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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
5月28日
59/106

8-3:廃 墟《黄色の長靴と迷子の罪人》


  ◇  ◇  ◇


 相変わらず針のような雨が降りしきっていた。

 まだ夕方というのに雨に閉ざされた辺りはすっかり暗くなっていた。その暗闇をライトで削りながら進んでいく電車に乗っていると、なんだか自分が穴を掘っているような気がしてくる。それがそのまま墓穴になってしまうのか、日の光へと通じているのかは掘り抜いてみるまでは分からない。今はただ窓が水滴に打たれる音が聞こえるばかりだ。

(いっそ、このままどこか遠くへ行ってしまえたら――)

 彼のくたびれてぼんやりとした脳みそには、そういう意識の断片が浮かんだ。

 このまま、この電車の車輪が線路から離れ、車体は宙に浮き、そうしてどこにも記されていない場所を目指して夜の空を走り出すといい。もしそうなったら、その果てのない旅路の最後まで彼はずっとこの席を動かないだろう。

 一度も行ったことのない場所に、なにかひどく大切な物を置き忘れてきてしまったような気持ちを抱えたまま、果たせなかった約束も、解けないままいじくり回したパズルも捨てて、そうして正体をすっかり失くして誰でもない者へとなってから、星々が見守る分解不可能な紺碧の夜のなかに熔けてしまいたい。

 そうすることができたならば、自分のすべては救われるだろうか。

 消えない痛みも、忘れられない過去も、避けようのない未来のことも。

(きっと、そんなことはありえない)

 もとより、嘆くだけの資格をもたない身の上なのだ。救いなど願うべくもない。

 まして自分自身を哀れんで自らを救われるべき人間だのと侮蔑することは、これまで自分に手を差し伸べてくれた全ての人々に唾を吐くことになる。

 そういう思いが、つい、降りるべき駅を知らんぷりして通過しようとする彼の浅ましい逃避願望を意思の力でねじ伏せた。

 電車を降り、駅から歩いて廃墟へと向かう。

 すると、下校中の児童と思われる数人の子どもの姿が彼の目に入ってきた。

 その子らはそれぞれ明るい色彩の傘や、雨合羽や、長靴をみにまとい、子どもらしい楽しげに弾んだ声を上げながら水たまりで遊んでいる。その中の、黄色の長靴を履いた男の子の、いかにも楽しくてたまらないと顔に書いてある無垢な笑顔が彼の汚れた心に小波を立てた。

 ――自分にも、あんな時期があったのだ。

 こういう感慨が彼の胸に湧き上がった。

 あんな風に、雨を楽しみ、水たまりを跳ね回ることのできた時期が。

 けれども今は時の流れに運ばれて年を取り、どこかに無邪気さを落としてきた。あの黄色の長靴はもはや彼には小さすぎた。彼は10代にして老いのようなものを感じた。

 日々の生活の傷や汚れを目立たないように磨いたりなんなりしてどうにか誤魔化したローファーを履きつぶしながら歩く彼には、水たまりを楽しむことなど不相応な叶わぬ願いだった。

 だからこそ、背中を曲げ、足下を気にしながら水たまりを避けて歩く。ところが、久しぶりに勇気を振り絞って踏み出した一歩がぬかるみにはまり、気がつけば泥水のなかに倒れ伏してしまっているような有様になっていた。

(自分には自分の靴があり、歩むと決めた道がある)

 楽しげな笑い声を置き去りにして、彼は胸の内でそう呟いた。

 歩きながら、彼はまた考える。

 きっと、あの黄色の長靴が彼にとって小さすぎるように、彼の目指す理想は卑小な彼の存在に比べて、あまりに大きすぎるのだと。けれど靴のサイズを自由に変えられる魔法なんてないのだから、自分の方が靴に見合うくらい大きくなるしかない。

 そうかと言ってちっぽけな人間を大きくする方法とて存在するはずがないのだから、身の丈に合わない大きすぎる靴を我慢しながら履いてよたよた歩くか、靴など捨てて足の裏を血だらけにしながら裸足で歩くよりほかはない。

