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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
5月28日
62/106

8-6:廃 墟《時計の針のとまった空間》


  *  *  *


 その一連の話を自分の今置かれた状況に重ねながら、彼はなにか尊い啓示でも得たような気がして深く感じ入っていた。

「ちょっと休憩するつもりで居眠りしたはずなのに、おかげでどっと疲れちゃって。本末転倒ですよね」

「なにはともあれ無事に帰ってこられて本当によかったですよ。貴重な体験もできたことですし」

「貴重って、もうあんな思いはこりごりです」

「でも、それだけのものを乗り越えたんですから、ちょっとは怖いものにも慣れたんじゃないですか?」

「まあ少しくらいは耐性ついたかもしれませんけど・・・」

 深く感じ入ってはいたけれども、おぼつかなさそうに話す唇を見ていると、からかいたくなる気持ちが起こって

「初対面のときはものすごくびっくりしてましたけどね」

 と言ってみると、ボン、と顔から火が出そうな顔になりながら抗議じみた険しい目つきでこちらの方を睨んでくるので

「すみません、すみません。冗談ですってば」

 駆け足で逃げようとしたけれど、相合い傘をしている手前彼女を置いて逃げ出すわけにもいかず、

「〈樹〉くんって、けっこう昔のことほじくり返す人なんですね」

 そっぽを向きながらチクリと刺してくるのを黙って受け入れるほかなかった。

 そうしてチクチクやられながらもつかず離れずの距離で歩いていると、目当ての学校に辿り着いた。


 体育館のありかは一目で分かった。ここならピアノがあるだろうと足を踏み入れる。すると、その瞬間急に気温が下がったような寒気に襲われた。

 その場所は、大震災の日そのままの姿を残していた。それは、タイムカプセルや冷凍のような整った保存のされ方ではなくて、荒れ果てたもの荒れ果てたままに示していた。生々しい当時のリアルな状況と、それが放置されてきた残酷なまでの時の経過を物語るものだった。

 壇上には「祝卒業」と書かれた垂れ幕が下がったが、染みができはじめていた。片方の壁際には軒並み波に押し流され、ぶちまけられたパイプ椅子がごちゃごちゃと積み重なっている。すっかり汚れて輝きもツヤも失った床には泥や動物の糞が点々とこびりついて思わず眉をひそめてしまいたくなる。

 かつてバスケ部やバレー部が日夜練習に勤しんでいた青春の輝きを、そこから読み取ることは困難だった。あるのはただ、これから新しい未来へと向かう門出の日に、その未来をあまりにも非常に奪い去っていった自然の猛威の爪痕だけだった。

 光景を平面にして切り取る写真とは異なり、当時の生きていたある瞬間が、この空間そのものに刻まれてるのだ。それは癒えることのない生々しい傷口を思わせた。それでいて決して時間から切り離されたわけではないから、塞がらない傷口が化膿するのと同じように、時の働きによって老朽化し、動物の糞尿に汚され、どんどん人間が過ごすにふさわしい場所から遠ざかっていく。

「これは、ちょっと、演奏できそうにはないですね」

 彼女が呟く。その視線の先にあるピアノも、泥や埃にまみれている。実際に触れるまでもなく、彼も同じ意見だった。

「他をあたってみましょうか」

 こことは別に、もうひとつピアノを置いている場所があるはずだった。その場所、音楽室ならば被害を免れているかもしれない。

「――?」

 踵を返しかけた彼が立ち止まる。

 常日頃こういう光景を見ると物思いに耽りがちなのは彼の方だったけれど、今回ばかりは珍しく彼女のほうがじっと立ち止まって壇上を見つめている。やはり、舞台の上のピアノを目にすると胸をよぎるものが多くあるのだろうか。そんなことを思いながら後ろ姿を見ていると、彼女が目にしているのがピアノではないことに気づいた。

 向けられた視線の先にあるのは「祝卒業」の垂れ幕だった。

 傍らにあるピアノ以上に彼女の興味を引く、心を刺激する何かがあの垂れ幕にはあるらしかった。それが大震災そのものがあった日付を指しているのか、それとも彼女自身の個人的な体験としての卒業式の日を意味するのか分からなかった。

 声を掛けようか迷っていると、彼女の方が彼を振り返る。目を伏せるその顔には自嘲の色が濃く陰っていて、さっき一緒に歩いていたときの快活さとはうってかわった哀しそうな顔で、

「人生、なにがあるか分かりませんね」 

 と言った。その目の色も、脆そうな空気も、自嘲に満ちた言葉の示すものもどうしてなのか彼は身に覚えがあるような気がしてならなかった。彼はその気持ちを知っているとは言えないまでも、自分の記憶の奥深くにも酷似した感情がいまだ疼いていることを確信していた。

「ええ、まったく。ほんとうに――そればっかりはどうしようもありません」

 たぶん、今自分は鏡に映しとったように彼女と同じ表情をしているのだろうと彼は思った。

 同じ過去を歩んできてなどいないのに。それぞれが苦渋と悔恨に満ちた出来事を経験し、そこから伸びる長い影にとらわれ、それを引きずりながらここまできたことを無言のうちに認め合った。そしておそらく、それこそが2人をこの場所に導き引き合わせもしたのだった。

 彼はそれを知りたいと思ったし、けれども同時にどうあっても手を伸ばすわけにはいかないとも思った。彼らは似たもの同士だからこそ等張液のようにお互いがよく馴染み、まるで溶け合うような親しい気安さに至ることだって不可能ではないだろう。

 けれども、もしそうなってしまえば、あまりに近づきすぎれば危険も生じる。

 きっと彼女の悲哀に触れてしまえば自分は耐えられなくなってしまうという直観があった。彼女の悲鳴に共鳴し、共振周波数を当てられたガラスのように砕け散るのだ。だからこそ、やはり、一定の距離を取る必要があるのだと改めて感じた。

「・・・・・・」

 ただ、それが正しいのだと頭で分かっていてもやはり未練は残る。虚しい切なさのためにやるせない気持にもなる。最も痛ましく癒やしがたい感情を誰よりも分かち合えるかもしれない、そして分かち合いたい人間をこそ、それゆえに遠ざけなければならないのだから。

 その悲運は、2人の孤独をよりいっそう深くした。



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