8-5:廃 墟《希望と煙草と夜の森》
彼らはカンテラの明かりを頼りに雨の中を歩いていた。
彼女は例にもれず傘をもっていなかったので2人で1つの傘を分け合った。どうやって濡れずにここまで来たのかは分からないけれど、いまさらそんなことは気にもならない。
すぐ横で彼女が、まるでため息をつく免罪符でもあるかのように紫煙をくゆらせている。それが彼には言葉にも声にもできない思いを煙という形で吐き出しているかのように見えた。
そんな思いで〈HOPE〉と名のつくそれを見ていると、希望というものも、案外こんなものかもしれないと思った。目に見えはするのに、決してこの手で掴むことはできず、そして依存性がある。『希望とは不治の病である』と言ったのはどこの誰だったか。
そう考えている間も、1人分の傘の下に2人も入ってしまっているので、どちらとも体の片側だけ雨に濡れることにはなった。傘を分け合う間柄にはなっても、まだぴったりと身を寄せあうほどの関係性ではない。
「まだ日は出てるはずですが、雨の日となるとさすがに暗いですね」
彼女がきちんと傘の下に入るように、心持ち傘をずらしながら彼が言う。
「このあたりは街灯やお店なんかもないですからね」
彼女もそれに気づいて、少し会釈しながら答える。
その分晴れているときは町中よりも星が綺麗にはっきり見えるという利点もある。ただ、空からもたらされる天然の明かりが雨雲に塞がれてしまうと、ちょっとおっかなびっくりするほど暗くなるという側面もあった。
「おかげでこの間すっごく怖い思いをしたんです」
と彼女が物騒なことを口にするので、
「なにかあったんですか」
つい身を案じて前のめりな態度で聞いてしまうと、
「ああ、いえ。怖かっただけで別になんともありませんよ」
自分の無事を示しながらも
「心配してくれたんですか?」
とイタズラっぽい目つきでニヤニヤしながら覗き込まれてしまう。
そうこられると強がって否定したくなったものの、それだとかえって子どもっぽくなるのは目に見えているので、
「まあ、その、お互い知らない仲じゃないですから」
やむなく言葉を濁した。
それからこの劣勢の空気をさっさと流してしまうべく、
「それで、怖いってなにがあったんですか」
と聞いてみる。するとそれ以上は彼女も追撃を加えてこず、
「怖いのは怖かったんですけど、あんまり期待しないでくださいね。
ほんと、しょうもない話なんですから」
そういう風にことわってから話し始めた。
* * *
それは彼女が彼に出会うちょっと前の話だった。
居心地のいい場所を求めてこの廃墟の中をうろついていると、とある森に行き着いた。たぶん、かつてキャンプ地として旅行客に貸し出されていた場所なのだろう。視界を埋め尽くすほどの森林の間に小さな木造の小屋が点在している、空気の美味しくて深呼吸したくなる森だった。
そこら中から聞こえてくる鳥の声も、頭の上から降り注いでくる木漏れ日も、彼女はすっかり気に入ってしばらくそこで過ごしてみることにした。
「いいですよね、森林って」
木や森や山と聞けば黙ってはおけない性質の彼がつい関係ない口を挟んでしまう。このほとばしる熱情的なパッションだけは彼の理性を持ってしても抑えがたかった。
「――あ、いや、すみません、怖い目に遭ったんですよね」
「いえ、さっきも言ったように全然ケガとかもなかったですから。・・・それにしても、やっぱり樹木とかが好きなんですね」
「ここまできたら軽い病気みたいなものかもしれません」
苦笑いする彼が話の腰を折ったことを詫びて促すと、彼女も続きを話し始めた。
「せっかくなのでその小屋のひとつに入ってみると、なんだか自分だけの別荘を見つけたみたいでわくわくするんです」
「それはすごく分かります。
俺も〈ウォーターフロントガーデン〉を見つけたときがまさにそんな感じでした」
「ですよね。やっぱり自分だけの隠れ家とか秘密基地って胸が熱くなりますよね」
「男はけっこうそうだと思うんですが、女の子もそうなんですか?」
「ロマンに男も女も関係ありません」
「なるほど」
それまでにさんざん歩き回って疲れていたのもあって、彼女はその小屋の中でちょっと昼寝をしてみることにした。寝心地は最高で、普段彼女が過ごしている部屋よりも熟睡できたくらいだったけれど、いかんせん寝心地があまりによすぎた。
目を覚ましたときにはあたりは真っ暗になっていたのだ。
もちろん人工的な明かりなどなにひとつありはしない。おまけに頭の上を覆っている、昼間はいい感じに日差しを和らげてくれていた木々が今度は月や星の明かりを遮るので頼りになる光源がなにもない。
すっかり真っ暗な中に取り残されてしまって、数メートル先も見通せなかった。自分がどこからやってきたのかもよく思い出せず、どこに向かえばここから出られるのかもまったく判然としなかった。森の姿は昼間のそれとは全く違って、昼間あんなに優しかった鳥の声も小動物たちの立てる葉の音すらも何から何まで怖かった。
「それはめちゃくちゃ怖かったでしょう」
「はい、ほんとに心臓もバクバクで助けを呼ぶにも呼べなくて、頭の中が真っ白だったんです」
「・・・一応聞いておきますけど、お化けとか幽霊は出てこないですよね?」
「出てきませんけど・・・苦手なんですか」
「苦手ならこんなところで一年間も過ごせませんよ」
「本当に?」
「・・・本当ですよ」
その後、彼女はすっかり怖じ気づいてしまって、小屋の中から動けなくなった。
動かなければ当然森から抜けられるはずもないので、いつまで経っても状況は好転しない。このまま日が昇るまで何時間もこうしていなければならないのかと思うと、ひどく気が滅入りそうだった。
ところが、ずっと暗闇の中にいるとだんだん目が慣れてきて、寝起きの時は戸惑って何も見えなかった部分も少しずつ見えるようになってきた。落ち着いて気を強く持ってみると、どこでもいいからとりあえずまっすぐ進んでみれば、ここから出ることだけは可能だという当たり前のことに気づいた。
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「ほんと、今にしてみればなんそんなことに気がつかなかったんだろうって感じですけど」
「でもありますよね。頭の中がうわーってなっちゃうとき。なんにせよ、ちょっと希望が見えてきましたね」
それから彼女はちょっと小屋を出てみた。
やっぱり些細な物音や鳴きもびっくりするけれど、じっとその暗いところで我慢していると、あることを発見した。暗闇は怖いけれど、見えなくて分からないけれど、分からないだけだった。別に森は彼女を殴ったり、ひどいことを言ってきたりはしない。森はただそこにあるだけで、夜の闇はただ分からないだけだった。
その「分からない」を自分が勝手に怖がっているだけだと気づいたとき、彼女は一歩を踏み出す勇気を得た。
とはいえ、怖いのものはやはり怖かった。けれども臆病なりに我慢しながら歩いているうちに、いつのまにか、最初はどこまでも続きそうだと思っていた森の終わりが見えてきた。抜け出してから振り返ってみるとそんなに大きな森でもなかった。なんだ、あんな小さなところで迷っていたのかとすべてが済んでから思った。思ったけれども、森の中にいたときは本当に暗くて怖くて、抜け出したときにはすっかり体中がくたくたになってしまっていたのだという。




