで指の一本一本が自立した意志をもち、あるいは音楽の神か霊かに導かれてでもいるかのように人間離れした異様な雰囲気を纏っている。そうとしか形容できないほどのものだった。どこまでも自我が滅却され、際限なく感情が濾過された調べだった。

 ――『心を殺して戦地に行くような気持ちで弾いていたんです』

 たしか彼女はこの間そんなことを口にした。

 もちろん、それは期待という重圧を背負わされた過酷な空間へと足を踏み出す彼女の本心には違いないだろう。けれど、彼に言わせるのであれば、それは自らを贄としてなにか芸術という宇宙の真理にもっとも近い存在に捧げることを意味するのだった。

 彼はまったく圧倒されていた。

 何が女王だと正直思った。そんなヤワな代物じゃない。もっと、目に見えないほど大きくて名付けようのないほど高次な代物だ。そして周囲のそういう畏怖の念こそが彼女をして女王たらしめ、孤独の檻の中に閉じ込める要因となったのだと知りつつも彼はその人物らに同情を覚えた。

(この曲は・・・どこかで聞いたことがある・・・『ジムノペディ』――だったか)

 とはいえ名前など、どうでもよかった。

 たとえ聞き覚えるのある曲だったとしても、ここまでの感動を覚えたのは初めてだから。

 ピアノの音色によって描き出される彼女の心象風景は、痛ましいほどに透明で泣きたくなるほどに美しかった。それは悲しみに磨かれた透明さだった。置き所のない感情を演奏に託すしかなかった彼女の、しかし自分という存在の器を抜け出した、信じられないほどの清らかさだった。

 しまいに彼は言葉も忘れてほとんどその演奏に飲まれるようにして聴き入った。曲の紡ぎ出す世界の中へと深く、深く、降りていく。海の底に誘われているかのようだった。それだけでなにか冷たく澄んだものが胸を通り抜けていくような心持ちがした。

 もう、ドレスは着たくないのだと彼女は言った。

 それだけ演奏会やコンクールには苦い思い出があるのだろう。あるいはピアノを嫌い、疎み、憎しみを募らせ自分から切り離そうとしたことさえあったのかもしれない。

 けれどもきっと、彼女はピアノから完全に距離を置くことは出来ないだろう。その神さまからの祝福が彼女にとっては呪いでしかなかったとしても。

 そして、彼女の方にも自分では気づいていないだけで、ピアノに対する愛情のようなものが実はあるんじゃないだろうか。

 その、ピアノが好きだという純粋さは、過酷な競争と意味や目的に縛られる現実の中で彼女自身の手によって意識の底へ沈められ、蓋をされたのかも知れない。――けれど、どうやってもそれは消えはしなかった。底のほうでへばりついていて彼女が光を投げかけて見つけ出すのをずっと待っていた。ピアノが彼女という演奏者を必要とするように、彼女もまたピアノを必要としていたのだと、その演奏が彼に語りかけている気がした。

 やがて空間にも彼の心の中にも長く清らかな余韻を残し、演奏が終わる。

 息を吹き返したように感情豊かな顔つきになった彼女が、やはりはにかみながら、もじもじとこちらを気にしているのを見てそのことにやっと気づく。

「・・・どうでしたか?」

 さっきとは打って変わって別人のように人間味がある。雪のように白かった頬が今はリンゴみたいに赤く染まって、こうしてみると、素直に可愛らしいというか、どういうわけかドキドキした。

「あ、すごかったです。ほんとうに」

 彼の方も急に感情のスイッチが切り替えられて頭の中がしっちゃかめっちゃかしていた。

 我ながら語彙が乏しくなるのに呆れながら、それでも舌はしどろもどろのままなんとか感動を伝えようとする。

「すみません。うまく言えないけど、でも――」

 嘘偽りのない正直な言葉は、すんなりと話すことができた。

「聴けてよかったです。聴かせてもらえて、すごく嬉しいです」

 ありがとう、と彼が礼を言うと彼女のほうは相変わらず真っ赤なまま、むにょむにょとお辞儀を返す。

「・・・お役に立てたのでしたら」

 その様子を見て、さらに彼の中で彼女に対する愛おしさが膨れあがるような気がした。

 感動した、というのも正直な感想だけれど、やはりそれ以上に嬉しかった。

 彼女が疲れた彼のためにピアノを弾いてくれたことはもちろん、捨てたはずの自分のもうひとつの顔をこそっと彼に見せてくれたこと。今目の前で顔を真っ赤にしていること。そうして何より、彼女と出会い、こうして共に時間を過ごせていることそのものが、何物にも代えがたいとても大切な喜びだった。

 もはや、これ以上はこの感情に嘘をつくことはできなくなっていた。

 失うことを恐れるあまり、幸せを遠ざけようとしたり、過去を引っ張り出してきては自分に幸せになる資格などありはしないと言い聞かせてきた。けれども、口の中で飴を転がすような甘い蜜を味わうだけの慰めのために彼女と接することはできなくなりはじめていた。

 ――自分も彼女の役に立ちたい。素直に素直に思った。

 それから2人は、懐メロやCMを弾いたり歌ったりしながら、あるいは思い出話を交換しながら他愛ないささやかな幸せを分かち合った。卒業式の日に机に彫られた記念のような彼らは、借りた教科書に落書きをして返すみたいなやりとりを繰り返して少しずつ相手の存在が自分の中に刻まれて、残っていくのを感じていた。

 ずっと雨のまま変わらない空の色が時の経つのを忘れさせ、カンテラの油が底をつくまで、どれだけの時を過ごしたのか気づきもしなかった。

 そうしてすっかり日も沈み、来たときよりも暗い道のりを、ひとつの傘の下にそっと身を寄り添わせ、来たときよりも明るい心で帰ったのだった。



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