 そうして、それこそがここ数日の間ずっと考えつめてきたことでもあった。

 考えに考えつめ、そして考え抜いた末に、彼は靴など捨ててしまおうかと思い始めた。薄っぺらい理想や無責任な綺麗事の押しつけなど、受け入れられようはずがない。となると、自分の立場や役割などかなぐり捨てて、生身の、そして等身大の自分でぶつかってみるのがよいのではないだろうか。

 もとより、他人と向き合うということは、その人間が背負ってきた人生とそれによって培われた人格や価値観と向き合うということでもある。言い換えれば、それは向き合う彼自身もまた同じものが問われていることを意味する。

 「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている」という言葉が示すとおりだ。向き合うことによって武井大河の弱点に触れてしまっているときには同じように彼自身の欠点も武井大河によって触れられることは免れない。

 だとするならば、鎧ったり隠したりしようと企むことにそもそもの無理があるのではないだろうか。傘の下で自分のローファーを見つめながら彼はそんなことを考えていた。


 ようやく散らかっていた頭の中がまとまりはじめたとき、彼の視界に見慣れた愛くるしい姿が飛び込んできた。

「フォルテ?なんでこんなところに」

 驚きながら抱き上げる。

「逃げてきたのか。でも、なんで――」

 ホームからここまではかなり距離がある。何があったのかは知らないが、誰かに伴われて外出してきたときに、隙を見て逃げ出したと考えるのが妥当だろう。

 だが、うまく振り切ったとてどこへ行っても人間で溢れるこの世界だ。どこに犬にとっての行き場などあるだろう。そのことに気づいたときに、

「・・・迷子なのか?お前も」

 彼は濡れた体を撫でてやりながら、ついそんな風に語りかけた。

「だったら俺と同じだな」

 口に出して、ふいに泣き出しそうな気持ちになる。

 彼の普段を知る人間の前では見せられない自嘲も弱音も、澄んだガラス玉のような瞳の前ではさらけ出すことができた。裏を返せば、そういうものの前でしかありのままの自分をさらけだすことができなかった。

 だが、いつまでもそうはしていられない。

 首輪やリードをぶら下げたままの姿を見ても、そう遠くない場所にホームの誰かがいてフォルテを探しているに違いない。さっさとフォルテを返して安心させてあげたいけれど、本来バイトに行っているはずの自分がこのあたりをうろうろしているのもおかしい。

(まあ、仕方ないか)

 こんなハプニングに遭遇したのが運の尽きだ。

 あとはなりゆきにまかせよう、とその場に立ち待っていると、

「おーい!〈罪人〉くーん!」

 〈旦那さん〉が駆け足でやってきた。

「あー見つかってよかった。いきなり逃げ出したときはびっくりしちゃったけど、そんなに病院が苦手だったんだね」

「あ、そういえばここ一ノ瀬病院の近くでしたね」

「そうそう。捕まえてくれてありがとう」

「いえ、捕まえるだなんて。勝手に向こうからやってきただけです」

「そうなの?まあなんにしても無事でよかった」

 と、〈旦那さん〉はいかにも安堵したふうにほっと一息つく。

 その旦那さんに、最近ちょっとずつ体が大きくなってきたのを感じながらフォルテを渡していると彼は思い出したことがあった。

「そういえば、最初もこんな感じだったんです」

「最初って、拾ったときのこと?」

「はい。場所もこの辺りで、こんな風に雨が降ってました」

 あれからまだそんなに日にちは経っていないはずなのに、もう随分昔のことのように感じられた。

「だったら、逃げたんじゃなくて、思い出の場所に立ち寄ってみたくなっちゃっただけなのかもしれないね」

 〈旦那さん〉の言葉に、本当にそうだといいなと思いながら彼も頷いた。

 彼はこの場所であの日のようにフォルテと会えたことで忘れかけていた大切なことを少しだけ思い出すことが出来たような気がした。

 ・・・その後、バイト先まで送ろうかという〈旦那さん〉からのありがたい申し出を受けて、実は今日はバイトではないと正直に白状した。すると〈旦那さん〉は何かを察して「ホワイトボードに間違ってバイトがあると書いてしまった」ことにしてくれた。その好意に感謝しつつ、彼は廃墟にやってきた。


 

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