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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
5月28日
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8-2:学 校《風前の灯火と虚無の黒い渦》

 

 沼から抜け出そうとすればするほどに、より深くはまりこんでしまうのを自覚し始めていながら、それでももがくことをやめられなかった。

 善人たらんと願うほどに自分を弱い立場に立たせることになり、たえず自ら信じるものが相対化され、ついには自分の不純や偽善まで疑うことになった。

 正しくあらんと欲するほどに正しさとはなんなのか、それは誰にとってのものなのかがわからなくなり、正しくあれない自分自身の欠点ばかりが目につくようになった。

 まるで井戸の底から空を見上げているかのようだ。光は見えているのにどうやってもそこに辿り着くことは出来ない。

 ならばここがどん底かというと、そんなことありはしない。およそ生活というものに、底などという生ぬるいものは存在しない。ここが底だ、もう安心だこれ以上落ちることはないなどと甘えたことを考えているとその愚かさ故にとんでもないしっぺ返しを食らうことになる。力を抜いて投げ出してしまった瞬間に、それはやってくる。さっきまで平らだ、ここが地面だと思っていた場所が急に傾いたかと思うとものすごい勢いで奈落の坂を転げ落ちてもっと深い、暗いところに落とされる。そして、その場所もまた、その場所ですら、どん底ではない。

 だからこそ彼は握りしめている希望が、たとえ蜘蛛の糸であれそうやすやすと離すつもりはなかったけれど、まったく同じ事が理想というものについても言うことが出来た。

 あの電信柱までは頑張って走ろうと思って目指す。なんとか辿り着く。すると、もうすぐ目の前に次の電信柱が見える。また目指す。辿り着く。その繰り返し。思いつく限り一番高い山を目指し、骨を折り身に鞭を打ち登りつめてもさらに高い場所が待っている。なんとかあそこまでは頑張ろうと思っても、終わりなんてないことに気づいたとき、完璧なものなどない世界で、すべては相対的な立ち位置にすぎないと知った彼は、呆然と立ち尽くしてしまいそうになった。

 それでも、すべてを投げ出すという最悪の事態を回避するために「進み続けることこそが自分の生きる意味であり理由なのだ」と言い聞かせてきた。いつだって諦めそうになる半歩手前のところで、意味にすがり理由で自分を縛ることでなんとか気を強く持ち続けてきた。

 ところが、彼がこれから取り組まねばならないのはその生きる意味であり理由としてきたものを捨てることだった。

 それは決して容易なことではなかった。

 たとえそれらが不純物を含むにせよ、まがりなりにも彼の心の支えであり精神の背骨でもあったのだ。ともすれば弱さのためにくずおれそうになりがちな彼を立ち上がらせ、ここまで歩かせてきたものでもあった。

 それを手放したが最後、何物でもなくなった彼は糸の切れた凧のように生きる理由を失ってしまうだろう。そうして弱さに全てを委ねてどこまででも、あてもなく漂ってしまう。ついには、そのまま返ってくることなどないかもしれない。

 それはほとんど彼を恐怖させた。

 名前のない場所にひとりきりで放り出されて、真っ黒な海原が足下で砕けんばかりの轟音を立てながら巨大な渦を巻いているかのようだった。それに飲み込まれたらおしまいだと彼は思った。そうなってしまったら、きっと自分は二度と帰ってこられない。

 過去がまだ美しい肖像であるうちに、追憶がまだほの温かな光源であるうちに、すべてがあの黒い渦に飲み込まれてしまう前にいっそ引き返してしまおうかと本気で悩んだ。

(馬鹿なことしてるのかもな)

 考えれば考えるほど苦悩の沼に深く沈み、ついにはふがいない自分だけでなくだんだん不良にまで腹が立ってきた。常日頃されていることにも怒りが湧き、なんでこんな目に遭わなければならないのかとすら思い始めてくる。彼が自分で始めたことなのに。それに気づいて彼はまた責任転嫁をしたがる器の小ささと自分で決めたことを貫くことすらおぼつかない心の弱さを目の当たりにして、余計に目指す物が遠くに感じられた。やるせなさを覚えた。

(やめときゃよかったかな)

 だんだん色んな事が馬鹿らしく思えてくる。理想がなんだか滑稽に見えてくる。自分自身を騙しながら〈偽善者〉として生きていくしかないのだろうか。筋の通った生き方に憧れていたけれども、なかなかそうはなれない。諦めてまた平穏だけを求める日常に戻ってしまいたいけれども、それこそ本当に〈半端者〉のようでみっともないなと思う。そうかといって不安と決別する覚悟も決めきれないでいる。

(でも、形だけは理想を真似た行動を取る今も十分に〈半端物〉か)

 こうありたいと思うのになれない。こう思えるようになりたいと思うのに辿り着けない。 

(・・・・・・やはり俺なんかじゃダメだろうか)

 理想を掲げてそれに殉じるにはあまりにも汚れすぎているし、目も濁っている。そんな自分を汚らわしく想いながらも、それは切り離すことは出来ない自分の一部であり昼夜つきまとう影にほかならない。

 なにも、わざわざ人を傷つけようとは思わないのだ。

 できることなら仲良くなりたい。

 叶うならば力になりたい。

 ――もし許されるのなら、人の支えになれることを願いたい。

 けれども、それによって起こるすべてを受け入れきれるかと言われれば容易には首を縦に振れない。恥じ入るように俯いてじっと足下を見つめるまではできても、顔を上げて相手の顔をまっすぐに見つめて己の誇りと覚悟とを示すことは出来ない。

(身の丈に合わない、過ぎた願いだったんだろうか)

 当たり前のことかも知れない。

 何をそんな当たり前のことに頭を悩ませているんだと言われるかも知れない。奢りだと、そんなものは傲慢といわれるかも知れない。それでも目の前に起こる森羅万象が絶えず目を背けることの出来ない彼分自身の実態をその眉間の先につきつける。

 〈専門家〉や〈不良〉に対し、あんな奴ら、と言いたくなってしまうそのときに、その人たちによって自分の中の何かしらが揺さぶられていることに気づく。その時に、そんなことで簡単に揺らいでしまう彼自身の脆弱な基盤を目の当たりにする。そして、途方に暮れた彼はこう思う。

『――俺はまだこんなにも張りぼてのままなのだと』

 自己批判を続けるほどに分析過多となり身動きがとれなくなる。自らの不純や偽善を疑い続ければ、薄皮をむき続けた果てにはただの虚無しか残らないような気さえする。

 それなのに、彼の胸には今なお消えない光があった。

 目指す物が、霧の中でかすかに輝いているのがかろうじて見えている。それは幻かも知れない。千里先の蜃気楼を追うのと変わらないかも知れない。けれどもそこに辿り着きたいという思いは、やっぱりあった。どうあっても決して消すことの出来ない光だった。

 辿り着けるから目指すのではない、辿り着きたいから目指すのだ、と思ってもみた。

 けれどどうすればいいかと問われると、やはりわからない。

 わからない・・・・・・

 わかりたい・・・・・・

 そうこうしているうちにチャイムが鳴った。

 彼ははっとして顔を上げた。血の気が失せる思いだった。時計の針が、まぎれもなく数十分が経過したことを告げている。雨は授業開始直後よりもひどくなっている。

 彼がうろたえたまま視線を落とすと、そこには何の成果も示さない白紙のノートが開かれているだけだった。

 彼はまだ、灰色の水たまりから身を起こせないままだった。


 

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