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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
5月28日
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8-4:廃 墟《ピアノを弾いてくれませんか》


「こんにちは」

 廃墟に到着すると、彼の部屋の前で待っていた彼女に声をかけられた。

「こんにちは。――あ、しまった。そういえば、雨の日に〈希〉さんがどこで過ごすかまだ決めてないままでしたね」

 彼も挨拶を返しながら、ひとまずドアの鍵を開ける。

「そうなんですよ。わたしもここにきてからそれに気づいて。結局あのときは途中でフォルテに出会ってわたわたしちゃいましたもんね」

「そのフォルテがさっき逃亡を企てたみたいです」

 逃亡、という言い方に不穏なものを感じた彼女の表情が強ばる。

「え、大丈夫なんですか」

「はい。すぐに見つかりましたよ。病院が嫌だったのか、近くに来てここが懐かしくなったのか、病院の入り口でいきなり走り出したらしくて。

 たまたまここに来る途中だったのでそのまま発見したんですけど」

 苦笑いを交えながら話す彼の横顔を見ながら、不穏な言葉の中身がちょっとした茶番だと理解して彼女の顔つきも柔らかなものに戻る。

「無事でよかったです。でも、それは大変でしたね」

「本人はけろっとした顔で尻尾振ってましたけど。せっかくだから撮りためた成長記録もお見せしますよ」

 ドアを開けて、彼女を部屋の中に促す。

 これだけ顔を合わせて置いて立ち話にこだわるのも野暮だし、連日の疲れもありいちいち肩肘を突っ張って頑なに人と距離をとるだけの気力も残されていなかった。

 彼女も一言も疑問をはさまなかった。

「お邪魔します。

 ――わ、キレイ。このあいだ拾ったもの、こんな風に飾ってくれてるんですね」

 ごく自然に初めて彼の部屋に足を踏み入れた彼女は、すぐさま〈樹〉の由来になった鉢植えと、その周辺の貝殻やビーチグラスの装飾に目をとめた。

「預かった素材がよかったので並べるのも楽しかったですよ」

 話しながらカンテラに明かりを灯そうとするが、やはりマッチが点かない。しまった、これから梅雨に入れば湿気もますだろうし、ライターを用意しておくべきだった。

「火、いります?」

「助かります」

 結局、この間と同じように彼女からライターを借りる。薄暗い部屋にどこか懐かしい暖色の明かりが満ちる。けれどそれを分かち合う2人の距離は、かつてよりも縮まっていた。

 それから、スマホを開いてフォルテの写真を見せようとしていると、

「なんだか、疲れてませんか」

 彼女がカンテラの明かりを彼の顔にかざしながら言う。

 普段そういうものは表に出さないように努めているつもりだけれど、傍の人に問われるほどに疲れているのか、それとも彼女の前だからつい気を緩めてしまっているだけなのか自分でも判断がつかなかった。

「久しぶりに慣れない運動をしたらちょっとがたがきて」

 あながち嘘は言っていない。

 すると彼女が遊び疲れて返ってきた我が子の、くたびれた顔と泥だらけの服を見たときの母親のような顔つきで、

「準備運動もしないでいきなり身体を動かしたんでしょう」

 と言い当ててくるので、彼の方も悪びれもせずにしれっと白状した。

「ええ、もう、全力で。おかげで盛大に転んでそこら中痛めましたよ」

「やっぱり。〈樹〉くんって大人しめな人だと思ってましたけど、そういう男の子っぽいところもあるんですね」

 彼は苦笑で頬を緩ませる。

「もちろん。周りを気にして隠すようになるだけで、男なんていつまでたっても中身は大して変わりませんよ」

 彼女に名前を呼ばれて彼はここでは自分が<樹>であることを思い出した。

 彼は、たぶん、あの<そよ風の庭>で、あるいは学校で、<××××>として生きていることに疲れていた。追われるようにがむしゃらに走り続ける人生に休息を求めていた。けれども自分が自分であることからは、人は一分一秒たりとも逃れることができない。

 だからせめて誰もいないところ、入ってこれないところに身を隠し、その立入禁止区域に自分のためだけの秘密基地を設定した。そこでは彼を彼の背負う名で呼ぶ者はひとりもいなかった。

 人は他者の眼差しによって定義され、関わりの中で役割を担ったとき初めて自分としての位置づけがなされる。彼は誰もいない世界の果てのようなこの廃墟で名前を捨て、誰でもない自分としてひとりきりで無為な時間を過ごしている時だけ、自分が自分でいていいという自由を感じることができた。

 それなのに、ここでもまた彼が<名前>を得てしまったことは、ある意味で皮肉だった。

 けれどもそれは、囚人番号のようなシステムに当てはめるための記号でもなく、社会の中で自分を押し込まなければならない肩書でもない。むしろ、この秘密基地でのみ通じる合言葉めいた無邪気な響きがあって、彼はその名を呼ばれることに少しこそばいような喜びを感じた。

 きっと、〈樹〉だなんてかっこういい響きのものでなくてもよかった。名前なんてものは、どんな言葉なのかよりも誰に呼ばれるかのほうが大事なのだから。

 またいつものように心によしなしごとを浮かべる彼を前にして、一体どういうことなのか、彼女も、〈希〉さんもまた思案顔で頬に手を当てていた。

「どうかしたんですか?」

 こうしてみると、彼女だって割かし分かりやすい表情をしていると思いながら聞いてみる。

「あ、いえ、せっかく時間だけはあるので、なにか疲れのとれることとかしてあげられるかなって考えてるんですけど・・・」

 語尾にいくにつれ次第に弱くなっていって

「んー、なんにも思いつきません」

 頭をちょこんと傾け、眉を八の字にして申し訳なさそうに笑う。

 その姿に彼はもう、たとえようのないほどの愛おしさとしか呼べないなにかを感じた。

 こうして話をしてくれるだけでも癒やされますとは口が裂けても言えない彼は、本当は言いたいけれど、それをぐっと飲み込んで代わりにかける言葉を探した。せっかく向こうから申し出てくれているのだから、ありがたく何かお願いしてみようかと少しだけ頭をひねってすぐに閃く。

「でしたら、ピアノを弾いてくれませんか? もし嫌でないのなら、ですけど」

 もうドレスは着ないと口にしたときの彼女が脳裏に浮かび、もしかすると古い傷に触れることになるかもしれないという懸念を抱く。もちろん、無理に頼むつもりはまったくなかった。


 ただ、彼の心に残っている、この間『猫ふんじゃった』で耳にした、彼女の演奏とその表情が彼にそういうお願いを口にさせた。

「でも、今は雨で上のピアノは――あ。桜を見に行ったときに言ってた学校のピアノでってことですか?」

「はい。たぶんあそこのならまだ弾けるんじゃないかなって」

 演奏すること自体の困難はない。問題となるのは彼女の意志だった。

「でも、そうですね・・・ピアノには癒やし効果があるとかって言いますし」

「そのとおりです。音楽の授業のときなんて、すっかりリラックスしてそれはもう眠かった記憶しかありませんよ」

「それはなんか違いません?」

 案外いいノリでツッコんでくれながら、少しだけ天井を見上げた後

「よし、頼まれました」

 と言って彼を向きガッツポーズを作る。

「いいんですか?本当に」

「もう、〈樹〉くんが頼んだんじゃないですか」

「それは、そうですけど」

「全然大丈夫ですよ。他にすることもありませんし、お役に立てるなら。

 それに――」

 善は急げと言わんばかりにさっそく歩き出していた彼女は、ドアのところで彼を振り返って、

「私のピアノ、好きって言ってくれたから」


 

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