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廃墟と春の庭  作者: 石上あさ
5月28日
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8-1:学 校《やまない雨と胸に刺さる言葉》

 

  ◇  ◇  ◇


 笑い方さえ忘れてしまいそうな日々が続いていた。

 悲しみの底で泣き出してしまいたいような気持ちだった。教室の窓の外で街をびしょ濡れにする雨雲を、そのまま胸に入れられたように彼の心は陰鬱に沈むのだった。

 そうして教師の話も聞かず考えごとに閉じこもって、ここ数日の出来事を振り返っている。

〈不良〉からの仕打ちは、日夜苛烈さをましてきている。〈ガリ勉〉から向けられる軽蔑の眼差しも時を重ねるごとに冷徹になっていくのが愚鈍な彼にさえヒリつくほど肌で感じられた。

(――いや、笑い方を思い出せないのはもとからか)

 窓を打ち続ける雨。いつまでたっても止みそうにない雨。

 もとから、数年前のあの日から、幼かった頃のようには笑えなくなった。そしてかつて純粋だった時のように笑うことは、こらからも二度と出来ないだろうとも思っていた。

 けれども進む。

 戻ることなどできないとしても、後悔だけはしないように。そう思って、ここまでやってきたはずだった。それなのに、ここにきて進むべき道が再び分からなくなってしまっていた。

 彼をこうも悲観的な感傷に引きずり込むのは日々の疲れと周囲の無理解だけではなかった。自分のやっていることの結果が見えない焦りと、先の展望についてなにも確かな物がない不安も、またあったのだ。

 それだけならまだ強がって進めるだけのしぶとさも持ちあわせているはずだったけれど、その鼓膜には数日前の〈ガリ勉〉との会話がこびりついて離れない。あの、極めて論理的で厳格かつ公正な倫理観の持ち主は、理想に届かないことは承知の上で、しかし守るべき生活があると言っていた。そして彼も、そのことをもっともだと思った。

 武井大河という人間がいなくなったところで幸福は訪れはしない。

 しかし、平穏を取り戻すことはできる。それこそ彼が切望していたものでもあった。やがて時が経ち、痛みも癒え、また新しい住人がやってきて新しい生活が始まる日がくるだろう。そして武井大河という人間がかつてここにいたことなど、その後どうなったのかなど日常に塗りつぶされて忘れ去られる日が来るだろう。

 あるいは、ふとしたときに何かしらの哀しみのようなものを覚えることだってあるかもしれない。しかし、それでも変わらずに生活を続けていくことはできるだろう。

 彼には、それを否定することがどうしてもできなかった。

 実際、〈不良〉は明らかに確認することが可能な客観的な事実だけを挙げれば、反抗的で粗暴な迷惑きわまる存在でしかない。自分たちの生活を大切に思い、その存在を拒むことをどうして責められよう。

 そう頭では考えながらも、彼はどうしても〈不良〉を追放すべきとする意見には賛同できないままだった。

(――〈半端物〉、か)

 〈ガリ勉〉に言われた言葉が、いま耳にしたかのように鮮明に響く。

 まったく人は誰しも矛盾を抱えているというのに平気で図星をついてくる。そもそも、人間というものは混沌とした生き物なのだ。だからそれが2人、3人と集まればどうしたって複雑さが生じるし、その中で誰にも肩入れせずに共生する道を探せば葛藤に陥るのも致し方ない部分があるだろうとも言い返したくなる。

 でもその通りだ。

 あちらを立てればこちらが立たない。こちらを立てればあちらが立たない。こちらもあちらも立てようとした末に、自分の立つ瀬を失った。そうして立ち往生する彼の有様はまさしく半端物のそれだった。そういう不甲斐なさに腹立たしい気持にもなる。

 そのうえ、彼は自分のことを〈偽善者〉であるとも考えていた。

 それは「なぜそこまで大河にこだわるのか」と問われたときに明らかになった。あのとき彼は「こだわっているつもりはない」と答えたけれども、内心ではいくつかの心当たりがあった。

 彼は初めて武井大河という人間と会ったとき感じたのだった。その、この世すべての愛情と善意とを偽物だと決めつける剃刀のような目つきが『まるで昔の自分みたい』だと。それから理屈でいくら誤魔化そうとしても、気になって仕方なかった。

 その事実が2つの疑いを生んだ。ひとつ、自分が武井大河という人間を利用してもういもしない過去の自分を救おうと試みているのではないか、ということ。ふたつ、他人を見捨てるという罪を自分だけはこれ以上重ねたくないがために頑なにエゴを貫き通そうとしているだけなのではないか、ということ。それらは頭では正しいと分かっている〈ガリ勉〉の意見にどうしても自分が賛成しかねる理由として十分に思われた。

 そしてその行動原理は、あの〈専門家〉とまったく同じだった。

 〈専門家〉は自分が優秀で善良な人間であると他人に思い込ませたいがために、心にもない歯の浮くほどの無責任な美辞麗句を並べ立てる。社会正義とかいう棍棒を行政や現場の人間に振りかざして、誰にでもある欠点を執拗に痛めつけては自分こそが正しいのだと悦に浸る。

 そして彼は罪を減らしたいという思いのために少しでも多くの善行を積もうとし、これまでも破滅的な自己犠牲をあえて行い続けては挫折を経験した。そして今は過去の亡霊を他人に投影しては、それを通して現在の自分を慰めようとする虚しい試みに周囲の人間まで巻き込もうとしている。

 〈専門家〉が他人を騙し、優越感に浸ろうとするのに対し、彼は己を欺き、少しでも罪悪感を軽くしようとしているに過ぎなかった。


 そう考えてみれば腑に落ちることもあった。

 だから、彼はあんなにも〈専門家〉のことが目障りでしかたがなかったのだ。

 誰のこともできるだけ憎もうとせず、責任を常に自分に求めようとする彼が、怒りや恨みを抱いてもそれが本当に正当性のあるものか反省しようとする彼が、どうしても専門家だけを許せなのには理由があった。

 つまり、彼は他ならぬ自分自身の欠点と同じ醜さを〈専門家〉の中に見いだし、それをなによりも憎んでやまなかったのだった。

 一番嫌う人間というのは、もしかするとその人自身に一番似ている人なのかもしれない。あまりにも遠すぎる人間は共通点がない故に理解が及ばず、ゆえに気にもならないが、自分と同類の人間は自らの欠点をあぶり出してしまうのでついムキになって視界から消したがる。

 彼は、そしてだからこそ、今のままの自分を変えることがかなわない限り、理由や意味にすがり続けている限り、決して〈不良〉には届かないのだと思い知る。あの鋭い眼光はそんな薄っぺらな自己防衛のための虚飾はたやすく貫いてしまう。そもそも、彼の義務感や強迫観念など相手にしてみればどうでもいいどころか迷惑千万きわまりない話なのだ。

 そんなことを考えていると、きまって胸に浮かんでくるのが「事件」の日に〈不良〉が〈わんぱく〉に見せた、あのためらいだった。

 言葉の通じない、心も届かないケダモノではないはずだ。

 花の可憐さを知り、虹の美しさを感じることのできるのに、なにかに追い詰められてそれを踏みにじることしかできなかったのだとしたら、一番苦しんでいるのはこんなことに躓いている自分ではなく、あいつ自信なのではないかという思いが強くなってくる。だとしたら、なおさら叱責や攻撃を加えるべきではない。

 それとも、あれすらも自分自身の願望が事実を歪めて見せた幻影にすぎないのか。


  

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