2-4:廃 墟《廃墟と夕暮れの再会》
平穏を望んでやまない彼の期待通り、これまでのところは特になんの異常もなかった。
けれども昨日の一件が示すように、それがこれからの平穏をも保証するものではない。
少なくとも今日の彼には、部屋に着くなり鉢植えに水をやって窓辺のソファに腰掛け、心安らかに図鑑を眺められるだけの余裕はなかった。
すっきりしない彼の胸中とは裏腹に、廃墟を包む夕焼けは、あまりに穏やかだった。魔法のような鮮やかなグラデーションで、刻一刻と色が変化していく様子は、少しずつ夕日から空へと色が染み出していくかのようだった。
階段を昇る彼の靴音が響く。それを聴きながら考えてみる。
彼女は、昨晩どんな思いでここをのぼってきたのだろう。
こんな所にくるのは、たいてい社会不適合の烙印がお似合いのろくでもない奴ばかりだろう。〈仙人〉の鼻であり牙である犬たちに追い回される人間と自分との間に、そういった意味ではなんの違いもないと知っている。
彼女にしたってそうだろう。
煙草を吸っているからではない。こんなところに何かを求めてやってきたということは、こんなところにしか何かを期待できないことの裏返しでもある。廃墟の外の世界に対する挫折感と、それでも決して絶えることのない渇望が、どこにもありはしないものを求めて彷徨う人々をこんなところへと誘い込むのだ。
(――どうでもいいか、そんなこと。大事なことは1つだけだ。それを確かめに来た)
最上階にたどり着く。
ビルの下には「何も」なかった。「何か」があるとしたら、この部屋の中だろう。
目の前のドアは、閉ざされている。
たったそれだけでも不安がひときわ大きく脈打つ。彼は開けたまま帰ったドアを彼女があのあと閉めたのだろう。たったそれだけ。別段、どこにも奇妙なところはない。
それなのに彼が動揺したのは、それによって彼が今まで抱いていた現実逃避的な甘え――億にひとつは、あれが自分の夢うつつに紛れ込んだただの空想ではないか――がなんの変哲もない事実によって不意に打ち砕かれたからだった。
昨日と今日が決して無関係な一日でないことは、こうして必死に動揺を鎮めようとする彼の現在こそが動揺せざるを得なかった昨日の現実と、そこから現在へと伸びる、断ち切ることのない時間の連続的な繋がりをも意味していた。
(落ち着け。開けてしまえばそれで済む話だ。それで、すべてわかる)
彼はもはや事態が自分の管理や制御の範疇の外にあることを思い知った。
半分くらいは「どうにでもなれ」という気持ちでドアノブをがっと掴む。
口の中にたまっていた生唾を飲み干し、一呼吸いれる。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
彼はドアノブをゆっくり回して、観念したような気持ちでドアを開いた。
するとドアの向こうから、夕焼けのオレンジ色が瞳の中へ流れ込んできた。
「――!}
まぶしさに目が眩み、思わず左手を顔の前にかざす。そのままの状態で部屋の中に足を踏み入れて光源である夕日が見える窓の方を直視しないように身体の向きをかえる。すると少しだけマシになり、溢れだすほどの光の波に溺れていた景色たちが息を吹き返す。
はじめに、夕日にきらめきながら宙を舞い踊る埃たちが光の粒となって、この部屋にみちている空気の流れ目に見える形でを教えてくれる。昨晩は薄暗さのために見えなかったさまざまなものもこのときの彼の目にははっきりと映った。
重量感のある無機質な瓦礫や、鋭く光を反射してきらきらと華やかに輝くガラスの破片が部屋のいたるところに散らばっている。部屋の中央には、今は再び神秘のベールに覆われて魔法みたいな美しさを封じられて眠る水晶のグランドピアノ。
そして、そのピアノの向こうの窓辺に、ひとつの人影。
ちょうど夕日を背負うような位置におり逆光のせいで姿は見えない。輪郭だけが輝く茜色に縁どられて光っている。
彼がもう少し自分の立ち位置をすらしてみると、ようやくその全貌が浮かび上がり、ただのシルエットにすぎなかったものに色彩と表情が宿った。
彼女を照らす光が月明かりではなく、斜陽だからなのか、昨晩とはどこか違う雰囲気をまとっているように見えた。もっと、柔らかくて、儚いような。
そのとき彼は、彼女のは真夏の日差しよりも、こういう淡い光のほうがよく似合うと感じた。きっと、あまりにもまっすぐで明るすぎる光では、あまりにも多くのかけがえのない神秘が踏みにじられてしまうだろう。多くの正論が誰にでもある心の弱さや迷いや躊躇いになんの慈悲や共感も示さないのと同じように。
「こんにちは」
と、その人影――昨日の夜にここで出会った彼女――が声を発する。透き通るような高音だった。その声が、ほかになんの音もない部屋の中でコンクリートに反響し、非現実めいた余韻を空間に、そして彼の心の中に残した。
それは静まりかえった水面のような彼の心に落ちた一滴の雫のように甘い波紋を広げていくのだった。
その彼女が、天国の入口でずっと待ちぼうけしていた人をようやく見つけたみたいな微笑みでこちらを見ていた。