8-7:廃 墟《苔むした音色の黒いピアノ》
音楽室を目指して校舎を歩く。
卒業式の日というだけあって、目に入る教室はどれも様々に彩られ飾り付けられている。いかにも明るくて祝福に満ちた光景だけに、それらが無惨な姿になったのを目にする彼らの悲哀もそれだけ切ないものになった。そうした感傷に浸りながら廊下を進んでいくと、教室棟の外に出た。
「英語の授業のときにL.L教室とかに入れると、けっこうテンションが上がってたことを思い出しました」
「わくわくしますよね、パソコン室とか。私は空き教室が倉庫代わりに使われて色んな書類とか積まれているのを見ると、どうしてもそこに入ってみたくなってました。
誰も入ってるのを見たことがないからなんか好奇心をくすぐられるんです」
「すごくわかります。どうやら〈希〉さんも、その頃にはすでに廃墟趣味の下地ができつつあったみたいですね」
彼がしきりに頷きながら相づちを打っていると、
「でも〈樹〉くんが一番好きなのは技術科室でしょう?」
「わかりますか!そうなんですよ、あの木材とかおがくずの匂いとかがたまらなくて、旋盤とか糸鋸使った後なんか、ズルして掃除当番代わってもらうくらいでした」
「すっかりできあがってしまってたんですね」
わんぱくな子どもを見つめるような穏やかさで彼女が目を細める。
「他のみんなは理科準備室とかに憧れてて、それもわかるんですけど、俺はやっぱり技術科室が一番でした。〈希〉さんは特に気に入ってた場所とかは?」
「私は第二教室棟ってところの非常階段が好きでした。そこの踊り場は学校敷地内のなかで唯一ほかのどこからも見えない死角になってて、その隠れ家的雰囲気が好きで、ときどき意味もなく立ち寄ってはぼーっとしてました」
「なかなかニッチな好みをお持ちなんですね」
「・・・お恥ずかしい話ですけど」
「そんなことありませんよ。楽しいです、こういう話をしていると」
「なかなか機会がありませんもんね。私も初めて人に話した気がします」
マニアックな話に花を咲かせているとあっという間に目的の音楽室に辿り着いた。
3階にあるだけあって、ここは被害を免れていた。土や泥も動物たちの痕跡もほとんどなかった。内装も手つかずのままで残っており、埃をかぶってさえいなければ何の違和感もなかった。
「ここのは弾けないこともなさそうです」
ピアノを一目見るなり彼女が言う。
「さすがに細かい音のバランスとかはずれてると思いますが」
と言いながら早速ピアノの試演奏に取りかかる。
き、きん、ぴ、ぴん、ぽん、ぼおん、と音の高い方から触っていく。途中気になった箇所の音のずれを確かめるように行ったり来たりしながら、全体的な音色を掴んでいっているようだった。
調律のされていないピアノの音色は、全体的に音が苔むしたような印象だった。
ぼわーっとしていて曖昧で靄に包まれたような、と言ったらいいか。ピアノの持ち味であるシャープさや冷たくクリアな感じが抑えられている。そして、やはりところどころで音もずれていて、もさっとしているので音が遠くまで響かない。のびのびしておらず、湿っぽくて倦怠感のあるアンニュイな音だった。
が、これはこれで彼の琴線に触れるものがある。
というより、彼の感性にしっとりと親しみ深く染みこんでくるようなよさがあった。その音の届かなさは、身近な人にだけそっと語られる、おじいさんが昔話をするときの声を思わせるものだったし、それでいて曖昧さを許してくれる日本のわびさびのような情緒が感じられた。一言にすれば、彼の予想した以上に癒やし効果がありそうだった。
そうして、彼は雨とピアノはよく似合うなと思った。
夏に飲む瓶ラムネやアイスキャンディーがたまらなく美味しくて、受験勉強の合間で深夜に食べるカップラーメンが臓物に染み渡るのと同じだ。彼はここに来る途中目にした黄色い長靴を思い出した。もはや彼にとって雨は楽しめるものではなくなってしまったけれど、芸術は雨を友とすることができるのだと彼は気づいた。ピアノはもちろん、読書であっても。
それは決して状況を変えたり、彼を救ってくれるような代物ではない。けれどただ寄り添って、ともに雨をやり過ごしてくれるのだ。そして雨の降る時間を音楽によって分かち合うことが出来る。彼は暗く冷たい雨の中に、そしてピアノの音色に、だからこそぬくもりや優しさのようなものを感じた。それはここに来るまでとは違う物の見方だった。
そうした新しい発見によって広がった価値観が彼の想像を自由にした。
鍵盤が叩かれてから音が出るまでにもたつきがあることから、なんだか音符の妖精みたいな、音を出す仕事をしている小人がだらだらしているような想像を膨らませた。それもそうだろう、こんなところにわざわざ人がやってきて、そのうえまさかピアノを弾こうだなんて思うまい。
・・・そんなことを考えている間も彼女は試演に余念がない。特にやることのない彼は教室の後ろに飾ってある音楽家たちの肖像画を眺めていた。するとくだらないことを思い出す。
「そういえば、俺の中学の先生は自分の絵をベートーヴェンの隣に飾ってました」
いくつかの鍵盤を確認していた彼女が顔を上げる。
「しかも一丁前にちゃんとそれっぽいカツラをかぶった絵なんですよ。音楽家の顔も名前も分かりはしないんですけど、最初にその絵を見たときは『当時の西欧で活躍していたアジア人もいたんだ』と思っちゃうくらいの出来でしたよ。結局すぐに『これ先生じゃね』とバレましたが」
「すごい、自分で描いたんですか」
「いえ、美術の先生と一緒に釣りに出かけるくらい仲が良くて、誕生日にプレゼントされたのを気に入って音楽室に飾ったらしいんです」
(もう随分昔のことみたいだな・・・)
大して歳月など経っていようはずもないのに、もうすっかり遠くに感じられた。そう感じるのは今日で二度目だった。フォルテを見かけたときと、今と。
(若いはずなのに、ずいぶんしみったれた考え方してるな、俺は)
いつも過去には戻れないことに追い立てられながら生きてきたせいかもしれない。そうすると、やっぱり自分は人より老いるのが早いのかも知れない。やたら年寄り臭い趣味をしていると〈イケメン〉に言われたのもそのせいだろうか。
(まあ、どうでもいいかそんなこと。少なくとも、今は)
そろそろ準備も終わっただろうとピアノの前に腰掛ける彼女に向き直ると、なにやら彼女の方もこちらを気にしている様子だった。
「どうかしましたか」
すると彼女はデートで初めて相手に私服を披露するときのような顔で俯きながら、
「その、そうやってまじまじと見られると弾きづらいというか・・・」
そんなことを言うので、彼もこれは悪いことをしたと思って、
「ああ、これはすみませんでした。じゃあ下の階で聴くことにします。それなら姿が見えないので大丈夫でしょう」
素直に部屋を出ようとすると、
「待って」
呼び止められた。
「なにもそこまで嫌なわけじゃないんです。今まで経験してきた演奏会と違うから、演奏会なんかより緊張するというかなんというか・・・」
歯切れは悪いが、なにやら照れや気恥ずかしさがあることだけは十分伝わってくる。
「観客は素人ひとりなのにですか?」
「・・・だからですよ」
その言い方に何かしら彼の鈍さを責めるような、ぷいっとそっぽを向く感じがあった。その様子を見て彼は一肌脱いでみることにした。
「よし、じゃあ俺が先に一曲披露しましょう」




